小指程度に重く、噛み合った私達の本能

洞木 蛹

 私の世界はとても小さなものだった。産まれてから平穏に、そして裕福に育てられてきたおかげで、街から離れ一人暮らしもしていない。安全安心な旅行で遠出はある。しかし、それはその場所に住んで暮らしたとカウントされない。遊びに行っただけじゃないか。

 旅をしながら多くを学んで、刺激を求める冒険者が羨ましい。

 各地に眠る過去の遺産、俗に言うお宝を探すのも有り。人に害をなす魔物を退治するのも命がけで、退屈な毎日じゃないだろう。

 なんといっても、彼らはどこにいっても求められる人材。宿にカフェや街中の掲示板にある「依頼」をこなすと、報酬としてそれなりの金銭が手に入る。大変で簡単ではないが、大金や名声を求め挑む若者は多い。

 もっとも、今の私には適わぬ夢だ。

「楽じゃないのは知ってるけどさー」

 ペンを振って私は呟く。微かに腕の骨が軋んだ。傷はまだ治っていない。少しだけ擦り痛みを払った。

 魔物に負ける未熟な冒険者が多いという。例えば「大金が手に入るから」「簡単そう」「誰にでもなれるし夢がある」なんて軽い気持ちで挑めば、一生モノの傷を負うなど、冒険者の旅人や周辺の人物からよく聞かされている。

 この時ばかりは自分が小心者であることを喜んだ。私に大きな勇気と勢いがあれば、その道を歩んでいてもおかしくなかったんだから。

「きついよね、色々と」

 目の前で友達が食べられる、腕や足を失う、一時的な言語障害、魔物の攻撃による後遺症、性的暴行、人格の喪失……酷い話をこれでもかと浴びせられた。特に暴行関係になると、ヒトとして戻れない確率が高い。それは私、人間だけでなく、

「ユッコ、冒険者になりたいの?」

 動物と人の姿をするアンネルジュも同じ。

 夢を追うにも、夢に殺されるにも、種族は関係ないのだ。

「わたしは……元だったから、お勧めできないし、今こうして居ることが幸せだよ」

 豊かな体毛を持つ彼女、メティが不安げに呟いた。

 私よりも二回り大きくて、体重も倍ぐらいあって、胸だってすごく大きい。とっても大人びている。まるでお姉さんだ。それなのに年下のような可愛さがあるのは、垂れたイヌ科系の耳と、優しい目のおかげ。

 でも、彼女の素敵な所は大きな口にある。力強くてかっこよくて、触られるのは嫌みたいだから撫でてないけど、まっすぐなラインから覗く尖った歯なんて、可愛い彼女に不釣り合いで、大好きだ。

 彼女の全身を眺めてから、私は首を振るう。

「なりたくないさ。だけど、こう、なんていうの? 刺激が欲しくって」

「刺激……? まさかユッコ、盗人にでもなって刺激を」

「ならないって! しないしから安心しなよ。だってさ」

 少し用があって行った場所で見たある光景を思い浮かべる。


 そこは――人やアンネルジュが行き交う露店市で、あたかも当然のように盗みが起きたのだ。騒ぎ声と隙間を掻い潜る姿に、私達は呆気にとられていた。良くあること、と太っちょの商人は困り顔で笑っていた。彼らが盗むのは決まって店の商品。客から物を盗まない。対策をしても延々と続くなどの愚痴を聞かされてしまった。

 用件を済ました後はもう人通りが少なっていた。店もほとんど閉まっている。がらんとする中、露店の奥にある通路へ視線を投げた。あんな道あったんだなぁと。目を凝らすと誰かが居たが、あの太っちょに話しかけられた。

 随分と清々しい顔には、ほんのり汗が浮かんでいたのを覚えている。彼は私達にこう言った。

 盗賊を一人捕まえたんだ!

