凍玻璃の向こうを、ボクたちは知らない。
宵嵜
第1話
荒廃した街の一角、廃ビルの錆びきった外階段をのぼる影が二つ。飛び跳ねれば穴が開いてしまいそうな、所々手すりも崩れ落ちているその階段を踏みつけるのは、二人の少女だった。
少女たちの住む街はひどく廃れていた。常に砂ぼこりの舞い上がる道には、いつだって人の気配がない。そのくせ一歩路地に足を向ければ、薄汚い布を被った子供たちがこちらを睨みつけてくる。広がっていた美しい花畑も、街の真ん中にあった大きな噴水も、夜を埋め尽くした眩しい星空も、焼け焦げて塵と化したのだ。
「軍下民間統一化計画」と呼ばれる政策は酷いもので、常に軍兵たちによる監視が張り巡らされ、いわゆる絶対王政の独裁支配が続いていた。街中の陰に息を潜める子供たちのほとんどは、親に見捨てられたか、あるいは先立たれたかのどちらかだった。
大人たちは言った。いつか、必ず誰かが助けにきてくれるから、と。
子供たちは待った。唯一の愛した家族を。いつか出会う救世主を。
しかしいくら待てど、日常を取り戻してくれるはずの救世主はおろか、己を抱きしめてくれた家族さえ、現れることはなかった。
あと何回殴られればいい?あと何本骨を折られればいい?あと何人飢え死んだらいい?あと何日待ったら、それは現れてくれる?子供たちはほんの少しの希望を捨てられないが故に、自ら命を絶つことを選べなかった。「もしかしたら」という夢物語に、少しでさえ縋ってしまいたくなるほどには、街の子供たちはまだ幼かった。
そんな街の深夜二時。監視の目をすり抜けて、二人の少女は街郊外の森の中にある廃ビルを訪れる。「
少女たちは名前を持っていなかった。授かった名を教えてくれるはずの大人たちは皆、揃って消えてしまった。街の子供たちの中でも年長な二人は勘だけは鋭く、大人たちは逃げたこと、自分たちは捨てられたことを誰よりも理解して生きてきた。そうして数えることをやめた何回目かの満月の夜、二人は互いに呼び方を決めることにした。髪の長いほうが「リリ」、短いほうが「テオ」。名付け合った互いの名は不思議と居心地が良くて、最初からそうであったみたいにしっくりと馴染んだ。
しばらく無言で階段をのぼり続けていた二人だったが、半分ほどを過ぎたところで、前を行く髪の長いほうの少女___リリが口を開いた。
「どうして、付いてきたの?」
テオは、一瞬だけ足を止めて、言葉が降ってきたほうを見上げた。
「理由がないと、付いてきちゃだめ?」
「なくても、いいけれど……」
「リリは相変わらずだね」
テオは少しだけ目を伏せる。後ろを振り返ろうとしないリリに伝わってしまわぬよう、いつもの声音で。
「ボクが付いてきたかったから。ただそれだけだよ。」
「……そう。」
リリが此処を訪れた意味を、テオは薄々察していた。けれどそれが確信に変わる前にこの廃ビルに着いてしまい、結局憶測のまま歩を進めている。
太陽はまだ見えない。工場からの灰色の煙が立ちこめる夜空からは、星はおろか月すらも覗かなかった。
視界が暗闇に慣れた頃、二人は目的の屋上へと足を踏み入れた。
長い間人が立ち入らなかったのであろうそこは、錆びついた柵が今にも崩れ落ちそうだった。その先に広がる街の景色も殺伐としており、テオの口からは苦笑が零れた。その景色が、記憶の中にある美しい街並みが搔き消されてしまいそうで、思わず目を逸らした。
「ねぇテオ、」
テオの視界に映るのは、綺麗な長い髪を夜風にゆらして街を眺めるリリだった。先刻テオが目を背けた景色を、吸い込まれるように見つめ続けている。
「なに?」
「テオは、救世主って信じてる?」
突如投げかけられた問いは意外なものだった。希望論を好まない二人の間にはこういった話題は滅多に交わされることがない。理想を描くだけの逃避が生み出す絶望の苦しさを誰よりも理解していたからだ。
「信じられるわけないでしょ。そうやって願って焦がれて何も変わってくれなかったこと、リリは忘れちゃったの?」
「忘れてなんかないわ。もちろん。私たちが一番分かっているもの。」
そう言ってリリは目を細め、グラグラと揺れる柵に手を掛けた。どうしてそんなに悲しそうな顔で街を眺め続けるのか、テオには分からないままだった。
「じゃあ、どうしてリリは此処に来たの?」
「救われるため、なんて言ったら、貴方は怒るんでしょうね。」
挑発的に放たれたリリの返答に胸倉をつかんでやりたい衝動を抑え、テオは少しだけ距離を詰めた。交差したリリの目線は、心の内側を覗かれたかと錯覚するほどに透き通っていて、色がなくて、空っぽだった。その瞳にテオは少しの恐怖と安堵を覚えてしまう。
「私ね、分からないの」
「何が?」
空を舞う煙が途切れたその隙間から月明かりが差す。月光に照らされたリリの表情はよく見えるはずなのに、それがどんな顔なのか、何故かテオには分からなかった。リリはまっすぐテオを見つめて、たまに自身の長い髪を弄んだ。
「私たち、みんな持ってるでしょう?生という名の片道切符。生かされることが前提で、誰も不平等の無いように生きとし生けるもの全てに与えられた一枚の切符。けれどどうして、終着駅が書かれていないの?どうして誰も教えてくれないの?自分で決めてしまうことすら許されなくて、私、何が正解か分からないの。」
「……そうだね」
風が冷たい。寒いわけではないのに、雪に覆われてしまったみたいに冷たいのだ。この指先から凍り付いて崩れてしまいそうな感覚が、二人には分からなかった。正解を知っているのは大人たちだけだと思っていた。しかしそれも違ったかもしれない。彼らでさえ知り得なかったから、皆去っていってしまったのではないか。
「分かりっこないんだ。置いて行かれたボクたちには。」
テオが握りしめた拳は震えていた。それが怒りか悲しみか、あるいは恐怖なのかは分からない。テオ自身にも分からないその感情ごと包むように、リリはテオの震える手を握った。二人は額を合わせて、互いの熱を感じる。やはりそれが居心地が良くて、テオはただその温もりに身を預けた。
「だからね、私は降りる駅を決めに来たの。救われないことなんか分かってる。救われたいなんて思わない。ただ分からない世界と、大嫌いなこの世界とサヨナラするために。」
◇◇◇
「テオには、夢ってあるの?」
「ゆめ?あるよ!パイロットになって鳥みたいに海を渡るんだ!」
幼い少女たちは、薄暗い路地で楽しそうに笑っていた。
「リリは?ボクばっかり答えてずるいや」
「ふふっ、そうだね。」
叶わない夢物語でもいい。少しの間だけの理想に浸る、幼い心がそこにあった。
「私はね、写真を撮って回りたいんだ。世界中、全部全部、四角い箱に収めるの。」
路地に迷い込んだ猫が、隙間から入り込む太陽の下で眠たそうに欠伸をしている。白いその猫の背を撫でながら、少女たちは無邪気に笑う。
「じゃあ、ボクが空まで連れていってあげる。そしたら、撮りたいもの全部一枚に収めて、最高のやつをボクに見せてよ!」
「一枚に……ふふ、あははっ、そうだね。じゃあ、連れて行ってもらおうかな。一番にテオに見せるって、約束するよ。」
繋がれた二本の小指が、暖かな太陽に照らされて影をつくっていた。
◇◇◇
監視の届かない街外れの森のさらに奥、かつて訓練飛行場の一部として使われていたという廃ビルの屋上で、一人の少女が目を覚ました。色の抜けた薄茶色の短い髪が、遠くの山間から覗く紅い光に照らされてキラキラと輝いた。少女が重い瞼を開いたその先には、崩れ落ちたのか、はたまた落としたのか、ぽっかりと転落防止の柵が一部だけ無くなっていた。その近くには、綺麗に揃えられた靴と、小さな空き瓶、それから一枚の紙切れが落ちている。少女は立ち上がり、喉に張り付くような苦みを払うように唾を吐いた。小さな空き瓶を手に取ると、「
少女は靴を履き替え、紙切れを乱雑にポケットへ入れる。視界の隅に映る暁の空に、ほんの少しだけ意識を向けて、歩きだした。
「うそつき。」
消えない小指の熱が、いつまでもじくじくと痛んでいた。
凍玻璃の向こうを、ボクたちは知らない。 宵嵜 @yoisaki_438
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます