番外編:チョコレートは甘いだけじゃない
去年までのおれにとってバレンタインデーとは、バアちゃんが美味しいお菓子を作ってくれるだけのイベントだった。
人間社会の文化にかなり迎合している月城町も、ここぞとばかりにバレンタインムードになっている。商店街にはチョコレートの催事場が開設されているし、十六夜城にある恋人たちの鐘も大盛況だ。零児はきっといろんな女の子に対して「チョコレートの代わりにきみの血を飲ませてよ」だなんて口説き文句を投げかけるのだろう。
おれはこれまでそんな光景を恨めしそうに見ているだけだったのだが、今年は陽毬がいる。陽毬はきっとたぶんおそらく――いや、絶対間違いなく――おれにチョコレートをくれるだろう。陽毬はとっても優しくて、(たまに怖いくらいに)献身的な女の子だから。
おれは人並みに甘いものが好きだし、なにより好きな女の子から本命チョコを貰えることが楽しみで仕方がなかった。だからバレンタインの日に、陽毬から「今夜バイトのあと、わたしの部屋に来てください」と誘われたときも、わくわくと期待に胸を高鳴らせていたのだ。
「薙くん。これ、どうぞ」
陽毬は期待通り、おれのためにチョコレートを用意してくれていた。彼女が冷蔵庫から取り出したのは、お皿に乗ったチョコレートケーキだった。「ありがとう!」とそれを受け取ったおれの顔は、だらしなく緩んでいるに違いない。
「ショコラテリーヌにしてみました! お口に合えばいいんですが」
「しょこら……てりーぬ……?」
初めて聞く名前だが、陽毬が作ったものなのだからきっと美味しいのだろう。右手の骨折はとっくに治っていたけれど、陽毬が「あーん」とフォークを差し出してきたので、おれは素直にそれを口に含んだ。
ショコラテリーヌとやらは、中がしっとりしていてチョコレートが濃厚でとても美味しかった。陽毬は本当にすごい。すごく美味しいとても美味しいと少ない語彙で褒めちぎるおれを、陽毬はニコニコと嬉しそうに眺めていた。
ケーキはそこそこの量だったけれど、二人で仲良く分け合いながら、残さずきれいに平らげた。おれは両手を合わせて「ごちそうさまです」と言ったあと、深々と頭を下げる。
「陽毬、ありがとう。おれ、こうやって好きな子からバレンタインのチョコ貰うの初めてだから、ほんとに嬉しい。おれって幸せ者だな……」
おれはもう二度と、バレンタインというイベントを呪ったりしない。ありがとうバレンタイン。来年も無事に訪れてくれよな。
「うふ、薙くんの初めてを貰えて光栄です。でも薙くん、ごちそうさまにはまだ早いですよ」
「え」
「まさか、これで終わりだなんて思ってませんよね? だとしたら、ちょっとわたしを見くびりすぎです」
拗ねたようにぷくっと頰を膨らませた陽毬も可愛くて、ついつい見惚れてしまう。おれがポーッとしているあいだに、陽毬はどんどん距離を詰めてくる。
「わたし、一生懸命考えたんです。どうしたら薙くんに一番喜んでもらえるんだろうって」
陽毬は口元に指を当てると、ちょっとあざとい仕草で首を傾げた。うるうると潤んだ瞳と上気した頬のせいもあって、謎の色気が漂っている。そういう顔はおれに効く。こうかはばつぐんだ。
「やっぱりお付き合いしてから初めてのバレンタインですから、わたしが恋人でよかった、って思ってもらいたいじゃないですか」
陽毬はそう言って、「ねっ」と微笑む。いつでも思ってるよ、という返事は、唇に押し当てられた細い指によって封じられてしまった。
「お料理は苦手じゃないけど、薙くんのおばあさまほどではないですし。お店で売ってるチョコレートも、あまり高いものは買えませんし……」
「ひ、ひまり」
「だからやっぱり、ここはわたし自身を美味しく食べてもらうのが一番だと思ったんです」
妖艶に笑んだ陽毬が懐から取り出したのは、小さなプラスチック製のクリーム容器だった。陽毬は容器の蓋を開けて、おれに向かって差し出してくる。途端に、頭がくらくらするような――女の子の血の匂いによく似た、甘い香りが漂ってきた。
「……な、なにこれ」
芳しい匂いではあるのだけれど、あまりの強烈さに目眩がしてくる。おれは酒を口にしたことはないけれど、なんだか酔っ払ってしまいそうな匂いだ。
おれの反応を見た陽毬は、容器に入ったクリームに鼻を近づけて、くんくんと嗅いだ。
「わたしには無臭に感じるんですが、やっぱり吸血鬼にとっては違うんですね……」
「……それ、何なの?」
「はい、これです!」
陽毬はニッコリ笑うと、スマホの画面を突き出してきた。見ると、通販サイトの商品ページだ。クリーム容器の写真とともに「吸血鬼の彼を夢中にしちゃおう! あなたの血が美味しくなるボディークリーム!」という宣伝文句が踊っている。おれは眉をひそめた。
「う、うさんくさあ……」
「そうですか? でも、結構口コミもいいですよ。彼に毎日求められるようになりました、だって」
「肌に塗るだけで血が美味しくなるなんて、どう考えてもおかしいよ」
「味玉だって、一晩タレに漬け込んでおくと中まで味が染みるじゃないですか」
陽毬はしれっと言ったが、おれとしては可愛い彼女を味玉と一緒にされるのは心外だ。
おれが困惑しているうちに、陽毬は部屋着のモコモコとしたパーカーを脱いで、長袖のTシャツ姿になった。両手を広げて、顔いっぱいににっこり笑みを浮かべる。
「なんと、昨夜しっかりとボディークリームを塗り込んだ処女がここに!」
陽毬はそう言って、いそいそとおれの膝の上に跨ってきた。甘えるように、細い腕が俺の首に絡まってくる。誘われるがままに腰に腕を回すと、座ったまま向かい合って抱き合うような体勢になった。
「ほらほら、下ごしらえは完璧ですよ」
「……そこまでしなくても、陽毬の血は毎日美味しくて最高だってば」
「でも、もっともっとわたしにメロメロになってほしいです……」
「ただでさえメロメロなのに、もうこれ以上メロメロになったら困るよ……とっくに好きの天井だよ」
「わたし、薙くんならまだまだいけるって信じてます!」
陽毬はそう言って、ぎゅっとおれに強く抱きついてきた。薄いシャツごしに押しつけられた身体が柔らかい。
さっきまではチョコレートの匂いと混じってよくわからなかったけれど、こうして密着してみると、陽毬自身からもさっきのクリームの香りが仄かに漂っているのを感じる。肩口に顔を埋めてこっそり匂いを嗅いでいると、陽毬が耳元で囁いてきた。
「ね。試してみませんか?」
鼓膜を直接震わすような甘い声に、ぞくりと肌が粟立つ。おれは「いただきます」と言ってから、剥き出しの首に牙を立てた。
腕の中にある陽毬の身体が小さく震える。怯えさせないように、そっと背中を撫でてやる。喉を流れる陽毬の血はチョコレートよりも甘い。相変わらず極上の味だったが、いつもと違いがあるようには感じられなかった。
「……いかがです? もしかして、メロメロになっちゃいました?」
それでも、きらきらと期待に輝くヘーゼルブラウンの瞳にまっすぐ見つめられると、「ウン」と頷くよりほかなくなる。陽毬は「やったあ」と笑って、すりすりと頬擦りをしてきた。
ああ、どうしようもなくメロメロだ。陽毬と一緒にいると、「好き」の天井なんていとも容易く超えてしまう。
我慢できずに、後頭部を引き寄せてキスをした。このまま唇を食いちぎってしまいたいような衝動に耐えながら、短い口づけを何度も繰り返す。間近にある陽毬の顔が、幸せそうに緩んだ。
「……嬉しい。これからも薙くんに夢中になってもらえるように精進しますね」
「そんなに頑張らなくてもいいのに……」
うさんくさいクリームに頼らなくたって、おれはいつでも陽毬にも陽毬の血にも夢中なのだ。陽毬は微笑んで、おれの頬を両手で包み込んだ。
「だってわたしは、薙くんよりも早く年老いていくじゃないですか」
「え?」
予想だにしていなかった発言に、おれは瞬きをした。陽毬は穏やかな笑みを浮かべながら、淡々と続ける。
「わたしきっと、すぐに〝うら若き処女〟じゃなくなります。薙くんに一番美味しく血を飲んでもらえる時期って、きっとそんなに長くないと思うんです」
「そ、そんなこと……」
「だから今のうちに、いっぱいわたしの血を飲んでくださいね」
おれは絶句した。もしかすると陽毬は、おれよりももう少しシビアな目で、これからの未来を見ているのかもしれない。
おれはもし陽毬がおばあちゃんになったとしても、今と変わらず愛していると自信を持って言える。それでもきっと、おれは陽毬と同じスピードで歳を重ねることはできない。陽毬は遠い未来にいつか、おれを置いていってしまうのだ。
すうっと、急激に背中が冷えていく。この腕の中にある幸せを失うことが、おれは恐ろしくてたまらない。
――置いて行かれる方が辛いですよね、と言った陽毬の気持ちが、今のおれにはよくわかる。
縋るように、華奢な身体をきつく抱きしめた。「苦しいですよ」と尖らせた唇を、やや強引に塞いでやる。置いて行かないで、という言葉を飲み込んだキスの味は、ほんのちょっとだけほろ苦かった。
ごちそうさまが聞こえない 織島かのこ @kanoco
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます