act.52 福音
三十歳。
分譲マンションを購入した。
アパートでも広さとしては申し分なかったけど。
家族向けのアパートだったから。
人の移り変わりが激しくて。
みんな一戸建てを購入して去っていって。
その度に取り残されたような気分になるから。
いっそのこと、って。
紋太が思い切って購入した。
部屋が広くなった。
だけど。
二人の距離は狭まったように感じた。
三十五歳。
紋太が辞職した。
給料のわりに待遇が良くなかったらしい。
話を聞いている限りでは。
確かに、と頷けた。
紋太はニートになった。
正確には就職希望者だからニートじゃないけど。
ニート、って馬鹿にしてみた。
紋太は笑っていたけど。
元々俺のほうが給料が高かったから。
結構気にしていた。
無職期間中は紋太が家のことをほとんどやってくれた。
だから。
俺はかなり楽だった。
それに。
帰宅すると紋太がいるから。
俺はすごく嬉しかった。
二人分の生活費は稼げているから。
紋太が無理して働く必要はなかったけど。
けど。
辛そうな紋太を見ていたら。
そんなことは口が裂けても言えなかった。
紋太は。
職業安定所へ通って。
次の職を見つけた。
前職と同じ建築関係だったけど。
今回は結構待遇が良いみたいで。
紋太は心の底から喜んでいた。
幸せそうな紋太を見ていると。
俺まで幸せな気分になるから。
紋太が働けて良かったと思った。
四十歳。
俺は管理職についた。
だけど紋太は平社員のままだった。
紋太は良かったな、と言ってくれたけど。
社会人人生が二年長い分。
少し不満げで。
少し溝ができて。
気まずくなる瞬間が増えた。
俺は。
紋太が好きだから。
紋太の笑う顔が好きだから。
何とか笑ってもらいたくて。
旅行に誘ったり。
イベントに誘ったり。
釣りに誘ったりして。
だけど空回りばかりして。
そんな俺を見て。
紋太は呆れたように笑った。
不器用だな、って。
らしくねえな、って。
愉快そうに笑って。
だけど不思議と不快感を抱かなくて。
寧ろすごく嬉しくて。
俺は笑った。
紋太も笑った。
ごめん、って。
帰りの車内で言ってくれた。
俺は。
謝罪の言葉なのに。
どうしようもなく嬉しくなった。
きっと。
紋太に嫌われていないと思えたからだ。
俺の気持ちは。
昔から微塵も変わっていなかった。
四十五歳。
俺と同棲していることを。
周りに知られたと紋太は言った。
寧ろ隠していたのかと驚いた。
俺は。
訊かれれば素直に答えていた。
分譲マンションに住み始めた時点で。
隠し通せるものではないと思ったからだ。
苦笑する人もいたけど。
気にせずに振る舞う人のほうが多かった。
俺の考え過ぎだったんだ。
それとも。
時代の移り変わりのおかげかもしれない。
もしくは。
気持ち悪い目で見られないとわかったからかもしれない。
人間は現金な生き物だから。
自分に損失が出ないとわかれば陽気になる生き物だから。
だから。
俺は気持ちが楽だった。
世間の目も少しは操作できるとわかったから。
けど。
紋太は違った。
同僚に子供は育てないのか、と訊かれたらしい。
子供は産めないから。
代わりに養子はどうだ、と。
紋太は悩んでいた。
俺はどちらでも良かった。
紋太は真剣だった。
だからこそ、同僚の提案を断った。
代わりになる子供が可哀そうだ、と。
自分たちの都合で引き取られた子供が可哀そうだ、と。
俺にその気がないことを知っていたから。
養子をとろうとはしなかった。
俺のせいかと思ったけど。
紋太は笑顔で否定して。
子供に勉強を教えるボランティアを始めた。
俺も誘われて参加した。
紋太は使い物にならなかった。
だから。
俺が代わりに勉強を教えた。
楽しかった。
俺は。
昔から教えるのが好きだったのだろう。
紋太に教えていた頃を思い出した。
紋太を見ると。
子供と一緒に問題とにらめっこしていた。
子供みたいだった。
俺は。
子供が好きなのだろう。
そう思ったけど。
こうして他人で在りたい、と。
望んでいる自分にも気が付いた。
紋太は。
選択肢として考えただけで。
絶対に子供を育てたいと思っていたわけではなかった。
子供までいたら幸福死する、なんて。
よくわからないことまで言っていた。
俺だけでは幸福死しないのか、と。
謎の感情を抱いたりもした。
いい年したおじさんだったのに。
青い感情がまだ残っていた。
五十歳。
部下が結婚した。
披露宴のスピーチを頼まれた。
結婚していない俺がスピーチするなんて。
男同士で同棲している俺が言うことなんて。
何もなかったけど。
部下は。
俺にやってもらいたい、と懇願した。
熱量のある部下だった。
お世辞にも俺は人付き合いが得意ではないから。
あまり好かれていないと思っていただけに。
その言葉は嬉しかった。
披露宴当日。
部下へ向けてスピーチをした。
結婚していなくても。
結婚の尊さはわかる。
結ばれることに違いはないから。
相手が男だろうと女だろうと。
抱く感情は同じはずだ。
俺は。
部下には必ず幸せになってほしい。
配偶者にも幸せになってほしい。