 詳しく語ってこようとしたがメティはゆるやかに断って、先へ進もうと耳打ちをした。太っちょは軽快に笑いながら見送ってくれた。また来ておくれ、と。私が手を振り返そうとするも、彼女がその手を握る。会釈だけで済ました。それからメティは小さな声で語ってくれた。

 あの人からオスの臭いがしたの。奥の道からも、あんまりにも臭くって……デリカシーの無い大人……

 メティはそれだけしか教えてくれなかった。さすがイヌ科のアンネルジュと口にしても顔色はそのまま。あの場に居たくないとか嫌だった、ということは伝わった。不機嫌そうに歯肉が見えるまで口を歪ませていたんだから。


 今振り返ると、盗賊は捕まった後に「制裁」を食らったのだろう。それも複数人に。当然と言えば当然だ。悪いことをしたら報いを受けるのが世の常。

「盗みなんて死んでもやらない。誓う」

「誰に?」

「メティに。……なんてね。しっかし、こうも何も無いと暇だよ。やっぱり生きるには刺激が欲しいと思わない? お客が来ないんだよ! 昨日も一昨日も!」

 というのも、ここ、私の親戚が営む雑貨屋はとても退屈で、最悪。私達は毎日ここで店番、店主の親戚はそれを利用して――冒険者稼業に出かけている。雑貨屋に並ぶ品物は魔物や宝石とか珍しい物を、ほんの少し使った装飾品がほとんどを占めている。素材を自分で集めて作っているので、新商品が出来るのも時間がかかる。変わり映えもしない雑貨屋に誰が来るんだ。私達で何か提案したりやったりしたいが、責任は負えない。

 おまけに帰ってくるのはまだ先。どんなところで何をしたかのお土産話も、当分あとのこと。

「あーっ退屈!」

「刺激、ねぇ……」

 ふとメティが顔をあげる。どこかに行こう、と誘ってくれるのかと期待してしまう。周辺のあれこれに娯楽を知らない私より、賢くて、人脈もあるんだから、何かあるんじゃないかって。

「ユッコは、友好的な種族って、知ってる……よね」

「どうしたのいきなり。まぁその、淫魔とかそこで働いてるしアンネルジュだって友好的じゃない?」

 ほんのり派手な……夕方から明け方に空いている大人のお店なら近くにある。切り盛りするのは人間で、従業員は「どちらも持っている」淫魔。知能も高く言葉も話せるし私達にも優しいし、悪戯をしたりされたり、一緒にご飯も食べる。決して悪くない「魔物」だ。

 でもそれ以外は……と腕を組む。

「じゃあ、その、小人、は……どうかな」

「こびと?」

「ここにはあまりいないけど、その、小さい人間のような……魔物なんだ」

「えっなにそれ、アリみたいな感じ?」

「……うん。賢くて自我もある小さな人間みたいな魔物。集団で襲ってくるし、アリよりも強くて沢山いるの」

 人間の姿をした魔物、それも小さい上に賢い、と。一人ならまだ大丈夫だけど、うじゃうじゃいたら……おぞましくて体中の毛が震えあがりそうだ!

「きもちわるっ!」

「そっか、そうだよね。……でさ、ユッコ」

 ――どうしても行きたい所があるの。

 メティが怖がりながら呟いた。いけないことを打ち明けるように。叱られそうな子供みたいな顔をして。へ? と私は素っ頓狂な声を上げる。なんでそんな顔をしているのだろう。

 もしかしなくても、小人にまつわる場所へ行きたい、だけど小人は人間そっくりという。なんとなく分かったフリをして頷いてみせる。

「それって遠い?」

「ううん。隣り街」

「あのおっきいとこ?」

「でも……無理にって言わないよ。ただね。ユッコの、その、刺激を満たせられるかなって……でも、すごく気持ち悪い、かもしれない」

 気持ち悪いなら、なんで話すのだろう。疑問を口にしかけたが、私の欲求のために提案してくれたんだ。きっと珍しいあれこれに違いない。私の心の疼きも収まるかもしれないし。

「いいよ。暇だし。店番終わったらでもいい?」

「ほ、本当……! お金はわたしが出すからね、いつもユッコにはお世話になってるし」

 大きな尻尾を揺らしてまで喜んでいる。ふわふわの耳も上下に動いて、こっちまで楽しみになってきた。


 時刻は夕暮れ過ぎ、閉店の看板をかけて、軽くオシャレもしていった。

「こっちよ」

 隣り街――ウェンダはすぐ近くにあって危険な道のりも無い。しっかりと整備された一本道の両脇には丈夫な灯りがあって、道行く人やアンネルジュを見守っている。

 私達はその流れに乗って、何事もなくウェンダに着いた。賑やかなカフェ、集団で和気藹々とする若い冒険者たち、テラスで食事をする光景や、仲睦まじい家族連れなどを眺めた。メティはどんどん奥へ進む。私自身、ここにはあまり来ていない。

