八脚子

日由 了

第1話 前哨前編

 紙吹雪が鬱陶しかった。とにかく目の前をかなりの速さで駆けていく子どもを追いかけるのには。子どもは十歳くらいで、おかっぱ頭真っ白な浴衣を―――死装束のような浴衣の裾を広げながら、ゆうに一尺はあるだろう一本歯の下駄で器用に走る。さっきからもう五分は全速力であの子どもを追っているが、子どもは全くバテずむしろ加速さえしているから困りもので。おまけに人ごみをかき分けてのチェイスだ。身体が小さい方に分があるってものだろう。しかも、気が付けば全く知らないところにきてしまっている。

 紙吹雪が鬱陶しい。見知らぬこの場は縁日か何かの真っ最中のようだ。お面を被った子どもをよけ、金魚すくいの露店に直撃しそうになり、どこからか聞こえる祭囃子の空を切り、砂糖のこげる甘ったるい匂いとソース臭を突き抜けて―――――――とにかく追い続ける。

「おい待てよ! 俺の定期返せ!」

 再び声を張り上げても、喧騒にかき消される。

「すいません! 誰かそこの子ども止めてください!」

 といっても、同じ。周りの人は俺に見向きもせずに祭りを満喫しているようだった。

「待てって! それがねえと帰れないんだって!」

 どうせ止まってくれるわけがない、と思いきや。

 ぴた、と。

 子どもは走るのをやめた。

 急に止まるものだから激突しそうになり、つんのめりながらブレーキをかける。息が苦しい。走りすぎだ。こんなに走ったのは中学で部活をやめて以来の気がする。

「やっと……止まったな。……ほら、怒らねえから盗った物返せ」

 最初は。この子どもがぶつかってきて、電車の定期券と学生証が入ったパスケースをこともあろうに俺のバッグからスった。鬼ごっこの始まりはそうだった。本当はイライラして堪らないが、ここでキレるのもなんだか大人気ない気がする、高校生として。

 咽返りながら返却を応答してみたが、子どもは振り返らずに言った。

「いやです」

「……は?」

 今、何て?

「ちょっとまてよ、俺のモン盗っといて返したくないって、……な、困るんだよ、それがないと帰れねえし」

「だったら尚更じゃないですか」

 子どもらしい無邪気な声で子どもは言った。口調だけはませてるが。

「せっかくの祭りでしょう、楽しんでいきませんか、手河理該てがわりがい

 子どもはくるっ、と下駄の歯で地面を抉ってこちらを向いた。

「まだ帰らなくてもいいでしょう」

 子どもの顔面を見て、俺は肝を冷やした。情けないことに、腰も抜かした。

 

 子どもは、顔のパーツが一切なかった。

 子どもは、のっぺらぼうだった。



◆◆◆

 ……というのは誇張表現で。もうちょっと忠実に語るべきだと思う。ファンタジーにしろなんにしろ、起こった出来事に忠実であるのが語り部のありようだと思う。それで頭がおかしいと言われても。

 まあ、閑話休題。

 子どもの顔面は、普通にお面を装着したものだった。

 ただし、一面肌色。

目の穴も鼻の鼻も口の穴も開いてない。前見えてるのか、呼吸はできてるのか。そしてよくそのお面でさっきまで逃げていたものかと感心の念すら湧く。

「そこまで驚かなくてもいいでしょうに」

 のっぺらぼうの子ども改め、なんちゃってのっぺらぼうの子どもは俺に手を貸してくれた。やっぱりませてる。しかし、手を貸してくれるのはありがたい。

「失礼です」

 手を取ろうとしたら、首根っこをつかまれた。そのまま、引っ張られて立たされる。……失礼なのはお前だ。手を貸してくれるんじゃなかったのか。ていうか握力はどうした。

「パスケースなら、条件を満たしてくれればお返ししようじゃありませんか。何、僕だって本気じゃありませんでしたし、本気で人の物を窃盗するなんていう馬鹿げた真似はしませんよ。これは単なる一種のパフォーマンスでしかありませんから」

 可愛げの欠片もなくつらつらと子どもは言った。なぜ俺の名前を知っているのかと疑問に思ったが、そうか、定期券見りゃ普通に書いてるか。

 いやでも、マジで可愛げのない。本気じゃなかっただって? あれだけ走っておいて? 

確かにこの子ども、全く息が上がっていなかった。ひょっとすれば、お面の外まで呼吸音が漏れていないだけかもしれないが、そんなに機密性の高いお面ならとうの昔に窒息しているはずだ。

「条件?」

 と訊きかえす。

「はい! 手河理該程度の人でも十分に満たせる条件ですからご心配なく!」

 ……そう。あの、さりげなく酷いけど?

 無邪気なほど残酷、とか。純粋な分尚更に性質が悪い、とか。そういう感じ。

 だが、どんな条件が飛んでくるか分かったものじゃない、思わず身構える。

「ぼくと一緒に縁日を回ってください」

 …………。

 は? 一緒に、縁日を、回るだって?

 こいつと?

 度肝を抜かれた。

 いや、怒気かもしれないが。

 急に物を盗むような子どもだ、もっと無理難題を押し付けられるのかと思ってたけど、なんだこいつ、もしかしたらただの迷子で寂しがり屋の――――

「あなたの奢りで」

 ごめん、前言撤回。



◆◆◆

「どこから回りますかねぇっ!」

 はしゃいだ声を出す子ども。さっき聞いたが、こいつは“ムー”というらしい。横文字とは意外だった。不思議なことに、ムーの声はよく二転三転する。テンションの差だろうか。とにかく今は子どもらしい声だが、それが余計に神経に障る。

「……どこでもいいよ」

 不本意ながら。ムーを肩車して歩いて回る羽目になってしまった。

悲しいかな、拒否権が俺にないものまた事実。パスケースを返してもらえない分には、帰りの脚を絶たれたに等しい。このガキが満足するまで付き合ってやらなければならないのだ。……財布、大丈夫かな。大体、帰るにもここは一体どこなんだろうか。その辺の責任、ちゃんとこのガキとってくれるんだろうな。

思わず口からため息が漏れた。それをムーが聞き逃すこともなく、

「テンション下がるんでため息とか止めてくれません? うざいなぁもう」

 じゃあ肩から降りろクソガキ。

「しかしまぁ、例年になく人が多いですねぇ。うん、露店も増えたし」

 わさわさ、と浴衣の裾が動く。あまり人の肩の上できょろきょろしないで欲しいものだ。

 イライラはするが、事態は事態。割り切って俺も縁日を楽しんだほうがいいのかもしれない。ムーに倣ってあちこち見回す。

 舗装されてない土の道の両側にそって、ずらっと露店が並んでいた。露店は切れ目なくびっしりと開かれ、客が一人もいない店はない。どこもずいぶんと盛況のようで、露店の後ろ、一本向こうの通りにも露店がある。しかし、切れ目がない分どうやってそちら側へ行くのか分からないが。一本向こうの通りも賑わっているのに違いはあるまい。ムーの言うとおり人でごった返している。年末の東京の築地のようだ。そして、その人の流れは大方一方向だった。俺たちが進んでいる進行方向と同じである。何かあるのかもしれない。そして、ムーもそれが目的なのかもしれない。

「この先に、何かあるのか?」

 ためしに聞いてみた。すると、

「あんまり頭動かさないでくれませんか? わさわさ動いてキモイんですが」

 第一声がそれかよ。

 本当に肩から降ろすよ? むしろ落とすよ? むしろ叩きつけてやんよ?

 しかし、定期券を思い出してグッとこらえた。

 はあ、とムーはため息をついて、

「向こうに大きな影が見えるでしょう?」

と呆れ半ばな調子だった。

「あそこで盆踊りをやってるんですよ」

「盆踊り?」

 縁日なのに?

「知らないんですか? 盆踊り」

「いや、知ってるよ」

 多分日本人なら大体が知ってるよ。お前ホントに人嘗めてるのか。

「僕も最終的にはあそこにいければ、と思いますよ」

「へえ、じゃあ、お前をそこまで連れて行きゃいい訳だな。なるほど話が早い」

 少し足早に歩いた。

 さっさとこいつ降ろしたい。

「そうですね。そこまで行けば十分でしょうね?」

 なぜか。

 このときのムーは意味深な感じだった。何かを、含んでいるような。歯に衣を着せない物言いが、急に奥歯だけ衣を着せてきた。

 いや、気のせいか。あまり何かを考えている風ではない。おそらく奢ってもらえないことが残念とかそういうことだろう。

 と、進行方向を見た。

 紙吹雪と青空の中に、ムーが示した大きな影が見えた、が。ぼんやりと先のほうが霞んですら見えるそれは、クレーンのようだった。

 クレーン……?

 クレーンを囲んで、盆踊り……?

 あんまりにもシュールすぎる絵面じゃないのか、それ? ああ、建物が修復中とかそういうことなのかもしれない。

 うん、と一人頷いたところで、

「あっ、カキ氷じゃないですか! 食べましょう食べましょう!」

 ムーの声が降ってきて。ああ、結構無邪気で可愛げもあるんじゃないか、と思ったら。

 げし。

 と。ムーは俺の返事も待たずに、肩の上に立ってきっちり頭部に回し蹴りを入れてから、滑らかに着地し、少し先のカキ氷店に走っていった。

 ああ、そう……。欲しいものがあったら降りるんだ、そうなんだ……。

「早くしてくださいよ、手河理該! 盆踊り終わっちゃいますし、ほら、代金ならぼくが払っておきますから!」

 などと手招きしているが、片手にキープしているのは俺の財布だったりする。いつの間にかスられていたらしい。

ピンヒールほどじゃないが圧力が集中する一本歯の蹴り跡をさすりながら、とぼとぼとムーの後を追った。……なんだかいいように扱われている気がする、いや、気がするだけじゃなくて実際そうだ。

「ムー、俺の財布返せ」

「えー」

「もういい、割り切った。俺が奢ってやるから、せめて財布だけでも返してくれ」

「仕方ないですねぇ、はい」

 とんでもない上から目線で返却していただいた。

「何か、物にこだわる人っていやですねえ」

「物盗りに言われたくねえよ」

 そこで、しょりしょりと削る音が止んだ。あいよっ、と声がして、お面を被った店主からムーがカキ氷を受け取る。

「手河理該もどうぞ」

 と、発泡ポリスチレンの容器を手渡してくる、が。

「あの、ムー?」

 声が裏返りそうになるのを押さえて、俺はムーに訊いた。

「これって、カキ氷なのか……」

「やだなぁ、変なこと聞かないでくださいよ、誰がどう見たってカキ氷って答えますよ。冷ややかで甘くておいしい、これはそういう物体ですし。カキ氷の定義は確かに氷を削って雪状にしたものにシロップなどをかけたものとされますが、何もそこまで固定化する必要はないじゃないですか」

「いや、まさかお前にカキ氷の定義を説かれるとは思ってなかったけどさ……」

 まず色がおかしい。容器に山盛りに入っているそれは、真っ黒だった。黒。シロップの代わりにイカ墨でもかけたんじゃないかってくらい真っ黒。

「じゃあ、早く食べましょう。別に融けはしませんが」

 平然とムーはいうと、ストロー状のスプーンでカキ氷もどきを掬って口へ運んだ。

 そうだ。別に融けはしない。根本的にこれはカキ氷じゃないとやっぱりおれは確信する。

 素材が氷じゃないのだ。誰がどう見たってかき氷じゃないって答える。だって、削ってあるものが氷じゃない。これはたぶん、パソコンとかデジカメとかゲーム機にさす、メモリーカードだ。黒に混じって時々青いプラスチック片や、端子となる金属の煌きがある。間違いない、メモリーカードを粉砕したものだ。それがただ容器に積まれているだけだ。

