第4話 罪の意識
「岬先生、これ知ってます?」
神崎先生に呼び止められた私は、手渡されたモノに目を通して体が固まった。
「女性というだけで一方的に理不尽な思いをした、という内容なんですけど。背景が中学校の先生のお話だったりするんで、やけに身近な感じだなって思いまして」
身近に決まっている。プリントアウトされた紙には、私がフェイクを交えながら書いた体験談が載っていた。消去したはずなのに、一体どうして。
当時の反響はすさまじかったし、どこかで知り合いの目に留まるかもな、くらいの軽い気持ちではいたが、いざ目の前に出されると体がすくんでしまい、全く声が出なかった。
「あれ、どうしました? 顔色が悪いようですけど」
そう言いながら、神崎先生の口元がひどく歪んだ。私はその瞬間に、全てを察した。おそらくこちらの反応をうかがっていたに違いない。
「もしかしたら……くらいの思いつきだったんですけど。話の内容がどこかで聞いたことのある感じで、文体も少しだけ似通っていた部分がありましたし。でも、まさか書いたご本人だったとは――他にもこういった過激な発言などをされてらっしゃるようで……」
彼のいやらしい笑みを見ながら、ああ、これがこの人の本性なんだなと理解することが出来たが、どうやらそれは遅すぎたようだった。
消し去りたい過去の記憶をほじくり返された私は、どうしても手の震えがとまらなくて、未だに声も出せないでいた。相手の思惑通りの反応をしてしまったことが悔しい。それに、そもそもなんと返事をしていいのかすら分からない。
昼と夜、学校と自宅、現実とインターネット、そういった境界線を越えて存在していた私は、やっぱりどちらも私でワタシなのだ。
学級崩壊寸前のクラスを何とかギリギリまとめている私も、自分の思いを正直に文章へとまとめたワタシも、ネットで正義の鉄槌を下しているワタシも、全てが私の一部だった。
私はこんなものを書いていないと否定してしまえば、私がワタシを否定することになってしまう。それだけは嫌だった。女性だから侮られたのではないかと感じたことは本当だったし、この文章にはその時の私の正直な思いがそのまま綴られているからだ。
一方で、私が書いたと認めてしまうことは、そもそも無理な話だった。
現実の私が感じる鬱憤を、ネットのワタシが正義の鉄槌にのせながら、他者を殴りつけて解消しているだなんて、当然認められるはずがなかった。
サーッと血の気が引くという言葉の意味を身を持って理解しながらも、私はワタシが行っていた活動の一部が、いや、あるいは大部分かもしれないが、とにかくそういった活動が、自分でも行き過ぎていたフシがあったと再び思い知らされることになった。
「――知りません」
私は結局、そうやってあいまいに返事をして誤魔化すことにした。書いたとも言わないし、書いていないとも言わない。そうやって自分を守る事に執心することにした。
いつだってそうだ。それが自分の首をしめると分かっているのに、中途半端な選択をしてしまう。
「そうですか、そうですか」
神崎先生は相変わらず歪んだ口元を隠そうともしない。
「まあ、安心してください。どうやらまだ気付いた人はいないみたいですしね。誰にも言っていません。ところで――」
急に胸を揉まれた私は、ヒッと情けない声を絞り出しながら、今度は恐怖で体が固まってしまった。やめてください、と口から出掛かった言葉を、彼がひらひらとさせたプリント見て、ぐっと飲み込む。
もうすっかり窓の外は暗くなっている。職員室にこんな遅い時間まで残っているのは普段私一人だったので、おかしいとは思っていたのだ。
「わかりますよね。今日この後、お宅にお伺いしても?」
「……奥さん、悲しみますよ」
プリントを持つ彼の左手の薬指には、銀色の指輪がはめられている。私はそれを見ながら、なんとかそれだけ言葉を吐き出すことが出来た。
「お互い黙っていれば、誰も悲しい思いなんてしないんですよ」
ますます口元を歪める彼の表情は、きっと加虐心とか嗜虐心とか、そういうもので満ちているに違いなかった。私は自分がどれだけ醜い顔をしていたのか見せ付けられているようで、ひどく情けない気持ちになった。
女性の権利を強く主張していた私がこんな目にあうなんて、随分と皮肉なものだ。たぶんこれは、私へと下された戒めの鉄槌だろう。言葉の暴力は、最後には自分へと返ってくるということを改めて思い知り、昏い気持ちになりながら、私は家路へとつくことになった。
私も仮面をかぶって生きている。人間だれしもそういった側面はあるだろう。昼の顔と夜の顔、使い分けている人間はさぞ多いに違いない。ただ、彼ほど表裏の激しい人間は見た事がなかった。
甘い嘘で塗り固められた彼自身の本性は、きっと苦味を凝縮したような何かに違いない。それはまるでカカオの苦味を砂糖やミルクで誤魔化しているみたいで、まさにチョコレートそのものだった。いや、彼だけではないか。たぶん、私もそうなんだろう。
銀色の包み紙を破り捨てるようにして、彼は私の体から衣服を剥ぎ取った。そしてむさぼるように手を這わせ、舌で舐め、甘さに痺れているようだった。
私の体には、彼が吐き出した成れの果てが白く乾燥してこびりついている。泥のようなその痕跡は、あまりにも皮肉がきき過ぎていて、乾いた笑いしか出てこなかった。異臭を放つゴミ箱のような私には、さぞ似合うことだろう。
寝室のじゅうたんの上には、破り捨てられた私の下着が散らばっている。それをぼんやり眺めていると、何だかアルミホイルを強く噛みしめているような、そんなおぞましい気持ちになって、気付くと両手で上半身を強く抱え込んでいた。
ベッドの上で彼の全てを受け入れた私は、いや、より正しく言うなら私達となるのだろうが、確実に越えてはいけない一線を越えてしまった。
こちら側とあちら側。これからの私は、その両方を維持しながら生きていく必要がある。
もう、後戻りは出来ない。
ただ、彼はそれを全く気にしていないようだった。
それから月に何度かのペースで、彼は私の家を訪れるようになった。夕飯を一緒に食べて、そのまま一夜を共にする。翌日一緒に家を出て仕事へ向かうことすらあった。
だんだんと感覚が麻痺していった私は、彼が一線を越えたというのにそれを気にしていない理由が、ぼんやりと分かってしまった。たぶん、慣れているのだ。ずっとこういうことを繰り返しているのだろう。
そしてそれを理解できてしまった自分の感覚が、私はとても恐ろしかった。
きっと彼にとってこの地点は日常の延長であり、まだ境界線の内側なのだ。だって彼の体はいつも綺麗なままだから。
泥がつくまで踏み込まないと、罪の意識すら生まれないのだろう。
だから私は、彼の体を泥まみれにしてやろうと思った。
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