薄氷

ばかわんこ

出会い

今井 敬は欠伸が出そうになる口を必死に閉じながら目前に座る女性の話を聞いていた。


「それでですね、私はこう言ってやったんです」


「......ハイ」


春の陽気の中に包まれるなか、気のない返事をしていることに気がついているのかいないのか目の前の女性は小学校の朝会での校長先生が話すありがたいお話ばりに興味の湧かない話を続ける。


(ああ、今日もいい天気だなあ)


女性の話には一滴も興味が湧かないが無碍にするわけにもいかず、適度に相づちを打ちながら彼女に気づかれない程度にスタバの窓から見えるのどかな空を眺めていた。彼は今井 敬。世間ではそれなりに名の知れた企業に勤め、それなりの立場にいるいわゆるサラリーマンである。仕事に対しての熱意には定評があり、自分でも今の仕事はやりがいもそれに見合った報酬も与えられていて合っていると感じている。少し探せば見つかるような、仕事に関しては順風満帆な至って普通の40代男性である。

だが彼には一つ、世の男性の多くが抱える問題があった。



彼は独り身なのだ。



30代まではよかった。趣味に金銭を注ぎ、そのそばには同じく未婚の仲間もいた。彼らとともに遊び、そして遊ぶための金はやりがいのある仕事を頑張れば手に入る。伴侶なんて作らずとも満たされた、ある意味では理想ともいえる人生を彼は送っていた。

だがそんな日々がいつまでも続くなどと言う甘い話はなかった。

仲間、同類だと思っていた友人は40を迎えるまでに競い合うように結婚をしていった。一人、また一人と減っていく仲間の結婚式の招待状が届くたびに馬鹿だなぁ、こうして自由でいる方が楽しいのに、と友人の幸せを祝いつつもどこかシニカルに笑っていた。気がつくと仲間はさらに減り、笑われる立場になっていたのは自分の方であった。人は孤独でいることには耐えることができるが、孤独にさらされることには耐えられない。結婚はいいぞ。子供はいいぞ。周りからはそんなことばかりを言われるようになった。今井は自分が笑われることに耐えることができなかった。


友人から成婚率の高い結婚紹介所を聞き出し、決して安くはなかったがものは試しとばかりに登録をした。

見た目は悪くない。年収もある。特に悪いところがあるわけでもない。強いて言えば年齢ぐらいのものだろうがそれも男として味のある年齢であるといってしまえば強みにさえなる。

そう楽観的な自己評価を下し、すぐに相手が見つかるだろう。そんな甘い見通しを立てていた。

だが彼は結婚市場、婚活市場とはそんなに甘いものではないということを思い知った。男も女も若い方が価値があり、それ以外のステータスはそこまで重要ではないのである。年齢以外の条件がよくてもさしてそれは意味がない。エンジンの付いていないベンツのようなものである。

いまや40代である今井とマッチングするのは皆口裏を合わせたようにどこかしら欠陥のあるものばかり。ヒステリック、バブル時代を未だに引きずる化生、人への要求だけは高い婚活モンスター。人が婚活という特異な活動において出会うことができる、世間で「地雷」と呼称される生き物にはあらかた出会ったのではないのだろうか。このままでは順調に図鑑を埋めていくばかりである。だがここに図鑑を監修する博士はいない。図鑑を埋める意味はもちろんない。

なんにせよ、今井は過去の自身が立てた甘い見通しを大幅に見直すことになった。


「ねえ、聞いてますか? 私の話」


唐突に今井は現実の世界に引き戻し、初めて目の前の女性をじっくりと見ることになった。彼女は美しいとも、麗しいともいえない見た目で少し怪訝そうな表情をしてこちらを見ている。

(えっと、こんな時はどうするんだっけな)

彼は自身の記憶をたどり、この状況に対して最も女性の機嫌を損ねることなく切り抜けることができる方法を探す。特に目の前の女性に思い入れがあるわけではない。だが、彼が身を置く今の市場においては、普通であるということがかけがえのない価値を持つほどに重要なことなのである。


「すみません、ちょっと他事を考えていまして」


「今目の前で座っている私の話よりも大事なことがあると言うんですか?」


今井の言葉を中途で遮り、目の前の女性は先ほどまでうっすらとあった眉間の皺をさらに深くして言った。


「私が話しているのにどうして聞いていないんですか?」


前言撤回、どうやら彼女もまたこの市場に巣食うガンの病巣の一つであったらしい。

流石に興味が湧かないからなどと火に油を注ぐようなまねはできず、沈黙という選択肢を採った今井は再び空を見る。


(ああ、今日もいい天気だなあ)


外の晴天が嘘のように荒れ狂う目の前の嵐を尻目に今井はそんなことを考えていた。



「まーたやっちまいましたか」

「やっちまったのは向こうじゃないのかい」

「いやまあそうなんですけどもね」


あー参った参ったといいながら書類をパラパラとめくる少し頭に加齢の蓄積が見られるこの男は中山である。下の名前は忘れた。


「なんでこんなモンスターばかりと当たるのかね」

「結婚相談所に来るような人間にまともなやつなんていませんよ」


こんなトンデモ発言を繰り返すやつがどうしてこの業界で働けるのかと今井は素直に疑問を感じる。


「大体ねえ、普通の人は普通に生活してたらなんか結婚しているものですよ。ここにもごくまれにそんな人が現れますがすーぐ売れてっちゃいます。年なんて単位にはまずいきませんよ」


遠回しに自身のことを社会不適合者だというこの目の前の小男の頭が枯れ落ちる速度を少し早めてやろうと今井が身を乗り出したとき、小男は先ほどからパラパラとめくっていたうちの一枚を手に取った。


「次はこの人なんてどうですか?」


今井は目の前に差し出されたその書類に目を向け、言葉を失った。いやでもその人何にも条件つけてないから冷やかしかもしれないですけどねえ、と中山がなにか言っていたが、今井は食い入るようにその書類に身を乗り出していた。


そこには息をのむような美女が微笑を浮かべて佇んでいた。















(家の鍵ちゃんと閉めたっけ?)


