一話 白い指先
神殿の音楽室からエルブの竪琴の音色が響いてくる。トキワは中庭のベンチでそれを聞いていた。
目を閉じれば浮かんでくるのは、エルブが竪琴を奏でる時の白い指先だ。その手に触れることに躊躇いを覚えるようになったのはいつからだろうか。
ふたりが「恋人」になってから三年が経った。
あの日から、出かける時にふたりだけで行くことが増え、今ではそれが当たり前になっていた。
時間が経つにつれ、二人の関係を変化を知らない神官達への秘密のこそばゆさに、目をまっすぐに見ることが難しくなり、たわむれに繋いでいた手も繋がれることはなくなった。
ほとんど形だけになった、幼かったふたりが結んだ契約を、それでもトキワは解消する気にはなれなかった。
「どうしてかな……」
「なにが?」
間髪入れずに聞こえた声に慌てて振り返ると、そこに立っていたのはミトだった。今年で九歳になるその子は、神殿で暮らす孤児の中で二番目の年長者だ。
「トキワ、おやつの時間だよ。みんなトキワのこと待ってるよ?」
「分かった。呼びに来てくれてありがとう」
連れ立って食堂まで行けば、見慣れない二人組がいた。どうやら子供を引き取りたい夫婦が見学に来ていたらしい。
彼らの悪気なく驚いた顔に、トキワは心の中でため息をついた。
――まあ、慣れてるけどさ。
神殿に暮らす孤児たち五人が集まった時、トキワはいつも浮いている。年齢のせいだけではない。茶色い肌を持つのがトキワひとりだからだ。
このあたりで暮らす人々はみな白い肌をしている。トキワは旅商人の親に捨てられたのだ。トキワひとりだけがこの神殿で年長なのも、訪れる夫婦たちが自分たちと同じ肌の色のこどもを引き取りたがったためである。
「いただきます!」
世話係のティナに促され、声を揃えて手を合わせれば、年少者達は待ちかねたようにおやつに手を伸ばした。しばらく咀嚼の音だけが響いた後、ふとひとりのこどもが顔を上げた。
「ねぇ、この神殿にはもうひとりこどもがいるんでしょう?」
その子は一番最近神殿に来た七歳のリサだった。
「ええ……エルブさんがどうかしましたか?」
「どうしてその子はおやつを食べにこないの?」
ティナはひと呼吸おいて答える。
「みんなよりずっと年上だからですよ。おやつを食べるような年齢じゃないんです」
「じゃあトキワはまだおやつを食べる年齢?」
「トキワはおやつが好きなだけです」
ね?と助けを求めるように目配せをされてトキワはリサに笑ってみせた。
「僕は甘いものが好きだからね。ティナにおやつを無くさないでくださいってお願いしたんだ」
「ふーん」
再びおやつに手を伸ばしたリサに、ティナは小さく息を吐く。それを見てトキワはそっと苦笑いした。
エルブは十歳で神殿に来た時から、みんなとおやつを食べることがなかったのを、年少者達は知らない。だけどこども達は敏感だ。そのうちリサも、エルブが特別扱いされている事に気がつくだろう。
エルブもトキワも、結局は馴染めない人間同士だったのだ。
皿を空にしたトキワは手を合わせて席を立つ。いつの間にか竪琴の音色は聞こえなくなっていた。
図書室の扉を開けると、予想通り、窓際の椅子にエルブが座って本を読んでいた。
持ってきた本を机に置き、向かい側の椅子を引くとエルブが顔を上げた。
「来たんだね、トキワ」
エルブの視線と入れ違うように、トキワは本に目を落とす。
「うん。エルブは昨日の本の続き?」
「そう。多分トキワも好きだと思うな。私が読み終わったら読んでみてよ」
エルブが微笑んでこちらを見ていることが、顔を上げなくても分かる。トキワがエルブとあまり目を合わせられなくなってから一年くらい経つ。そんな自分に、エルブが何も聞かずに付き合ってくれていることを知っていた。
「そうしてみる。……ありがとう」
「どういたしまして」
向かい側から紙をめくる音がしたのを確認して、トキワはそっと視線を上げる。正面の伏せられた瞳は澄んだ緑で、それはエルブの
三年前に自分たちが恋人になったきっかけとなった運命。三年後にエルブを自分から奪い取ってゆく運命――。
「エルブ」
「ん?」
ばちりと視線が交わる。何も言えない、何も言われない。柱時計の秒針の音が響いていた。
「なんでもない」
トキワは剥がすようにして視線をずらした。
「そっか」
柔らかな声を受け止めつつ、視線をさまよわせる。本の続きを読む気にはなれなかった。
エルブが顔をおろす気配がしたが、ページをめくる音はなかなか聞こえてこない。
「ねぇ」
代わりに聞こえたのは、囁くようなエルブの声だった。
「初めて会ったのも、図書室だったね」
「……うん」
「ここに来た時は不安だったの。他のこどもと話すことは出来ないと思いますって言われてたから。リクさんは私がお友達になりますって言ってくれたけど、やっぱり若くてもリクさんは大人だもんね」
「そうだね」
「私、本が好きで良かった。トキワがいてくれるから、私は寂しくないよ」
トキワは奥歯を噛んでエルブを見た。明るく開かれた瞳が「だから心配しないで」と言っているようだった。
「うん……うん。ごめんね」
たった一人の友達なのに、自然に接することが出来なくてごめんね。気づかせてしまってごめんね。気を使わせてしまってごめんね。
「謝らないでよ」
エルブの指先が、そっとトキワの深緑の髪を撫ぜた。久しぶりの感触だった。俯くトキワに、エルブが眩しそうに目を細める。
「トキワ、背が伸びたね」
ヴィントミューレはセピアに染まる @haru_asa
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