永遠の愛を契り合った二人だからこそ。
どれだけ辛く過酷なことがあろうとも。
二人で乗り越えてほしい。
部下が素晴らしい人間であることを知っているから。
必ず。
そう伝えた。
そして。
隣人は。
いつも君を見ている。
いつも君を愛している。
だから。
君も隣人を愛しなさい。
人の悪意よりも。
人の善意に触れなさい。
人の愛情に触れなさい。
そうすれば。
君の人生は宝石の如く
愛情は。
君を輝かせる太陽だから。
と。
俺の宗派はキリスト教ではないけど。
ペトロを意識していたわけではないけど。
俺は。
俺の伝えたいことを伝えた。
今まで生きてきて。
辛かったこと。
苦しかったこと。
楽しかったこと。
悲しかったこと。
全てを思い出し。
もっと早く知りたかったことを。
どれだけ闇に塗られた人生にも。
必ず光があるということを。
数行の言葉に凝縮した。
少し寒いかと思ったけど。
全てアルコールのせいにして。
吐き出した。
部下は。
大袈裟に泣いていた。
新婦が部下の目元をハンカチで拭っていた。
いい奥さんだな、としみじみ思った。
祝福の拍手は。
自分へ向けられたものでなくても。
心地好いものだった。
五十五歳。
父親が亡くなった。
後を追うように母親も亡くなった。
八十歳を超えていたから。
長生きしたほうだろう。
晩年。
両親はあまり外出をせず。
毎日散歩やガーデニングなど。
行動範囲を狭めていた。
自らの死期を悟っていたのかもしれない。
遺品の中には遺書があった。
俺へ宛てた言葉。
手紙と呼ぶには簡素な文章。
【紋太と添い遂げなさい】
らしくない文章だった。
同棲していることにも。
分譲マンションに住み始めたことにも。
あまり触れてこなかったのに。
父親が俺たちのことをどう思っていたのか。
知ることはもうできないけど。
きっと。
俺が幸せだったことには気付いていたのだろう。
母親の遺書はなかった。
まだまだ生きるつもりだったのだろう。
だけど。
俺と紋太が分譲マンションを購入した時。
父親と一緒に遊びに来た時の写真が。
四人揃って撮った写真が居間に飾られていた。
あの時。
父親は相槌を打つばかりだった。
母親は終始ニコニコしていた。
『立派になっちゃって』
その言葉が。
俺の胸を打った。
認められたような心地がした。
母親を幸せにできたように感じられた。
では父親は。
幸せだったのだろうか。
ふと。
写真を眺めた。
あの時。
父親が笑っていたことを初めて知った。
俺は。
親孝行できたのだろうか。
六十歳。
休日。
二人で散歩して。
まだ足腰は大丈夫だ、とか。
風が心地好い、とか。
今度温泉に行こうか、とか。
年相応の会話を交わして。
互いに顔を見合わせて。
何の意味もなく笑った。
意味もなく笑えることが。
こんなにも幸せで。
こんなにも満たされることだと。
改めて知った。
それはきっと。
俺の隣に紋太がいて。
紋太の隣に俺がいて。
それだけで。
あの懐かしい日々を思い出せるからだろう。
決して順風満帆とはいかなかったけど。
輝かしかった高校生活。
紋太と再会した高校一年の夏。
幸せの象徴。
青春の
あの日よりも今日はずっと眩しい。
今日よりも明日はきっと眩しくなる。
その確信があるからこそ。
俺は明日を待ち遠しく感じるのだろう。
「紋太」
桜並木の下で。
ベンチに座って小休憩をとりながら。
遠く賑やかな家族連れの声を聞きながら。
俺は紋太へと声をかけた。
「ん?」
紋太がこちらを向く。
幼さは既に消え去ったけど。
愛嬌はいつまでも残っている。
「今度、花見しようよ」
「お、いいね」
紋太の顔がぱあっと晴れ渡る。
俺の顔も晴天になる。
「じゃあ、あいつらもさ」
誰と誰を誘おう、とか。
それとは別に二人きりで行こう、とか。
計画はどんどん膨れ上がって。
終える前に桜が散りそうだと思いながらも。
俺は決して否定なんてしないで。
いい年して無計画な紋太を見て。
「紋太」
「ん?」
ただ。
伝えたい言葉を口にした。
「ありがとう」
紋太はきょとんとした。
脈絡が無かったからだろう。
それでも紋太はくしゃっと笑って。
「どういたしまして」
俺の頬を掴んで揺さぶった。
「こちらこそありがとう」
紋太の癖だった。
俺は。
それがすごく好きだった。
「これからもよろしく」
「うん」
俺は頬を掴む紋太の手を握って。
細くなった紋太の指を感じながら。
けれど変わらない紋太の温かさを感じながら。
目を線にして微笑んだ。
「今日もいい日だね」
俺にとっての一番の福音は。
紋太が告白してくれたことではなくて。
同棲に誘ってくれたことでもなくて。
紋太が幸せそうに。
俺の隣でこうして笑ってくれることだった。
いや。
これからも紋太は俺に福音をもたらし続けるだろう。
一生をかけて。
俺は紋太と音を鳴らし続けてゆく。
鼓動と。
笑い声を。
完
ペトロとロミオ 万倉シュウ @wood_and_makura
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