 冗談じゃない、こんなものを食べたら死んでしまう。

 ていうか、フェイスフルのムーのお面じゃ物は食べられないんじゃ、と思ってムーを見遣ると、これまた平然と肌色お面を鼻の辺りまで押し上げて口だけ露出しておいしそうにメモカの山を食していた。相変わらず前が見えなさそうなのに器用だ。

「食べないんですか? 手河理該」

次々にスプーンを運んでいる。ばりばりとプラスチックを噛み砕く音しかしない。ていうか、食べながら喋るんじゃねえよ。

「これが食べれる物体なら食べてる」

「食べられますって。ささ、騙されてると思って!」

「……それは信用できる奴がいう台詞だ」

 しかし、いつまでも四の五の言ってるのもなんだかガキ臭い。乱雑にメモリーカードのフレークにスプーンを突き刺して、恐る恐る口に運ぶ。

 甘い。

 のどが痛くなるほどに、甘い。

「どうです?」

 声を弾ませてムーは俺を見上げた。

「甘いな」

「でしょう? 美味しくない訳がありません」

「美味しくなさそうにしか見えないんだけど、不思議なもんだな。これって、やっぱり」

「メモカですが?」

「…………そ」

「そんな腑に落ちない顔しないでくださいよ、面倒臭い方だな本当に。釈然としませんか? 食べ物でなければ納得できませんか?」

「そりゃ、口に入れるもんだからな」

「ここの店で扱ってるものは最高級品ですよ? 贅沢言わないで戴きたい。日本政府の情報から某国の軍事機密までみっちり詰まった一級ものですからねえ」

 ここで一度喋るのを止め、大口を開けてムーはカップから直接流し込んだ。ざらざらざらっ、と飲まれていく。

「ちょっと待てよ。……なんでそんなもんあるんだ? ていうか、大問題なんじゃ……?」

 手元のカップを見下ろした。膨大な情報と秘密が手のひらの中で蠢いている気がした。

「大問題だからこそ美味しいんですよ」

 飲み下したムーは上機嫌のようだ。

「今頃大変でしょうね。これらの情報を持っていた人は責任を問われているでしょうし、むべなるかな、職も失っているでしょうしねえ」

「え……?」

「聞いたことがありません? 人の不幸は蜜の味、と」

 ムーは残っていた全てのカキ氷もどきを掻きこんで、おそらく味わいもせずに一口で飲み込んでしまった。

「今のご時世、質さえ問わなければ一番手に入れやすい甘味ですから。さっ、手河理該、急いで食べてくださいね。まあ、一旦口をつけて食べ残すのはあなたのようなヒトがよくやることでしょうが」

 容器さえも地面にポイ捨てときた。さすがに注意してやろうと思ったが、地面を這う虫達があっという間に集り、容器は食い尽くされてしまった。

 再度、自分の容器を見る。まだまだ量はたっぷりあって、正直こんなものをまだ食べられるとは思えない。しかし、先程ムーにあんなことを言われてしまったので完食する以外の選択肢などはとうに塗りつぶされてしまったようだ。何の拷問かと思わなくもないが、仕方なくスプーンのルーチンワークを再開する。

 やはり、甘かった。食べれば食べるほど、喉が痛いのを通り越してむせ返るほど。だが味は極上で甘美で濃厚で。なるほどこれが人の不幸というのなら、罪深い。脳髄が麻痺しそう。

 人の不幸は蜜の味。

 腐った果実の甘い汁で。蟻や蝿の集る汁。

 こんなもので恍惚としそうになるのなら、地面を這う虫と俺に然したる差はない。ああ全く、甘い甘い甘い。気分がよくて――胸糞悪い。

 だから、誰に卑下されようと。虫けら以下だと罵られようと。

 全ては『仕方がない』という言葉に集約されたのだろう。してしまったのだろう。

 あんなに大切にしてたのに、それ以上の大切なものが、俺に在ったというのだろうか。



◆◆◆

 マジメにやってるつもりなんて最初からなかったんだよ。知らない間になにかをしているフリだけがんどんどん上手くなっていって。そうしている間に回りはどんどん経験値を積んで成長していっちゃうわけなんだから。いつかは追いつかれてそして追い越されてしまうことも、もうとっくの前に分かっていたはずなのに。

 なあ、陥れるつもりが全くなかったなんて今更言い訳したところで。泥の中に突き落としたのは確かに自分自身だったんだから。お前は絶対に何があっても赦してはくれないだろう?

 本当は、首を落とされるのを待っている。

 自尊心とか、傲慢さとか、そういったもので飾られた首を。

 他でもないお前が落としてくれるのを、ずっと待てる。

 首を長くして。



◆◆◆

「手河理該は、射的をしたことがありますかね?」

 たこ焼きとりんご飴の露店を回った後で、肩の上でムーは不意に尋ねてきた。後ろ髪が飴でべたべたになっているような感覚があるが、頭皮まで届いてないから敢えて突っ込まない。それよりも問題なのは、さっき食べた十個中九個毒入りのロシアンたこ焼きのせいで舌が完全に痺れてしまっていることだ。如何せん上手く喋れないから、ムーも癪なことをしてくれる。だいたい、十中八九が猛毒入りなんてずるいとしか言いようがない。舌が腐って落ちるまで時間の問題だろうが、カキ氷の件からこっち、あまりこの縁日に驚きはなくなった。慣れた、と言えばいいのか。突っ込むのにも疲れがきたのか、それともあのカキ氷で俺の頭の中の回路が駄目になってしまったのか。

「射的はいいですよー、是非やっていきましょう」

なんてこれまた俺の返事も待たずに、肩から降りて、近場の射的屋の前で手招きをする。

 もう大分例のクレーンの近くまでやってきたが、まだまだムーは遊び足りないらしい。ここらが潮時だろう、射的が終わったら盆踊りの場で別れて帰らせてもらうべきだ。

 リュックから財布を出して、店主に金を払う。一回六弾で千円ときた。

 店主は満足げに千円札を耳に押し込んで、ムーに弾が詰まった銃を渡した。射的にしては珍しい、回転式自動拳銃である。十倍払えば散弾銃にできる、などと店主に言われたが、それは最早射的ではない。ここの店の店主も、やはりお面をつけていた。特撮ヒーロー物だ。ちなみにピンク。

 ムーは銃を受け取るなり、さっと構えてひな壇にある商品を撃った。無駄のない動作で、連続で二発発砲する。弾丸は烏の濡れ羽色のケースの側面を少し掠めて―――要は命中せず、ひな壇に穴を開けただけだった。

「あー……はずしましたー。やっぱり難しいですね」

「どれが欲しいんだ?」

 だいぶ舌が回復してきたため、ためしに聞いてみた。

「あれです、ほら、あの黒ーいケースの」

「どれ?」

「あれですよっ、下から六番目で左から十三番目です」

「ああ……。頑張れ」

 適当に返事をしておいた。

「何か、段々ぞんざいになってませんか?」

「なってねーよ。つーか、おまえ騙されてるんじゃねえの?」

「どうしてです?」

「おまえさあ……これ、全部ケースだけなんじゃねえのか?」

 ひな壇に並んでいるのは、全て小さなケースだった。商品が見えないようにしてあるのか、それが狙いではないのかもしれないが、景品はケースの中にある。よく見れば形も大きさも様々だが、何が入っているのかは分からないことだけは共通していた。

「中に入ってるものなら知ってますよ」

 ムーはしれっとした態度でさらに銃を発砲した。乾いた音がして、ひな壇に穴がもう一つ開いた。

「何が入ってるんだよ?」

「取ってからのお楽しみですねえ」

 つくづく意地の悪い。

「あのケースの中身は?」

「……そんなに詰め寄らないでくださいよ、近いです」

「なんだ、って聞いてんだ。答えたら離してやるよ」

 自分でも、どうしてここまで意地になっているのかは全く分からなかった。見られては困るものを隠し持っていて、それが抜き取られて眼前に晒されるのではないかという恐れと焦燥感に似ていた。

 緩やかにムーは手を振り払って、

「野蛮な人だな……。――あれは、脳ですよ」

 とだけ、答えた。

「? だれの?」

「は? 手河理該のに決まっているじゃないですか」

「俺?」

「はい」

「いよいよわかんねぇな。俺は今しゃべってるし、こうして行動してる」

「そうですね」

 何か問題でもありますか、とでも言いたげなムー。

「正しくは、記憶や感覚の一片でしょうか。海馬辺りですかねぇ」

「………?」

「どうでしょう、手河理該。この際だから、何か根本的に忘れてしまいたいことでも撃ってしまえばよろしいのでは?」

「簡単に言うなよ……。お前、あの中のどれが何なのか分かるって言うのかよ」

「いえ?」あっけらかんとしていた。「そんなの知りませんよ」

「じゃあ何で言ったんだ……」

「運がよければ■■■■や□□□を忘れるチャンスですよ」

「何を?」

 よく聞き取れなかったが、さっき弾丸が掠めたことを思い出す。なるほど、わずかに効果はあるようだ。

「ま、運が悪かったら『ここは私? 私はどこ?』ってなるだけです」

「逆だ」

「やらないんだったらぼくがやりますよ」

「ちょっ、……やめろ!」

 考えてみれば、俺の記憶の如何はムーの手にかかっているということになる。そんな大事なことを他人にほいほいと任せられるわけがあるか。

 俺はムーの手から銃を奪った。ずしりと重い。

「もしかして、実弾?」

「勿論」

「…………………」

「じゃなきゃひな壇に穴なんて開きませんよ。ホントに全然理解してないですねぇ、あなたの目は節穴ですか? もとより物事を見極めることなんてしたことがないんでしょうが」

「うるせーよ」

「それで、やるんですか、やらないんですか」

「……やるよ」

 不承不承、俺は銃を構えた。重さのあまりうまく支えられないが他人に自分の記憶をどうこうされるよりかは自分でしたほうがましだ。

 狙いが定まらない。それに大きいものを撃てばいいのか小さい方がいいのかも、分からない。大きいほうが忘却の被害は大きそうだが、小さい方だと根本的な――それこそ、自分の名前のようなものだと一番恐ろしい。危険だ。

 無難に間を取って比較的中ぐらいのサイズを選んだ。

 引き金を引く。

 鼓膜がぐっと圧迫されて、乾いた音が脳を貫いた。

 外す。

 わずかに左へ。

 発砲。

 そして。

「おめでとうございます」

 からんからんからん、と福引にでも当たったかのように、店主はハンドベルを鳴らした。

「何か変化は御座いますかな、お客様」

 弾んだ声で質問される。

 名前はおーけー。自分が今、何をしたのかも、覚えている。どこにいるのかも。自分の目的も。昔のことは―――

「何も、別に」

昔の、こと? そんなもの。

最初から、俺にとっては。

どうでもよかったくせに。 

在るはずのものが無くなったところで、なくなったことにも気づきはしないのだから。

「あらあらあら、それは残念無念。どうやらハズレをお撃ちになられたんでしょう。どうです? まだ一発あまっておりますが。なに、私めも商売人。お客様を無下には扱いませんとも、ええ、ええ。何でしたら、六発以内で成功したことを祝してもう一丁無料で進呈いたしましょう」

