第5話 お前と私

「すっかり語り込んじゃった。そろそろ準備を始めないと」


 女はそう言って、お前に近づいてくる。


「正直に言えばね、神崎先生とこんな関係を何年も続けて、精神が健全に保てるわけがないのよ。自分で自分が歪み切ってしまったという感覚だってあるの」


 お前の身には確かに恐怖が迫っているというのに、お前はのんきにあくびでもしているかのようだった。


「それにね、これは後から彼が教えてくれたんだけど。当時私を指導してくれた先生をいじめて追い込んだのは、彼だったの」


 お前はそれを聞いても、特に反応を示すことはなかった。何かを考えているようで、あるいは何も考えていないようだった。


「それどころか、クラスの中心的な男の子を扇動したのも、保護者の人にあることないことを吹き込んだのも、全て彼のしわざだったのよ。本当に笑えるわ」


 そう言って自虐的な笑みをたずさえながら、女は大きく息を吐き出した。


「あなたには全てを話す必要があったの。私の思いを受け入れて、咀嚼して、飲み込む。たぶん、彼にもそういう過程が必要だと思って」


 女が右手に持っている青い金属製の棒の先には、網がついていた。この部屋には場違いだと言わざるを得ない。


「まずはここから。順を追って、境界線をいくつも跨がせてやるわ」


 お前は体にまとわりつく振動から、普段と違う何かを感じ取ることは出来たらしいが、やっぱり考えることは決定的に出来ないようだった。


「安心して。きっとあなたもまた私の中で生き続けるから。私達の間には、こんな壁なんて今更いらないのよ」


 女はガラスの壁で区切られた空間の中へ網を差し込み、お前をすくいだした。


 果たしてすくわれたのはどちらなのか。もはやお前に残された猶予は少ないが、心配はいらない。お前と私の間には、もう境界線など存在しなくなるのだ。


 網の中でお前は全力で暴れている。 

 お前の跳ね上げたものが、磨き上げられた女の口元へと飛んだ。

 それが舌で舐め取られると、黒いほくろだけがそこに残った。


 それはまるで、泥がこびりついているようだった。




(了)

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オルタナティブ 秋山太郎 @tarou_akiyama

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