第2話 中押中編
匙は投げられた。
◆◆◆
「あちゃー、やっちゃいました」
肌色のお面ごと頭を傾けて、ムーはがっくりとうなだれた。「もうちょっとこう、上手くいくと思ってたんですけど」などとぼやいているが失敗は失敗だ。
「ほらみろ、もうこれ以上は出してやんねえかんな」
「……別にいいですよ。全然、悔しくなんかありませんから。大体、こういうちまちましたことは
さりげなく酷いことをさらりと言っておいて、ムーは手にしたそれを懐に入れた。これはポイ捨てしないらしい。
「そもそも、どうして歩きながら型抜きやろうなんて言い出したんだよ」
事の起こりは数分前だった。五寸釘でラムネ板から型を抜き取るあれを歩きながらでもやりたいと言い張ったムーをどうして止められなかったのか。
祭り定番の型抜きは、柄は当然可愛らしい動物などではなく、奇妙な幾何学模様が描かれていた。何か意味はあるのかと問いかけたら、「射的の逆版だと思ってください」という曖昧な返事が返ってきた。苦し紛れのようにも見えたけど。
「まあ、失敗しちゃったんで、もうこれは諦めましょう」
とムーは一人頷いた。
「何か狙いがあったのかよ」
「思い出して欲しいことを思い出させるんですよ、これは」
「へえ。お前何か忘れたことでもあったのかよ」
「いえ、ぼくじゃあないですよ」
お面の後ろでからからと笑う声が漏れてきた。
「まさか、俺が帰りたくならないような思い出でも掘り起こすつもりだったのか?」
ふざけて尋ねたつもりだったが、ムーはいたって大真面目だった。むしろ慇懃無礼かつご丁寧に嫌味を貼り付けて返してきた。
「そんなわけありませんよ。ぼくがそんなに手河理該のことを気にかけてるとでも思いました?」
ムーの言うことはもっともだった。加えてこれどんどん警戒する流れじゃなくなってる。こんこんと、こめかみを叩いた。まじこれどうしよう。何だかんだ言いながら、さっきもあのヨーヨー買ってあげちまったしな。我ながら決意してからの意志が弱すぎる。
水ヨーヨーは極彩色で、棘のような突起物がたくさん付いておりドリアンのような見た目だった。極彩色のドリアンといってもいい。ていうか、ゴムでできたドリアンかもしれない。中から時々悲鳴のようなものが聞こえるが、うん、まあ、気のせいだろう。
「で。手河理該」
そう俺の名を呼んで、ムーは尋ねた。
「そんなことを急に言い出したってことは、帰りたくなくなったって捉えてもよろしいんでしょうかね?」
子どもっぽい声。無邪気な風だが、どうだろう。だけどなあ、俺もそろそろ警戒するのが面倒臭くなってるんんだよなあ。
訊かれたことをスルーするわけにもいかないので、
「いや、そんなわけねえだろ。とっとと定期券返して欲しいくらいだっての」
と答えておく。
「なあんだ、そうなんですか」
「当たり前だろ。俺は俺なりに高校生活送ってんだよ」
「……本当ですかー、それ」
からからとムーは笑う。風車が回っているかのようだ。
「帰りたくなくなったら手河さん、遠慮なく言ってくださいね」
「何言ってんだよ。そんなわけねえだろ」
「……。ですよねー」
じゃぼん、とヨーヨーが揺れた。
心なしか少し、寂しそうにすら見える。
いやいやいや、でも待て落ち着け俺。これ同情誘ってなんたら作戦とかっていう可能性大だかんな。
恫喝こそしないが同情なんてする必要は全くない。あっちから物を盗ってきておいて優しくされることを求めるなんてそれこそ厚かましい。相手が子どもだろうが年寄りだろうが、同年代だろうが、そこんとこに容赦はないのが俺だ。そこまで優しくはなれない。
だから少し茶化すように言ってやる。
