失われた結末

鍋谷葵

失われた結末

「アナタは、どんな結末を望みますか?」


 距離と時間が失われた暗黒の中、私の目の前に現れた燕尾服とシルクハットをかぶった英国紳士風の衣服を身に纏った私よりも背の高い初老の男性は、彫りの深い顔に余裕のある笑みを浮かべながら問いかけてきた。そこに込められている意味は分からない。私にしてみればこの状況も、意味不明なのだが。意味不明が多すぎて、理解が追いつかない。

 なら、過去を思い出そう。

 確か私は、いつも通り夜の十一時きっかり布団に入ったはずだ。そして、何ら変わらなく普段通り寝たはずだ。キッチリキッカリ、習慣付けた時間通りに私は仕事を終え、食事をとり、寝たはずだ。

 しかしこの状況はその普段の筋書きから大きく逸脱している。私の意識は、何十年も使い古したせんべい布団の中では無く、このような暗黒の中に現れている。しかも、全身の感覚が無い。喉が渇いただとか、眠いとか、そんな生理的感覚も無い。

 けれども、立ち上がろうと思えば足は勝手に動くし、動こうと思えば手も動かせる。だが、そこに感触は無い。宙をふわふわと浮かんでいるような、雲の体をゆらめかせているだけのような、不思議だ。

奇妙だ。

 待て待て、頭がこんがらがって来た。こんな奇妙な事象を認識しようとすると、頭が追いついてくれない。

 いや、私がこのように困惑する必要な無いのではないか? おおよそ、目の前の紳士はどうしてこのような状況になったのか知っているだろう。それならば、この紳士にこの状況のあらましを聞いて見れば良いのだ。私は感覚の無い口を意識的に動かしながら、目の前のにこやかな紳士に尋ねてみた。


「ここは一体どこなのです?」


「……アナタは、どんな結末を望みますか?」


 私の質問を受けた紳士は、先程までのゆったりとした雰囲気を影に潜め、眉間に皺を寄せ、こちらを非難するような目つきで私を見つめてきた。そして、その後、不服気な口から初めの問いと全く同じ言葉が紡がれた。異なるとすれば、声色が酷く不機嫌になっているということだ。

 どうして、この紳士は怒っているのだろうか? いや、怒っていないにしてもどうして不機嫌になったのだ? というよりも、彼が不機嫌になるには理由が分からない。むしろ、私が不機嫌になるべきだと思う。しかし、それを言葉に出してはならない。紳士を気をさらに悪くさせてはどうにもならない。

 それでもだ。私の質問に答えてもらわねば、私も彼の問いには答えられない。一体何の文言なのかを理解できなければ、解答の意味は無いのだから。


「答えて下さい。ここはどこで、アナタは誰なのです? もしかして、冥界かどこかなのですか? それとも単なる私の見る悪夢なのですか? どうか、教えてもらいませんか」


 へりくだった言葉遣いで私は、紳士に再び問いかけた。これに答えてもらわねば、私はここで彼の顔をジッと見つめ続けて、否が応でも答えてもらうのを待つしかならない。果たして、それで彼の口が割れるかどうかは分からないが。

 けれども、どうやら私の忍耐を必要とすることなく紳士は答えてくれるようだ。もっとも、表情や咳払いする声色は先程から浮かべている嫌悪から何一つとして変わっていない。


「そこまで言うのならば、教えて差し上げましょう。おっほん、私は……、そうですね、まあ、信じられないと思いますが、天国へ……、うっうん、導く、ええっと、天使です。もっとも……、私も、主によって創られてからまだまだ間もないため、中々言葉を、円滑に、発することはできない……、不器用な天使なんですがね。それに、先輩諸天使から習った、昇天の文言しか……滑らかに言えないんですよ……。ですから、アナタの質問を……、ええっと上手く言えなくて、少し、悪い態度を取ってしまった……、訳です」


「なるほど、そう言う訳ですか。私も長生きできるとは思っていましたが、まさかここまでの命ですか。まあ、でも、特別後悔も無いので、早いこと連れて行ってください」


「アナタ、ショックでは無いのですね……。まあ、人、それぞれですから……ね」


 不機嫌だった紳士こと新人天使は、私が昇天を受け入れる言葉を受け取ると皺だらけの目元をカッと見開いて、口も面白おかしくO字型に開いてただでさえ、たどたどしい言葉をさらにたどたどしく、舌っ足らずなその口調をさらに酷くさせた驚きの声を発した。

 想定外の中の想定外で、私は吹き出しそうになってしまった。ただ私が吹き出すことは無かった。それは舌っ足らずな紳士が、間違えて唾を気道に飲み込んだらしく咳き込んだ時、その声が犬の鳴き声にそっくりだったからだ。まさか、初老の紳士のしゃがれ声が、犬の鳴き声に変わるなんて誰もが想像しないだろう。それも自称天使がそんな獣の声を発するとは、大きく情報から外れている。

 けれども実際、紳士は喉元を手で押さえながら苦しそうに犬の鳴き声をゲホゲホと咳き込みながら発している。そして、彼はその苦しさから抗うように、不自由なのか左足を引きずりながら右往左往し始めた。続けざまに起きるとんちきな出来事に、私は頭を悩ませ、西洋画に神々しく描かれている天使にもこんな面白い奴が居ると思うと、私の頬は緩んでいた。


「ワンワン! おっとットと……、良くない良くない。あの方から、少しは、礼節を重んじろと……言われてたんですけど。うんうん、でも、まあ、良いです。さあ、アナタはどんな結末をお望みですか?」


「ああ、そう言えばアナタはそう言ってましたね。私の結末は、そうですね、何の山も無い凡庸な人生でしたから、何か美談的な結末が良いですね。私の行動で、誰かの人生が救われたとか、そう言う結末が良いです」


 鳴き声に気を払った自称天使は、相変わらず舌っ足らずの声で私に尋ねてきた。そこには、不機嫌の皺は出来ていなかった。ただ、にこやかに、西洋画の天使の笑みで満ちていた。そして、私は緩んだ頬をそのままに、自分の結末の在り方を見習い天使に頼み込んだ。

 会社員として二十二から三十四年間働き続けた私に、ささやかな美談を弔いの詩として見送って欲しい。質素な願いだ。


「ええ、分かりました分かりました。ではでは、その通りにさせてもらいますよ。アナタの結末はそれでいい訳ですね。なるほどなるほど、ではそうさせていただきます。さっ、私の手を取って、さあさあ」


「えっええ……」


 いきなり饒舌になった見習い天使は、万年の笑みを浮かべ、その節っぽい手を私に差し出した。少々驚いたが、天からの使者が喜んでその手を取ろう。その節っぽく、固くなった手を取って私はあちらへ行こう……。


 自称天使の手を取った初老の男が、寝床から目覚めることは無かった。いや、それどころか、魂の抜けた骸すらなかった。ただ、その代わりに布団の中からはぬらぬらと深緑の鱗を光らせる一匹の蛇が這い出ていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

失われた結末 鍋谷葵 @dondon8989

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