第2章 はじめまして
定刻を告げる目覚ましの音に覚醒する。
お風呂場を確認しに行ったけど、誰もいなかった。シャワーも止まっている。結局その日、怪奇現象の類は一度も起きなかった。その次の日も。そして、その次の日も。成仏したのか。それともどこかへ行ってしまったのだろうか。
あの騒動から丸五日経った日の夕方、動きがあった。学校から戻ると、部屋の中に人の気配があった。窓の隙間から覗き込むと、そこにいたのはあの幽霊女だった。成仏したわけじゃなかったらしい。
そして誠に残念なことではあったが、今日は服は着ていた。
彼女は鼻歌を歌っていた。しかもこれがなかなか上手なのだ。
もうしばらくそれを聴いていようかと思った時だった。
「おかえりなさい。もうすぐごはん出来るから、もう少し待ってて」
不意に声がかかる。帰って来ていたことを知られていたらしい。若干、躊躇いがちに俺は部屋に入った。
あれ? どうして自分の家を覗いて罪悪感を感じていたのだろう。
その少女は風呂場であった時とは違い、長い黒髪を纏め、よくある三角の白い布を頭につけて、真っ白な着物を纏っていた。そして二つの鬼火を両サイドに浮遊させている。
火事になるといけないからやめて!
幽霊を見たのはこれ一匹だけど、その姿は完璧で、写真を撮ればそのまま妖怪図鑑なんかに載せられそうなビジュアルだった。かなり美人なのもポイントが高い。着物を着ているから、胸が無いのも逆に栄えて見える。
先ほどから見ていて、俺に危害を加えてくる様子はないが、まだ信用はできない。俺はひとまず交信試みることにした。
ワレワレトモダチ、デテケコノヤロー、というセリフを飲み込みつつ、
「ごめんね。名前以外のこと色々教えてもらえるかな? どう見ても普通の人間には見えないから。透けてるし、足ないし、なんかちょっと浮いてるし」
「だって私、幽霊だもん。うらめしやあっ」
「ナラジョーブツシロ!」
「それが出来たらやってるから。いわゆる地縛霊っていうのかな? 実は、私もどうしたらいいのかわからなくて……」
恥じらい顔で恐ろしいことを言っている。しかし舐められたものだ。頰染めながら可愛こぶったところで俺は騙されない。だからお願いです。ずっとその顔でいてください。
気を取りなおす。
「で、何で水出しっぱなしにしたの? お前のせいで、俺の新生活がいきなり水道代で崩壊しそうなんだけど」
「出しっぱなしになっちゃったのは、止める力がなかったから。ほら、幽霊って基本的に実体があるわけじゃないから、物を動かすのって結構大変なんです。それに、原因はよくわからないんだけど、最近なんだか、お風呂にいると力が入らなくて」
お風呂で力が入らない。その原因に思い当たる節があった。あの同級生の巫女さんから貰ったお札だ。なんでも「私の神社に伝わる強力なお札で、悪霊には効果抜群。今ならなんとクラスメイト割引で二九八〇円」とのことで、一枚、お風呂場の入り口の上に貼ってある。その後知ったが、神社の社務所で二千円で売られているものらしかった。割引って何だっけ?
ということは、コイツは悪霊なのか?
「おかしいんだよね。昔は、お風呂にはすり抜けて入ることができたのに、最近は戸を開けないと入れなくなっちゃったし……」
いつも通り、普通にすり抜けようとしようとしたら、思いっきり戸のフチに頭を強打してもがいていたらしい。他にも湯船に潜って息止めてたら、足をツって溺れ死にかけたこともあるのだとか。大丈夫、お前はもう死んでいる。
そういうわけで「痛い」やら「苦しい」やらで、助けを求めていたのだという。
以上が、俺が怯えていたものの正体だった。
巫女さんのお札の効果は抜群だった。
「お前、頭悪いだろ?」
「あんまり勉強とかには自信があるわけじゃないけど……お前って言わないで」
「うるさい、お前」
「あんまり調子に乗ってると、呪っちゃうよ?」
「……すみません、やめてください」
いや、ホントやめてください。
「それで、ここで地縛ってるのは、あんただけなの、他には?」
「私だけだよ」
それで少し安心する。こんなのが他にいるなんてわかったら、流石にどうしたらいいかわからなくなる。きっと呪いの量も計り知れない。
「そういえば、入居してから、押入れからすげえ腕が伸びてるとこ見たことがあるんだけど」
「ああ、あれ。新しい家主さんが来たから歓迎の挨拶をしてあげたの。もしかして怖かった?」
そう言いながら、幽霊女はケラケラ笑った。
ムカついたから、ダメ元で頭にチョップした。しかし、どういうわけか手応えがあった。思わず感心してしまう。涙を滲ませながら痛がっているので、どうやら痛覚もあるらしい。本当にこいつは、幽霊なのだろうか。
「それより水道だ。元に戻せないもん動かしたりすんな」
「だからこうやって謝るために姿を見せたでしょ? 安心して? これからはちゃんと断ってからお風呂に入るから」
この痴女め、ここに居座るつもりか。そういえば地縛霊って言ってたっけ。
「それにお風呂では、変な姿見せちゃったし。……これからはちゃんとノックしてよね」
「怪奇現象が起きてる現場にノックしてから入れってか」
ただ、彼女の身体は別に変じゃなかったと思う。それどころか手足は長く、スタイルも申し分ない。湯気で細部まではわからなかったけど、透けている足先から順番にふくらはぎ、太もも、腰、胸、首筋……と思い出して、胸を二度見した。
この子はどこかに、おっぱいを忘れてきてないか。
攻防ゼロのへなちょこおっぱい。略してチョコパイ。大体、おバカキャラって、胸のサイズが大きい子が多いじゃん。
嗚呼神よ! 主はこの娘から知性だけでは飽き足らず、おっぱいまで奪うのですか。
「それで、チョコパイちゃんは、いくつの時にここで死んだの?」
「16歳だけど……待って、チョコパイって何?」
「人を馬鹿にするのも大概にしろ。あのおっぱいのサイズでなにが16だ」
いいとこ小5のサイズだろ。小5の胸なんて見たことないけど。
ガンっと、ちゃぶ台にチョコパイの拳が叩きつけられる。その頬は紅潮していた。
「どうしよう。本当に呪い殺したくなった」
「どうしよう。俺、まだ死にたくない」
「……ねえ、いいかげん名前で呼んでよ。同居人のよしみで、特別に下の名前でいいから。その代わり、私も伊歌って呼ばせて」
彼女の言葉には寂しさが滲んでいる。そんなに胸のサイズを気にしていたのか。いや、きっと胸のサイズは関係ない。彼女いない歴=年齢で、なんなら三次元の女の子とは、天気の話でしか盛り上がったことのない俺でも、おっぱい以上に触れてはいけない何かがあることはわかっていた。
だって、彼女はかつてここで自殺した幽霊なのだから。
彼女が望むなら、俺はその期待に応えよう。名前で呼べばいいんだろ?
「き、きちっ……あの、えっと、小泉さん」
苗字で呼ばれることには不服らしい。ただ、不満げな表情を見せたのは一瞬のことで、彼女は僅かに口元に笑みを浮かべると、やたら良いイントネーションで、楽し気に要求をした。
「伊歌、リピートアフターミー、帰蝶」
なるほど、つまり繰り返せと。
「伊歌、リピートアフターミー、帰蝶」
「違う!」
「……いや、あってるよね?」
そんな問答を繰り返して、帰蝶はやがて瞳に先ほどとは違う種類の哀愁を纏わせて、俺のプライドを木っ端微塵に破壊する質問を投げつける。
「あなた、ちゃんと学校に友達いる? クラスの女の子ともお話できてる?」
昔は一人いた。今だと、小学校の頃から知り合いの先輩を含めていいですか。それなら一人。もっとも、その人とは高校に入学してから一度も会ってないんだけど。
「それに伊歌、会った時から全然、私の目を見てくれないよね」
何をとばかりに、彼女の目を見つめる。でも、恥ずかしくなって一瞬で逸らした。
「これはあれだ。あんまり女の子を見つめ続けるのも悪いだろ?」
「顔赤いよ。私でこんなだったら、クラスの子と顔向き合わせたっらどうなっちゃうの」
お前こそが、ハイエンド女子の究極形態だろう。未満児並に未発達な部分がいくつかあるけどな、主に胸。
俺の独言を無視して「これは、一筋縄では行かないかも」なんて言いながら、帰蝶は勝手にこれからの予定を立ててゆく。
「とりあえず、夕飯食べたら、特訓をしましょうね」
そのセリフに、生唾を呑み込んだ。
「ねえねえ、ごはんおいしかった?」
幽霊女の問いに「微妙」と答え、いくつか注文をつけた。
「あれならまだ俺の方が上手だ」というと、めちゃくちゃ怒られた。
「じゃあ今から作ってよ?」という無理難題には、流石に明日以降にしてくれと頼み込む。
まもなく、世にも奇妙な地縛霊の「クラスの女子とかっこよく会話でき流ようになろう教室」が始まった。
幽霊女から「ああでもない、こうでもない」と細かな支持を受けながらだったが、それでも次第に幽霊との会話のコツが掴めてくる。時間の中で一番過酷だったのは三限目の睨めっこだった。
だって可愛い子の変顔って、萌えるよね。
ただ、指導の甲斐もあってか、そこで俺は驚異的な成果をあげてしまう。元からイケメンで、生まれつきなんでも器用にこなしてきたが、これほどまでに急成長したのは例がない。
なんと俺は、わずか六時間の間に、彼女を「帰蝶」と、しかも彼女の目を見て呼べるようになったのだ。
「まだぎこちない」等と嫌味を言われたが、きっと大人の階段を登るとは、こういうことなのだと確信した。
帰蝶から「可」が出た頃には、午前三時を回っていた。でも、不思議と悪い気分ではなかった。いつもよりすっきりとした気分でベッドに横になる。
おやすみ帰蝶。ありがとう帰蝶。俺は微睡に沈んでいった。
同棲することになった幽霊女子の残念な点は、おっぱいのほかにも何点か・・・ なゆた先生 @NAYUTASENSEI
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