「ま、帰ったって脳味噌ほとんどねえからなぁ……。今後の生活とか上手くいかねえかもしんねえけど……。でも、ここに残るって言ったってどうすんだよ。お面がいるんだろ? なんか知らねえけど」
本当、今思えば何でムーが撃った俺の脳味噌全部持ってこなかったんだろう。もうポケットに残ったこれしか俺の脳味噌はないっていうのに。その辺の警戒心とか思慮深さとかも全部置いてきてしまったんだろうか。
そういうことを考えていたが、ムーは全く違ったリアクションを見せた。
「お面……?」
「おう。そうなんだろ?」
「ちょっと、それ、誰に聞いたんですか?」
一変して食って掛かるようにムーは俺に向き直った。つい立ち止まってしまう。人ごみは俺たちを煩わしそうに避けていくが、それを気にしている場合ではない。
「え、誰って」
しまった、と思ったのはちょっと遅かったのかもしれない。こんこんとこめかみを叩いて、どうにかいい考えが浮かんでこないものか思案する。ムーには
「お面が要るなんて、ぼく一言も言ってないですよね?」
「お、おう」
落ち着いた冷静な大人っぽい声にムーはシフトチェンジ。これは俺も知らない声だが。一方俺は声が裏返りそうになるのを抑えるのに必死。
「どういうことですか」
「さ、さあ。俺もあんまよくわかんねえけど? ……その辺歩いてる奴が、そんなこと、言ってたっけ?」
目をあさっての方に逸らす。目指していたはずのクレーンのような建物は、かなり近づいている。
ムーはぼそっと、「余計なことを」と呟いたが明らかに俺の耳に届いていた。
そして、短く嘆息した後に、
「いいでしょう、手河理該。この際だから、案内しましょう」
すぱっと割り切った声。
「どこに……」
「お面屋ですよ。この先にあります」
じゃぼんじゃぼん、と再びムーはヨーヨーを降り始めたが、最早似合っているアイテムとはいえなかった。違和感の方が大きい。
思ってもみない提案だが、ちょっと待て。
「それ、俺がここに残ること前提でお前言ってるよな? 俺さっき帰るって言ったし、お前だってあのクレーンのとこに着いたら返してくれるって約束したじゃねえか」
「ええ、おっしゃいましたしぼくもそう言いました」
それに違いは御座いませんとも、とムーは少し足早になる。
「はぐれないでくださいね、手河さん」
絶対に、はぐれないでくださいね、と繰り返す。
ムーはじっと、俺の顔を見つめた。いや、まあ、お面でさえぎられているから本当にじっと見つめられているかどうかはわからないんだけど。俺の顔に、目と鼻と口と眉以外に何かが付いてるんだろうか?
「手河理該」
改まって、ムーは告げる。
じゃぼん、とヨーヨーが揺れる。激しく。
中から、「ぷぎゃっ」と声が漏れたような気がした。
「多分、気づかれてしまいました」
ムーは、若干、焦りを含んだ声で。
「気づかれるって、何に?」
誰に、とは敢えて聞かなかった。事実を避けたかったのかもしれない。何となく、本当に何となく。自分の身を本気で守ろうと思ったら、ここは何に、ではなく、誰に、と聞いたほうがよかったのだろう。
その証拠に、ムーは、
「……カンダタ」
なんていう。全く訳のわからない単語を吐き出した。小声で。できるだけ俺の耳には入れたくなかった、とでも、言いたげに。
ムーはそのままふい、と背中を向けて、付いて来い、と言わんばかりに先を歩いた。
どうにもしようがないから、付いて行くしかないんだろうか。……ほら、例えば、後から忍び寄って首の後ろでもはたいてやったらあっさり気絶してくれるんじゃなかろうか。気が引けないといったら嘘になるけど。それでも、自分の身を、本気で、守りたいなら。さっと叩いてさっと逃げれば、元の道を引き返すんだ。全力疾走。これでも元陸上部だろ俺。怪我で引退したわけじゃねえし。
今なら、まだ帰れる?
…………………………………。
そっと、後から、手を、手刀にして、
ムーの、首に、
「手河さん!」
ばっ、とムーが振り返った。咄嗟に手を引っ込める。
「……ああ、よかった。あんまり静かに付いて来ないでくださいよ」
「お、おう……」
気づかれては居ない、が。
「心配しますから」
本当に気遣うような、ムーの声に湧き出した罪悪感。とめどなくなく噴出する罪悪感。
果たしてどこまで本心なのか。
ここまで気遣われながらも疑うことを辞められない俺のほうが、どうかしているのか。
ムーのヨーヨーは、あんなにも赤い色をしてなかったように思った。
◆◆◆
悪かったのは俺だったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれないけど、後になってみればそんなことはどうでもよかった。
誰だって自分の命を脅かされたら必死にもなる。
俺は怯えたフリをしたし、もしくは相手を追い詰めているフリもした。
選択を間違えないためだ。
自分が正しいという、選択。
陥れるつもりは全くなかった、というフリをした。
本当は最初から計画的にことを進めてきたし、言い訳は数パターン用意しておいたし、それに、誰からも非難されない準備は整えておいた。十分に。なにかを発言する前に、逆に問い質される前に、先手は十分に打った。
お前は絶対に俺を赦しはしないだろうがそれだってわかりきっていたことだし、俺も赦されることを望んじゃない。
会う度に人が変わったような俺を、お前は実際のところ気味悪がっていただろう? それに気づかないほど俺は鈍感じゃなかった。お前のことは大事に思っていた、それは嘘じゃない。嘘じゃないはずだ。
好きだ愛してるなんて口が裂けても言えなかった代わりに、せめてお前に見合うような人であろうとした。
お前に首を落とされるのを待つまでもなく、俺は俺自身の首を挿げ替えていたんだから。
仕方なかったんだよ。
仕方なかった。
そうやって責任逃れするために、また首を挿げ替える。
いつの間にか木偶箱には、切り捨てた俺の首ばかりがぎっしり詰っていたなんて。
手詰まりになって、なにかかのフリをするために首を挿げ替えて。
口論の末にさあ、自分が街の胃袋の中に落ちたって、
なにかに寄生しているよりかはずっとマシだと思ったからなんだ。
知らない内にぬかるみに落ちていたのは、俺だったのに。
◆◆◆
「逆転の、それも下克上を狙うなら、手河理該ならどうしますか?」
唐突に、ムーは俺に尋ねた。
「逆転?」
そう、とムーは俺に背を向けたまま頷く。
「一世一代の大逆転。いっそギャンブルといってもおかしくはないほどの下克上」
「機会を待つ、かな。相手が油断したその瞬間、ってやつじゃねえの? 絶好のタイミングは」
「果報は寝て待て、ってやつですか」
「まあ、近いかな。ギャンブルなんかじゃ、相手が息を吐いた瞬間を狙え、って言うらしいし。イカサマをするにしても、正攻法で攻めるにしてもな」
「ギャンブルと言ってもおかしくはない、とは言いましたけど、ギャンブル的に考えろとは言っていませんよ」
くすっ、とムーは笑う。さっきまでは雑談の余裕がなさそうだったが、数歩歩いている内に少しは余裕、というかいつものペースに戻りつつあるようだ。こいつに関してはそのほうが俺も落ち着く。
じゃあどうするんだよ、と俺が問いかけたら、
「ひたすら仕掛けますね」
とムーは背をむけたまま言った。ともすれば、何かの宣言のように。
「ぼくなら仕掛けます。筋肉だってダメージを蓄積すれば疲労しますし、建物だって、ダメージが掛かり続ければ鉄骨が折れて倒壊します」
「仕掛けまくる、ってことか」
「ただまあ、無計画にやるのはお薦めしませんけど。知らない内に自分が仕掛けた罠に自分がかかってた、なんてのは愚か過ぎます」
「あー、よくあるよな、復讐ものでそういうの。蜘蛛が自分で張った糸に引っかかる感じで」
「典型的な自滅パターンですよね」
でもですね、とムーはそこで一呼吸置いた。
「稀にですね、手河さん。そういうのに無頓着なくせに幸運を身に着けて、上手い具合に自分で張った糸にかからない人も、居るんですよね」
「…………………………」
意味深な風にムーは言葉をつなげた。
「カンダタ、は、……そういう人でした」
旧知の人間を語るような、それでいて、語りにくそうに、ムーは口を開いた。
「カンダタは」
足早に歩きながらムーは説明を始めた。
遠くでまた、祭囃子が近づいてくる。どこかでだんじりが折り返したのかもしれない。
「最初は流れ者でした。ええっと、まあ、もともとはちゃんとした名前のあったニンゲンだったと思うんですけど」
少し曖昧さを含んでいるような気もするが。
「彼は、恨み深く憎悪深く、自分がここへ来た理由を求め求め、そして、ここの主に行き着きました」
「主?」
「縁日にも主が居るんですよ。祭りの王様だと思ってください」
祭りの王様……。駄目だ、イマイチ想像できねえ。
「えらい賑やかそうだな……それ」
「実際は地味なもんですけどね。迷い込んだ人を送り返したり、露店の管理をしたり、と。業務は山ほどありますよ」
それは仕方のないことでしょう、とムーは小さく肩をすくめた。
「ともかく、彼は現実に帰りたくはなかった。もう二度と現実には帰ろうとしなかった」
「え、現実?」
「ちょっと腰折らないでください。順番に説明しますから」
その割にはかなり端折られてる気もするが。
「そう告げて、彼は、自分が行き会った主を、その手で殺害しました」
なんてこともなさげにムーは告げたが、ちょっと、いやかなり、おおごとじゃないのか。
「まあ、殺害したといっても、あくまで社会的に、ですよ。そんな驚いた顔しなくても結構……。主は、死んでませんよ。……たとえ物理的に殺されていてもここは現実じゃないんですから、現実のルールは適用されません」
基盤になるようなルールが根っこからして通用しないんなら俺の脳があんなところに並べられていても不思議じゃないか。
というようなことを告げたら、
「それはちょっと話が違うんですけどね」
と若干気まずそうにムーは返す。
「現実のルールが適用されないということはつまり、言うまでもなく現実のルールによって守られることもない、ということです。よく言うじゃないですか、ルールに縛られないものはルールに守られないと。それは大原則でここでも当てはまることです。誰かを殺害したところで逮捕されたり処罰されたりすることはありません」
「……怖えな。無法地帯じゃねえか」
「警察機関のようなものに属する人は存在しますけど、三人しか居ない上に、一人は隠居、一人は情緒不安定な新人。まともに働けるのはたった一人です」
「ひどすぎんだろ、それ……」
「前の主を追い落とした後、彼は、その座を自らが継ぎました。場当たり的に簡単に下克上をなしえたわけです」
その場で見ていたかのような口ぶりだった。
「まあ、前の主だって簡単に追い落されるような馬鹿ではありませんから、いくつかの布石は残して――ダメージは与えて、敢えて静かに王座を去りました」
「で、そのカンダタってのは今どうしてるんだ?」
「どうもこうも、変わりはありませんよ」
「なんかさ……お前の話聞いて、一個思ったんだけど……」
なんでしょう、とムーは振り返ることなく首を傾げた。さっきからやたらにそっけなく前を向いているけど、どういうつもりなんだろうか、ということも気になったけど、
「カンガタがここの主をやって困ることってなんかあるのか?」
そりゃあ、勝手に現れた奴に陣取られちゃあ不満かもしれないが、ここの内実を知らない俺からすればそれは必要な変化だったかもしれないと思う。変わるべくして変わった、というか。保守も革命も、時にはなし崩し的にもしくは激流のように、共倒れで全く違ったものに入れ替えられることだってあるだろう。
「それは……」
と、ここでムーは少し言い渋った。何か、そう、気に障ることを気にしているかのように。
話しやすいように先を促してやった。
「ここは、街の胃袋ですから」
ぽつりと、呟いた。
「空気に寄生し、街に寄生し、人に寄生し、悲劇にも喜劇にも、そっと花を添える。まあ、幸・不幸の量を調節してるわけです。主たるもの、誰の幸せも、誰の不幸も望んじゃあいけないんですよ」
つまり、とそのままの調子で告げた。
「幸せなフリをして、……誰かの、不幸せを――願ったりするような人では、困るんです」
言いにくそうに、ムーはしどろもどろだった。
「バランサーであれ、と」
「天秤の調節者、と言えば聞こえはいいんですけどね。でも困ったことに、ここにいる人は、皆幸・不幸に餓えた人たちばかりなんですよ。カンガタは正に、不幸に餓える側ですが」
嘆息するムー。
「不幸に餓える人って」
「自分を苛めるのが大好きな人とか、ですね。それか、人の不幸に愉悦を感じる人とか」
ああ……。だからあんなカキ氷があったのか。って、そんなものを俺に勧めたムーって、
「じゃあ、ムーもまさか、そっちよりの人間なのか?」
「単刀直入ですね……」
「カキ氷とか、そうだろ」
「…………はあ。まあ、そう受け取られてもおかしくありません、か」
またもや意味深に、乾いた笑い声を上げて、ひとしきり笑った後で、
「ご心配なく。ぼくは、そうじゃありませんよ」
と。ぼくは、と。
「てことは、お前は俺がそっち寄りの人間だって、思ってたってことかよ?」
「……怒らないでくださいね」
少しばかり申し訳なさそうな色を含んで、ムーは俺を一瞥した。
「そうだと疑ってました」
「………………」
「でも、あなたは違った」
凛として澄んだ響きを持った声。俺の何かを、肯定するような。なにかを、知っているかのような。
「それは、ぼくの見込みとは大きな違いでした。つい、――――――期待をしてしまう、ほどに」
「……期待?」
そうです、と。不意に――ほんの、不意に。焼け焦げた匂いのする風の中、ムーが儚げに笑った気がして。
「手河理該」
何度目になるか分からないフルネームで俺の名前を呼んで。
「あなたが――――」
何かを、確かにムーは何かを伝えようとしていたんだと思う。
だけど。
突然のことだった。
それが、伝わるより前に。
人が通る切れ目切れ目の、舗装すらされてない、地面から。
わらわらと。
わらわらと。
湧き出るように。
湧き水のようにと言えばおかしいが、固体であってもどっと噴出してきたそれらは液体のようにすら見えた。
それらは。縁日の定番ともいえる、
理不尽に色を押し付けられたヒヨコたちが、
僅かのあいだに数十匹から数百匹と湧いて出て。
ぴいぴいと鳴く声で。
[みつけた][えさ][やっとみつけた]
なんて、囀って、
ムーに、殺到した。
流れるように押し流すように。様々な色で目が痛くなりそうなモザイクの一団に見えるヒヨコの群れは、
ムーに向かって。
ムーを、どこかに連れ去ろうとするように。
ほんの数秒のことだった。
だから、俺に背を向けていた、ムーは。気づけなかった。
自分の真後ろに、自分を連れ去ろうとするものが居る事に。
「ムー!」
躊躇なく叫んだ。そして、俺は。
数年ぶりともいえる全力の跳躍を伴って、
突き飛ばすように、ムーに、体当たりをした。
元々小柄なムーはあっけなく宙を舞い、そして。
砂埃を巻き上げ、その辺の通行人にぶつかって、ヒヨコが殺到する地点から、離れて、突然のことに、最初は俺に文句を言おうとしたんだろう。痛そうに、顔を上げて、
そして、
ヒヨコの殺到地点に突っ込む俺を見て、
見て、
ひゅっ、と。短く息を吸い込んで。
「手河さん!」
と、叫んだ。
小さな手を伸ばして。
だけど遠すぎた。
伸ばした指を、埋め尽くすように。視界をおびただしい数のヒヨコが覆った。
圧倒的な質量。
その質量にほんの少しばかり懐かしさを感じる前に。
ムーが、見えなくなる。
あんなに疑ってたのに。
あんなに、鬱陶しいって、思ってたのに。
どうしてまあこんな、無茶を。
全身が殴打されているかのような痛み。
それでもいいと思えた俺を、ヒヨコはどこかへ押し流していく。
◆■◆
真っ暗な視界で小さな悲鳴を上げたのを良く覚えている。
足元は一面ゲル状で、脚をとらわれながらそれでも俺は逃げようと必死だった。
ここに居たら自分が危ないということを生まれながらに、または使い捨てられた後に知ったからかもしれない。