 商工業に、頭が良さそうな場所、冒険者向けの施設……娯楽はあれど遊びには向いていない。カフェも一食のお値段は高くて手が出しにくいし。

 だから少し意外だった。メティ、あなたってここによく来てるの? 穏やかな毛並みを覆う質素なワンピースを掴んで聞いてみたかった。ほのかに甘い香りがする。彼女から発されているのか、私の横を過ぎる誰かのものなのか、料理から漂っているのかなんて、人間の嗅覚ではわからなかった。

「おまたせ、ここなの」

 繁華街を抜けた先、ぐるっと回って飲食店の裏へ来たら、行き止まり。誰もいないし喧騒も遠くから聞こえて不思議な感じがする。不思議そうにまばたきをする私を見つめ、メティは壁へ手を伸ばす。柔らかな肉球が触れると、

「……扉ぁ?」

 ゆっくりと奥へ押されていった。重たそうな石壁が。見上げてみても、普通のお店……の裏側にある石壁だ。どうなっているの、と呟く。彼女は面白そうに笑うだけで答えてくれなかった。

「大丈夫、ユッコみたいな娘もいるから安心して」

「いやいや安心できない造りなんだけど……でも、まぁ、中は普通……だね?」

 不安だったがメティが居る、それだけで心強い。

 お店らしき建物の中は、普通のカフェだ。が、ずいぶんと高い仕切りが囲んでいるので誰がどこに居るか分かりにくい。やってきた店員は小柄なアンネルジュ。ピンと立った大きな耳とふんわりした頬の毛が愛らしい。店員は私達に笑顔を向けながらお辞儀をして――メティが耳打ちをしてから案内してくれた。座ってみると周りの視線が入ってこない。覗こうとしなければこちらを窺えない、それでいて密室未満なんて変な感じだ。壁には可愛らしい絵画があるぐらいで、窓は……どこにもない。

「……普通じゃないカフェだね」

 おまけにメニューも無い。なにを注文するのかも分からないなんて。とんだお店だと吐きかけたけど、入り口ですらまともじゃなかった。つまり、ここは知る人ぞ知る場所なんだろう。

「なにが来るの? そもそも……ここは――」

「はいな、お待たせしましたよ!」

 やって来たのは先ほどのアンネルジュで、大きめのサンドイッチを一つテーブルに載せた。手際よくグラスと伝票を置くと、ニコニコして行ってしまう。

「私、ここの常連……までじゃないけど、よく来るんだ」

 えへへ、とはにかんでサンドイッチに触れる。

 柔らかそうな真っ白いパンが捲られる。そこにあった……いたのは野菜でもない。

 細い糸のようなものに巻かれた、小さな、小さな人間。

 小人だ。多分きっとそう。小人。

 髪も生えていて足の指もある。服は……わからない。

 それらは葉の上に寝かされていた。その下にあるのは別の具だろうか、微かに盛り上がっている。それよりも私は、

「う……ぐっ」

 身体が何かを拒絶しかけた。脳みそから顔にかけて冷水が垂れるような不快感がする。唇が震えて、喉が締まって上手く言葉が出ない。

 小人は三人いた。私の小指ぐらいの人間が、三人も、並んでいる。一人はぐったりして、もう二人はぐねぐねと――暴れている。少なくとも私にはそう見えた。見えてしまっている。

 ……これを、食べるの?

「これが小人だよ。ユッコは見たこともないんだよ、ね」

 喋りながら暴れる一人を爪で小突いた。私は恐る恐る顔を窺う。穏やかで優しいいつものメティだ。可愛らしい鼻をひくひくさせて、ゆっくり瞬きをしている。

「コイツらはね。魔物、なんだ。有害指定生物。冒険者が狩る魔物の一つ。ほら、スライムのゼリーってあるでしょう。それと同じ」

「お、同じって、そんな」

「ねぇユッコ。怖い? 怖かった……?」

 反応に困る。怖くない、のは嘘だ。いくら魔物でもそれは私とらと同じ人間そっくりだし。つい置き換えてしまう。私や、私でない人が、食べ物の上に寝かされて、生きたまま食べられてしまう。

 彼らは怯えている。死を覚悟している。きっとそうに違いない。

「魔物も人やアンネルジュを食べるの。わたし、見てきたんだ……見たことがあるの」

 ぽい、と暴れる小人たちを皿に落とす。残ったのは静かにしていた小人だけ。あ、と私が声をあげてもメティは何も言わず、サンドイッチを丸めて大きく口を開けた。ズラリと並ぶ歯はどれも鋭利で、真っ白に輝いている。中央に居座る舌べろも艶めかしく光沢を纏い、パン生地に触れ、

「んっ……」

 ぶちりと噛み千切った。

 一瞬、怪我をした腕が痛んだ。同時に快感に似た何かが私を貫く。

 どうしてだろう。慣れ親しんだ彼女との食事なのに。妙な気持ちが、怖さが、湧いてくる。聞こえるのは野菜の、葉っぱのみずみずしい音ぐらい。すぐに半分も口へ放り、今度は瞼を下ろしながら味わいだした。生唾を飲み込んでしまう。ただ物を食べているだけなのに、どうしてか、いやらしい。

 咀嚼に合わせて揺れる体毛も、どこか恍惚そうな瞳も、私の知らないメティだ。

 不規則に蠢く口と、上下する喉も、緩やかな鼻息も、私の知らないメティ。

 視界の端で小人が跳ねている。ころころ、ころころ、ばたん。冷たい皿の上でまわっていた。

「メティ……」

 どうして私の体温は上がっているのだろう。嫌なぐらい胸が高鳴っている。口を開ければ心臓が飛び出てしまいそう。びちびち跳ねる私の心臓を見たら、有りえないけどもしも、そんなことを出来たらメティは――

「美味しい?」

 言葉だけが出てくれて、ホッとするも悔しいような気持になる。メティは大きく身を震わせ、口の中にあったモノを飲み込んだ。ぼんやりと想像してしまう、彼女の胃の中を。ぐちゃぐちゃに潰されて唾液で柔らかくなったパンと野菜と、小人の残骸。

「とっても美味しいよ! あのね、パンとお野菜にもこだわりがあるんだって。素材も一級品なの。表のお店でも評判だし」

「表の店?」

 言いながら理解した。ここは要するに裏、隠れてやるような、だろう。付け足すように彼女は語る。大通り向けの――普通の商売では普通のサンドイッチ、新鮮な野菜や果物を挟んで売っている。ただ、ここのように食べるのではなく、持ち帰り限定として。

「そっちの方も気になるなぁ」

「帰りに寄る? それならユッコも、食べれる……かな」

「そう、だね」

「……あのさ、その。変とか、気持ち悪いとか、言ってもいいんだよ」

 口の端っこが引きつる。決して否定したくないけど、否定できない。矛盾が私の中で回っている。言葉に悩む間、他の席からだろう、微かな音がした。食器にフォークやナイフが触れる音だ。他の客も、同じようなものを――食べている。

「なんでだろ。驚いたよ、うん、驚いた。小人の状態とか……まぁ、なんていうの? えーっと。だってさ。メティはアンネルジュ、じゃん? おかしくなんて、ないよ、きっと」

 だってあなた以外にも小人を食べてる人がいるんでしょう?

 そもそもの話し、動物――牛や豚に鶏だの鹿その他たくさんの生き物を食べている人間だって、同種に近いアンネルジュからしたら怖いかもしれない。種族が違えば捉え方も食べ物の好みも違うし。土や雑草に木を食べたり、生肉や魔物を生きたまま食べたり、人間にとっておかしくても彼らの普通だもの。私は言い聞かせるように脳内を散らす。