今井は彼女との待ち合わせ場所として指定された駅前のローソンの前に突っ立っていた。

その手には独身男性の心の友、格安SIMのスマホが握られている。

時間はもちろん30分前。できる男は待ち合わせ時間の30分前には着いていなければならない。これは彼の数少ない金科玉条の一つである。根拠はない。効果は見ての通りである。


中村の提案した女性とマッチングをすることについて今井から特に反対することはなかった。見た目に関しては申し分ないし、そのほかの条件も特に今の今井からすれば不満のある部分はなかった。

この年齢にもなって恥ずかしいことかもしれないが、今井は未だ会いもしない女性に対して淡い恋心を抱いてしまっていた。

結婚とは学生のする恋愛のような気分でするものではなく、結婚を前提にするのが婚活というものである。中山の再三の問いかけに対しても今井は聞く耳を持たず、書類上の華の君とマッチングをすることを望んだ。 中山は40代のおっさんがするようなことではないと言いつつもできる限りのことを行い、そうしてこのような状況になった。


彼女の名前は北川 翠と書いて、きたがわ すいと言った。


(仕事だからとはいえ、あいつにも一応感謝しないとな)


AG+でも送ろうかと、そんな下らないことを今井が考えていたときであった。


「あの......。今井さん、今井 敬さんでよろしかったですか?」


スマホを手持ち無沙汰にいじる今井に妙齢の女性が少し遠慮がちに話しかけてきた。

その呼びかけに振り向き、そして固まった。


そこには書類上の華の君、北川 翠がいた。


ただ少し違ったのはその美しさである。

これがオーラというものであろうか。実際に目で見る彼女は書類上の彼女よりも数段美しく見えた。


「えっっと、もしかして人違いというやつをやってしまいましたか?」


固まる今井に対して彼女は戸惑いを隠せず、思わずそんなことを口走っていた。


「あ、ああ。大丈夫です。私が今井で合っています」


初々しい高校生のような反応だなぁ、と自分の中で思いながら今井は彼女の問いかけに対してやっとの思いで答えた。









結果から言えば彼女との逢瀬、今風に言えばデートであろうか、それはとても楽しかった。

己が惚れた相手と人生の一時を共にできるのだ。楽しいに決まっている。そのような時間を楽しいと言わない人間などこの世には存在しないであろう。居たとすればそれはもう人間ではない。あまのじゃくかなんかの妖怪の類いである。早急にゲゲゲの鬼太郎を呼ぶべきだ。ついでに桃太郎も。

冗談はさておき、デートの感触はよかったと今井はベッドの上で大の字に寝転がりながら考えていた。

今井自身、それなりに話のうまい方ではないが、その今井の話に対しても彼女は飽きた様子も見せず、時たま相づちを打ち、そして話が広がるような質問をしているようにも感じたので、成功か成功ではないかと言われれば成功の方に近いのではないかと思う。


シュポッ


LINEからメッセージが来た音がした。


【明日の飲み会の件なんですが】


今井はそっと携帯を脇に置き、眠りについた。









それから幾たびか、彼女とデートを重ねた。彼女とは10も年が離れていたが、不思議と馬が合い、時にジェネレーションギャップを感じながらも幸せな時を紡いだ。しっかりと互いが交際していることを確認したわけではない。だが不思議と二人は恋人のような関係であると無意識に感じあう仲になっていた。そんな曖昧な関係が半年続き、世間がハロウィンだ何だと騒いで居るときも今井と北川は二人だけに許された距離感の二人だけの世界の中でお互いのことを想いながら過ごしていた。

そうして日の昇っている時間は短くなっていき、世間はすっかりクリスマス一色になっていた。





今井は再び彼女と初めて出会った駅前にあのときとは違う冬の装いで立っていた。待ち合わせの時間のきっちり30分前。彼女には再三窘められたがこれを曲げることだけはしなかった。

今回は携帯をいじってなどいない。そんな余裕などあるはずがない。


「すいません、少し遅れました」


「まだ待ち合わせの30分も前ですよ」


「それはこちらの台詞です、何度言っても聞かないお馬鹿さん」


彼女は少しそっぽを向きながらそんなことを言ってみせる。端から見ればただのバカップルであるし、きっと他のカップルがやっているところを今井が見たならば、少々野次馬根性を発揮するような場面ではあるが今そのことは関係ない。


今この場面の主人公は自分たちなのだ。


「馬鹿ですいませんね。それじゃあ、行きましょうか」


今井は彼女の手を取り、駅前の駐車場へと向かう。今宵彼らの人生は繋がる。脆く儚いものであれど人は繋がらずには居られない生き物であるのだ。

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薄氷 ばかわんこ @wsnksdtu

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