靴は、とうに両足とも脱げていた。
どこかへ逃げているはずなのに、どこかへ招かれているような焦燥感。
ここでは俺が最もかけ離れているのは明らかだった。きっとここにいたら俺は隅に追いやられてしまうだろう。
逃げ続けた。逃げて逃げて逃げて。
いつしか、自分の両足がゲルに沈み込んで、大きくつんのめり、ついた手も、ずぶりとのまれていき、無様な体勢で倒れこんで。
ああ、結局何処にも辿り着けなかった、と俺は力なく笑った。
悔しくないわけがない。
このまま、いないものにされたくなんかない。
あいつは俺に理想的であることを望んだのに、
柄じゃなかったなんて身勝手すぎる。
あいつはいつだって身勝手で、そうした身勝手に振り回された残骸はあちこちに転がっていた。
それらと同じになるのは絶対に嫌だった。理由が分からなくても。
しかし。
足掻く力も最初からなかった。そういった部分は俺には欠けていたし。
鼻や口にもゲルから染み出した液体が入り込んでくる中で、僅かに片目に映ったのは、一体誰だったんだろう。
いつの間にか俺の隣に立っていて。悲しさやら儚さやらが入り混じった、霧雨のような表情でそいつは笑っていた。
そいつは俺に手を差し伸べてこう言った。
「きみには幸せになって欲しい」
と。
◆◆◆
紙ふぶきが鬱陶しかった。
砂地の上に投げ出されるように転がった俺の上には、幾つかの紙ふぶきが積もっていた。それでも通行人に踏まれなかっただけマシと言うべきか。あちこち痛いが、どうやら、無事らしい。
変わらない晴天。太陽が嫌にまぶしい。
まだ、俺は縁日にいるようだったが、どのくらいの間流されていたのか。勿論ヒヨコたちは辺りに一匹も見当たらなかったし(もしついばまれたのかと思うとぞっとする)、屋台の風景も随分と様変わりしていた。
そして、ムーがいない。
いやまあ、流されたのは俺なんだから、俺がいなくなったんだろうけど。
一人、か。
まだあいつに定期券返してもらってねえしなぁ……、結局帰れないままか。かなり例のクレーンには近づいたけど。
とにかく、じっと寝転がっているわけにも行かないし、砂を払ってポケットからスマートフォンを取り出す。ロックを解除し、時間を確かめるが、お決まりのパターンだ。零時零分零秒。零月零日。曜日は金曜日表示になっている。さて、実際のところ何曜日だったかと思うけど、そもそも何月何日だったのか。あんまり気にせずに適当に生活しているからかよく分からないが、まあ、俺が詰襟を着てるんだから秋から初夏ぐらいの幅でいいか。
ムーを探しに戻ったほうがいいんだろうか。だけど、迷子の鉄則は『そこからできるだけ動くな』って聞いたことはある。だがこの場合、相手が探してくれていることが前提の鉄則であるがゆえに、向こうもできるだけ動かなかったら何の意味はないんだけど。
さて。
じゃあ、どうしようか。
とんとん、とこめかみを叩く。
リュックサックを背負いなおし、辺りをもう一度見回す。元はと言うとムーがあのクレーンに行きたいって言ってたんだから、その前で待つのが妥当だろう。約束は守る気らしいし、今更定期券を持ったままどこかへ行くことも考えにくい。もっとも、俺がこのままムーを振り切って引き返すという選択肢がないでもないが、それこそ今更だ。訳もわからず身体を張ったのに、ムーから逃げる理由もない。
とかなんとか考えて立ち止まっていると、
「ねえちょっとおにーさん、そこにつっ立ってるとさぁ、お客さん来づらいんだけど」
と、気の抜けた、むしろかなりだるそうで、抑揚のない声が聞こえた。
「あ、すみません」
と、声のした方に謝ると、
「まあおにーさんがお客さんって言うんなら話は別なんだけどねぇ」
狐面が目に入った。同時に、竹竿に幾つか並ぶお面も。
いくらなんでも話が上手すぎる、とちょっとぞっとしたが、
「お面なら売ってあげなくもないよ」
お面屋が、そこにあった。
◆◆◆
狐面の人物は声から察するに少女のようで、長い金髪を背中の真ん中辺りでゆったりとひとまとめにしているのがまず特徴的だった。タンクトップの上にざっと