「ただ少しびっくりした。小人、初めて見たし、人間そっくりだったから」

 言い切って肩を下ろす。ああ、彼女はこれを、私に見せたかったんだ。それだけの……それだけのこと。

 皿の上にいる小人は、身を寄せ合って震えていた。私達の言葉、伝わるのかな。知能が高いっていうんだから。

「わたし、ずっと、ずっと隠そうか迷ったの。食べたいって、ずぅっと思ってたから」

 なにを、とまでは声にしなかった。聞こえなかった。

「でもどうして私に話そうって?」

 グラスの水に口を付けてみる。普通の水。味がしない。意外にも落ち着いていられる自分に笑いそうだ。

「ユッコ、毎日刺激が欲しいって言ってたから、満たしてあげられるかもって」

「ははは……そうね、そうだね。私の世界ってとんでもなく小さいって思い知らされたよ」

「あのね、わたしのお母さんが言ってたの。つがいの小人を分け合った者は固く結ばれる、昔々の言い伝え」

 と、メティは皿に視線を注ぐ。

「初めは冗談かと思ったけど、冒険者をやっていた時にね、聞いたのよ。友達から。おまじないみたいなものなんだって。本当の所は……小人の消費を促すだけのでっちあげらしんだけど」

「ねぇ。小人って、本っ当に沢山いるの?」

 彼らに何の罪があってこうなるのか、同情もしてしまいそう。同時に無知であることが恥ずかしくなる。なんて馬鹿なの、私ったら。刺激なら本や図書館にあるんじゃない?

 自己嫌悪の中、メティは救いの手を伸ばすように語った。とても穏やかで、子守唄を謳うように言葉を紡ぐ。

「いるよ。わたしが居た所はもう酷くて、物は盗まれるし壊されるし、子供は大怪我を負わされるの。アイツらは悪いヤツなんだ」

 だから、とふかふかの指で小人を掴み上げた。嫌がっているのか、ぐるぐる巻きにされた身を大きくくねらせている。一匹は長い髪を振り乱していた。あの髪までも食べる、それはどうかと身構えてしまった。歯に挟まりそうだし。

「……メティはその、言い伝えを再現し――」

 すると思いっきり顔を左右に動かした。

「無理になんて言わないよ! 小さくても味が濃いし、小人の体も人間に近いし生きてるし! わたしはユッコに、食べてるところを見てもらいたいの……刺激になるのなら。

 ユッコはもうわかってるはず、わたしって、アンネルジュは残忍なの。あなたの傍に居るわたしは、こんなにも惨たらしいの。もう隠せない、隠したくない」

 ほんのり覗く白い歯が、渦巻く本能を物語っていた。出来ることなら抱き締めてやりたい。じくじくと腕の傷が唸る。ああもうメティったら、無理してたってこと?

 今にも小人を潰してしまいそうだった。私はその手を覆うように握り締める。

「じゃあ……さ。それなら。口移しして。まだ食べることは抵抗あるから」

 背筋に汗が伝った。彼女の手も、私の手も震えている。怖いんじゃない。決して怖いんじゃない。自分に言い聞かせた。

 ほんの少し、びっくりしただけ、なんだから。

 ……あの時みたいに、噛みつかれた時と同じ、びっくりしただけ。


 そして彼女は実行してくれた。

 私のどうしようもない欲求のために。きっとこれは性欲だ。食欲だ。粘ついている本能。彼女も同じものを見せてくれた、私はそれに共振したんだ。

(ああもう、どうにでもなればいい!)

 怖いしグロイし、すっごく刺激的。呪文を唱えるよう心の中で何度もつぶやく。これは悪い事じゃない。新しい事。

(もし、私があんなことを言いださなかったら秘密にしてたのかな)

 黙って咀嚼するメティを見つめ、ふと思い返す。

 数か月前に出会ったあのときのメティはかなり弱っていた。身体も心も。毛並みもボサボサでダニもついていた。それを洗ってやったのは暇を持て余していた私。行くところがないならウチで働かない? って。

 だけど彼女は私が伸ばした腕に飛びかかり、牙を立てた。私を敵だと錯覚して、捕食相手な気がして噛みついてしまったという。

 そうして私は、利き腕に傷を負った。あと一歩で骨が砕かれるまでの大怪我を。

 抉れる肉の傷みと熱さで、私は声すらもあげられず、力が出ずだらんとしていた。そんな私を抱きしめメティは泣き叫んでいた。綺麗なアメジスト色の瞳から流れる涙も拭えなかった。