 よく舌の回ることだ。店主は口早に、しかし徐々に俺との距離を詰めてきた。

 考えるのも、面倒だ。

「ムー、遊び足りねえのなら好きにしていいぞ」

 退屈そうに脇にいたムーは、俺の一言でぱっと顔を輝かせた。まあ、なんちゃってのっぺらぼうだから元々輝いているようなものだが。

「ほんと!?」

「おう。あと七発、当てるも当てないも好きにしてくれ。」

 投げやりに銃を押し付ける。

 ああ、どうでもいい。

 俺は射的の屋台に背を向けて、改めて通りに目をやった。丁度、神輿を担いだ集団がやってくるところだった。いや、神輿というよりだんじりにちかいかもしれないが。あまり祭りに馴染みのない俺には同じにしか見えなかった。

 担ぎ手が三十人ほどおり、掛け声をかけ、空いた手で指笛を吹き、だんじりの上の団扇をもった男がまた担ぎ手を煽る。その男たちの後ろに笛や太鼓をを鳴らす一団がおり、色とりどりの紙ふぶきを撒き散らす。その周りで、どういう仕組みかは知らないが両目のない達磨や両手を上げない招き猫が跳ね回っていた。縦横無尽、自由自在に。

 往来を行く人々も囃したりまた担ぎ手に加わったりしていた。

 賑やかなものだ。

 しかしこれまたおかしなことに、だんじりに関わる人は皆お面を被っていた。

 いや、違う。一人だけ。群衆にまぎれて、面もつけず、このカラフルな縁日に不釣合いな人がいた。その人物の周りだけ、空気が異質だった。

 目深に被った饅頭笠。動きやすそうな和装。手甲。細袴に脚絆に草鞋。現代的とはお世辞でも言えない格好。おまけにその全てが黒色だ。さらに肌が生白い。まるで水墨画から抜け出してきたかのような出で立ちだった。

「いまし」

 すっと、物音も立てず、その人物は気づけば俺の目の前にいた。いまし?

「いましはどうしてここにいる?」

 どうやら、俺のことらしい。

「ここがどのような場か知っていて、ここにいるのか?」

 落ち着いた声だった。怪しいはずなのに自然と安心させられてしまうのは、声だけでなく、ふわりと漂う香の匂いかもしれない。

 俺は黙って頭を振った。

「用がないならすぐに去れ。小生はいましの身の保障はしない」

「身の保障?」

 訊き返すと、そうだ、と和装の人は頷く。

「ここは狂って沈んだ場。いましが何をしたかは小生に興味はないが、囚われるぞ」

「……?」

 言っている意味がよく分からない。

「取り返しが付かないことをしたならば、自分の足元をよくみることだ。」

「取り返し? おいおい、俺はそんな悪いことみたいなことはしたことねえよ」

 軽く笑い飛ばしたが、和装の人の態度は不変のものだった。

「そうか、あくまで自分が正しいと信じるか。ならば去れ」

「去れって、簡単に言うけど、俺は今あの子どもに帰れなくさせられてるんだ。帰れねえよ」

 和装の人は少し笠を傾けた。どうやらムーのほうを見ているらしい。そして、なにかを呟いたが、俺の耳には届かなかった。

「いまし、面はどうした」

「面?」

「ここのものなのか?」

 お面。そうだ。ふと周りを見渡せば。顔を晒しているのは、俺とこの人しかいない。

 顔を隠すことに意味はあるのだろうか。そして、隠していない俺は大丈夫なのか?