地面に対して平行に並んだ四本の竹竿には、見慣れたキャラクターもののお面から、大英博物館に寄贈されていそうな年代もののお面まであった。複製だと信じたいが、あれ、確かテスカ・トリポカの面じゃなかったっけ……。
「おにーさん、それじゃあお面買いに来たんだ?」
あまり前の見えなそうな狐面の向こうで、少女はそう尋ねた。
「まあな……」
だけどしかし。俺も言われたことをそう簡単に忘れたりはしない。薫陸は確か『いましに面を売る店があるかどうかは小生にも分からんが』なんてことを口走っていた。つまり、面を売ってくれない店もあるってことだろう。
「あんたの店は俺に面を売ってくれるのか?」
確認は大切だ。ここで売ってくれないなら諦めてさっさとムーと合流した方がいい。もしかしたら流されている間にムーが目星をつけていたお面屋もあるかもしれないし。
しかし少女は「んー、そーだねぇー」と間延びした返事をし、そのまま伸びきってしまいそうなくらい間を空けてから、
「今のおにーさんには必要だもんねぇー。いいよぉ。売ってあげなくもないよー」
と欠伸など一つした。
「ありがたいけど、なんか、オススメの品みたいなのってある?」
「お勧めの品? ……これはまた変なこと言うねぇおにーさん。お勧めできるような代物じゃないのに。ねえ、おにーさんおにーさん、やっぱり噂どおりの人だったねえ」
ふ、ふふ、ふ、と途切れ途切れに緩く少女は笑った。何がおかしかったのはよくわからなかったが、おそらく少女なりに爆笑してるんだろう。「あー笑った笑ったー」なんて全然笑ってなさそうな抑揚のなさ。
噂どおり、ってのが、またよく分からんが。
「カオルくんのいうとおりー。道行く人のいうとおりー」
「カオルくん……?」
「あらら、てっきりうちの先輩とお知り合いなのかと」
「先輩……」
「薫陸っていっちゃたらいいのかなー、うちのカオルくん」
「え……? 薫陸に後輩なんかいたのか?」
一匹狼っぽかったんだけどな、あの人。全身和装だった薫陸に比べてこの少女はかなり洋風はいってるけど。後輩、ねえ。
「薫陸はここの店主?」
「まさかー。わたしはただの店番。ちなみに
「あ、ああ……」
「おにーさんは、えーと、うん、……なんて呼ぶべきなのかなー。よくわかんないかなー」
少女は首を傾げた。
「俺は手河理該」
「ああうん、その名前は知ってるよー、知ってるんだけど……。うんー、どーしよっかー、カオルくんには口止めされてるんだけどー、って、あ、口止めされてるってことを口止めされてるんだっけー、んん? んー、んー、んんー?」
勝手に思考のスパイラルに飛び込んでいく丁子。そのまましばらく右に左に首を傾げていたが、まあいっか、と、自己完結した。
「ちょっと、おにーさんのことは、手河理該とは、わたし呼べないなぁー」
俺のことを、手河理該と、呼べない……? どういうことなんだろうか。
「前の主様にもカオルくんにも従いたくないしなー」
「じゃあ、なんて呼ぶつもりなんだよ」
「おにーさんでいいや」
「……適当なんだな」
「だってー、それ以外思いつかないしー」
うん、と丁子は再び自己完結。そういう癖らしい。
「前の主様、っていうと、カンダタの前の縁日の主のこと?」
「あー、……カンダタのことは、知ってるんだ」
それくらいは教えてあげないと可哀想だもんね、と丁子は再び、ふふ、と緩く笑った。
「で、前の主様のことは、ふぅん、その様子だと知らないみたいだねー、おにーさん」
「教えてくれるのか?」
「教えなーい」
ま、だろうな。あんまりこの少女にそういったことは期待しない方がいいと思う。さっさと面を買ってやっぱり離れよう。薫陸の後輩って言ってたけど、あいつ後輩のしつけくらいちゃんとしろよ。なんでまともに応対できないのに店番なんか任せちゃったんだろう、あの水墨画男。
「……いいよ。教えてくれなくても。探してるやつがいるから、さっさと買うもん買ってそいつ探すな。一ついくら?」
「十万払え」
間延びは一切なかった。抜け目のなさ剥き出し。マジあの水墨画男、何をこいつに教えたんだろう。商魂?
「……いやいやいや、俺そんなにもってねえし」
「お金出せないお客さんにー、商品は売れないなー」
「ぐ……」
正論だ。ていうか、常識だった。
「お金ないんでしょー、そーだよねー、学生が十万も持ち歩かないもんねー。持ってたらタカられてるもんねー」
お面の向こうで少女は笑った。えげつない。
「じゃあ、大人相手にはいくらで売るつもりなのかよ?」
「百万」
なんだろう、一瞬こいつが優しいんじゃないのかと思ってしまった。いや、錯覚錯覚。
「買うー? どーするー?」
嗜虐的な笑い声が狐面の裏から漏れてくる。こいつ絶対この状況楽しんでる。
「買えないよねー。買えるわけないよねー。でもこれから先お面ないと、おにーさん、困っちゃうよねぇ。あ、何で困るかは教えてあげないけど。おにーさん、今お面してないしぃ? こりゃ大変だねぇ」
ふふふふふふ、と。丁子は俺の神経を逆なでしてくる。余程に怒らせたいのか、俺から反応を引き出して楽しんでいるのか。ああ、ムーに言わしめれば、不幸に餓えている方の人間なんだろう。いっそのこと無理やりにでも、―――。
「今、物騒なこと考えてたでしょ」
丁子の声が割り込んだ。はっ、とする。どくどくと血流が空っぽの脳味噌めがけて流れ込んだ。何考えてんだ俺。どうして、今。
目を見張る俺を見眇め、嬌声めいた笑い声を上げて少女はのけぞって手を叩いた。くつくつと喉の奥で笑いをかみ殺し、
「やっぱりおにーさんは手河理該だねぇ」
と吐き出すように言った。
「どうしようもなく、手河理該だねえ」
けたけたけたけた。腹を抱えんばかりに、哄笑した。
「何が言いたい」
「あーららら、こっわい顔ぉ。言いたいことなんかないよ、なぁんにもねー。ただ、ここからどう結末に転がしていくか、わたしとしては楽しみになってきちゃったからさぁ」
ぐりん、と吹っ飛びそうなほど首をひねって、少女は俺に向き直り、人間のものとは思えないほど俊敏な動きで俺の下顎と後頭部を柳のような腕で絡めとった。それは、頭部への強引な抱擁にも傍から見えたかもしれない。
抵抗しようにも万力のようにがっちりと俺の頭を捕らえた少女は離れようともしなかった。むしろそのままそっとしなだれかかるようにして、
「だから、一つだけ、わたしから、お願いしちゃおう」
文字通り、耳元で囁いた。じっとりと耳に染み付く声で。
「さっきも言ったけど、わたしは前の主様にもカオルくんにも従う気は全くないんだー。カンダタにもね。彼はもう終ってしまったもの」
「終っ……た?」
かろうじて絞り出した声は思いのほか掠れていた。気持ちの悪い汗が背中を這っていく。
「わたしの望みを叶えてくれそうにないんだもの」
「そりゃあ、まあ……理不尽な主らしいしな。でも、お前みたいな奴の望みなんか……。誰が叶えるってんだよ」
乾いた笑いが口を付いて出たが、丁子の癇に障ったらしい、頭部を締め上げる力が強くなる。
「おにーさん。ねえ、おにーさんおにーさんおにーさん。何にも知らない惨めで哀れなおにーさん。ここから出たいんでしょう? 帰りたいんでしょ? そうだもんねえ、一刻でも早く、カンダタの目の届かないところに逃げたいんでしょ? おにーさんに自覚がなくても、ここから出たいのは本能的に全てを分かってるからでしょ? 本当はもう気づいているのにまた気づいてないフリをしてるんでしょ? そういうの良くないってのを内心分かってても表に出さない俺まじかっけぇとか思ってんの? だっさ。しょぼいよ。みみっちい。
でもいいの。それでもいーの。わたしはおにーさんに賭ける気でいるんだもの。わたしはそんなおにーさんを赦してあげるんだもの。何も知らなくてもそれでもいいの。わたしがおにーさんを支えてあげるんだから、それでいいの。
あなたなら、わたしの望みを、叶えてくれる」
耳の周りに澱をつくるような調子のせいで、感覚がどろどろでぐじゅぐじゅになっていくようだった。喉笛を食い千切られそうな距離にもかかわらず、全く反応できなくなっていく。それでも頭の奥底では、俺は元からそうだったように感じているんだから。
目的も、意思もない。そう、ただの―――。
「お前の、望み?」
予定調和に聞き返した。意を得たらしい少女は宣言する。
「わたしの望みは、この縁日をブッ潰すこと。だから、ね。
おにーさん、この市の、主になっちゃわない?」
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