 悪かったのは私なんだから。お腹を空かせていて怖がる彼女にする行為じゃないんだもの、そうでしょう。純粋に助けたかったのに、私はただ――

「ユッコ」

 準備が出来たらしい。強い瞳で私を待っている。頷くと、緩やかに口内を見せてくれた。

 身を乗り出して中を覗き込む。もしこのまま彼女が口を閉ざせば、私も彼らのように潰される。それをも承知の上だった。

 ひどく血の臭いがする。ムワッとして嫌な感じ。小人の一匹は磨り潰されていた。小さな目玉が私を睨んだ……のは気のせいだろう。もう一人……一匹がいない。どこだろう。ううんと睨んでいると、舌が蠢いて、ペッと出してくれた。ちょんと乗せられた小人には、片腕が無い。だらだらと赤い液体が流れている。長くは持たないだろう。生唾を飲み込んで、斜めに構える。

 メティのように大きく開けないが、頑張ってみた。顎が外れない程度に。

 ああ、アンネルジュって凄い。人間に近いのに遠いんだ。

 彼女の長い舌に、私のちっちゃい舌を重ねる。ざらざらして、生暖かい。

 そうして、ゆっくり揉むように、小人を練り潰した。果実を転がしているみたいだ。口の端から唾液が流れ落ちる。拭っていられない。

 私達の間でぐちゅぐちゅ鳴っている。味は……よくわからない。まだ届かない。

 メティが私の腕を掴む。少しだけ痛かった。

「ふぉへを、ふぉふぇふぁ?」

 これを飲めば、まで伝えると舌ごと押し付けられた。急かすように。

「んっぐぅ!」

 甘く粘ついた蜜にまみれるそれは、異物。全身の毛が逆立つ。今すぐ吐きだせと脳が指令をくだす。吐きだせ、吐きだせ、吐きだせ!

 私は命令を無視して奥歯を噛み合わせた。硬い「実」が砕ける。中身の具を味わいもせず、すぐに喉へ流しこんでやった。

「……ほら、出来たよ。私」

「ユッコ無理してない? 汗すごいよ、やっぱり、わたし」

「甘いんだ、アンネルジュの唾液」

 気丈に振る舞ってみせたが、メティは呆れたようにグラスを押し付けた。仕方がないと呟いて、水で上書きする。

 今、私の胃に小人が居る。小さな小さな人間の姿をした悪い生物。そっとお腹を擦るも吐気が湧いてきた。吐くんじゃない、だって彼女のお腹にもいるんだ。お揃いじゃないの。

「メティ。もし、もしも、私が……」

 爆発しそうなぐらい熱い腕に力を込める。あの時、私が感じたあの気持ち……捕食される恐怖と、微かな快感はずっとここに残っている。

 もし、私が悪い子にでもなったら食べてほしいの。

 あの小人みたいに。……なんて口が裂けても言いだせなかった。勇気が出ない。メティは心配そうに首を傾げている。打ち明けたらどんな顔をしてくるんだろう。泣きだすかもしれない。

 汗だくになりながら私は笑った。

「次、また来たいって行ったら、連れて行ってくれる?」

「……うん。表のお店に、ね」


 それからというもの、彼女はことある度に私に謝った。心に傷を負ったんじゃないかと不安そうだ。打ち明けたのにスッキリしないと呟く彼女の背を撫で、良い刺激だったよと慰めるしか、私には出来ない。

 胸の中に残っているこの気持ちと同じ物を、彼女も抱いているとしたら。

 私はいつ言えるのだろう。

 食べてほしいって。噛みつかれた時から焦がれていたなんて。人間ってこんな残酷な事を言うんだよと、笑えるのはいつだろう。

 痛みが疼く腕を撫でる。痕は消えないだろうと、治るのも時間がかかるから力仕事や無茶は出来ないだろうと、お医者さんは言っていた。

 それでいい。痛みを纏いながら腕を伸ばしてやった。怖がりながら彼女が指を絡める。

「じゃあメティの奢りはまだまだ続くってことね?」

「んもう、わたしだってそんなにお金持ちじゃないのに。でもいいよ、ユッコになら」

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