「いや、そうじゃねえけど……。あんたは大丈夫なのか?」

 和装の人はふっと笑うと、

「小生はここの者ではないから、面は不要だ」

「じゃあ、俺も要らねえじゃん」

「長くとどまるつもりなら、どこかで面を手に入れろ。……もっとも、いましに面を売る店があるかどうかは小生にはわからんが」

 いまいち会話がかみ合わない上に、随分と腹の立つような言い回しだ。俺には物を売ってくれないみたいじゃないか。

「いまし、名前は?」

「……手河理該」

「小生は薫陸くんろくと名乗っている」

 和装の人――薫陸はそう言うと、

「気をつけなさい」

 と。耳元で。

 まるで一瞬、喧騒が掻き消えたようで。

「無いようで在るものに、気をつけなさい」

 唄うように囁いた。

「無いようで在るものの提案を鵜呑みにしないよう、気をつけなさい」

 時間の感覚すら、延長される。

「いましの頸に、気をつけなさい」

 無いはずの脳髄に残る声で。

「いましの脚が沈まぬよう、気をつけなさい」

「……え?」

 喧騒が帰ってくる。

 気が付けば。俺の目の前には、誰もいない。まるで先程まで誰もいなかったかのように。いくら目で追っても、黒い和装の人物など見当たらなかった。ただ、ほのかに香の匂いが残っていることだけが、薫陸がいたことを証明していた。

 祭囃子が遠ざかっていく。

 麻痺していた思考がクリアになっていく。

 ここは異常だ。どう考えたって、異常だ。

 この空気に順応しすぎだ、馬鹿め。

 脚が沈まないようにって、どういうことだ?

 だいたい、俺は。

 どうしてここにいる?

「ああ、もう神輿がでてしまいましたか」

 その声で肩が跳ね上がった。一瞬、聞き覚えのないようである声に聞こえたからだ。

 当然ながら、振り返るとムーがいた。

「楽しかったですよ、そこそこに」

 相も変わらず生意気な発言だったが、俺は背筋が凍る思いだった。鼓動の音が、嫌に耳の奥で響いた。

「そろそろ頃合です。宴もたけなわ、盆踊りへ向かいましょう」

 どうして今まで気づかなかったのか。

 いや、気が付くはずがない。そして、俺は自然なままに信じ込まされてしまっていた。

「どうしました?」

 ムーは俺を見上げる。

 聞くべきなのだろうか。

「ねえ、手河理該」

 声音が違う。また。

 テンションの差? どういう理屈だ。そんなわけがあるか。

 しかしこれで、完全に俺はあることを尋ねようという気が折られてしまった。ぱっきりと。

「いや……。なんでもねえよ」

「そうですか」

 と返事をするムーは、明らかに、女の声だった。

「では、いきましょう」

 そう言って、前を歩く。先導のつもりか。

 だが、ついていくべきではない気がする。

 ここで帰るべきだ。薫陸の言う通りにして。

「お客様、お連れ様が行ってしまわれますよ」

「ああ、そうだな」

 前を行くムーの背は、ひどく恐ろしい。

 それでも、

「行くしかないか」

 確かめなければならない。

「ご来店有難う御座いました」

 威勢のいい声を切ってひな壇を一瞥した。ほとんどのケースが、貫通されていた。

 どうでもいい。それは。

他のことを、確かめなければならない。

 

 それも、毎回、違う人の。

 そして、お前が誰なのか。

 気力が寸断されようが木っ端微塵に爆破されようが、確かめなければならない。折れているならセロテープでぐるぐる巻きにして直してしまえばいい。

「おっさん、セロテープ、ある?」

「は?」

「いいから、貸して」

 何のことか分からない店主は、それでもセロテープを屋台の下から出してくれた。

 お礼を言って、直感で一つケースを掴む。

 自分の脳味噌だ。自分で分からないでどうする?

 中まで覗く気にはなれないが、銃弾で貫通したその穴を、セロテープで塞いだ。穴を塞いだところでどうなるとも思えないが。気休めだ。

「……お客様?」

 いぶかしげな店主。ああわかってるわかってる、俺も大概に頭がおかしくなってしまったらしい。

「おっさん、これ貰ってくな」

「え?」

「撃った景品貰えんのが、射的だろ?」

 ポケットにケースを捻じ込んだ。

 頭が軽い。

 今はすごく考えがすっきりしている。

 それはそうだ。ここの台に全て集められているんだから。

 お客様困ります、と後から声が聞こえたが、関係ない。俺の頭の中身だから、俺が好きにして当然だろう。

 それよりも、確かめなければならない。

 薫陸の言った意味を。

 もう肩に乗らない、あの子どものお面の下の顔を。

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