第一章 宮庭に舞う②
新皇帝即位の報は、
同時に、新皇帝の後宮のために人員が集められることが告知され、年ごろの
「──宮中に召しだされることが、それほど
「白蓮さまは
「ありませんね。後宮にはいるということは、
ここにある書物だって、まだすべてに目をとおせていないのに。
そんな室内の
「けれど、決まってしまったものはしかたがありません。わたしは宮城へ参ります。今までお世話になりました、老師」
礼を示しながら、白蓮は父親に呼びだされた時のことを思いだしていた。
「白蓮、お喜びなさい!」
お呼びとうかがいましたが、と入室した
いるとは思っていなかった母親の
「喜ぶ? なにをでしょうか」
「あなたの後宮入りが決まったのです!」
それをおくびにもださずたずねた白蓮に、予期したとおりの答えが返る。
「『夫人』の一人として召されることになったのです。女性にとってこれ以上の名誉はないわ。
言いたいことだけ
「ああ、こうしてはいられないわ。あなた、わたくしはこれで失礼いたします」
母は
その勢いに口を
「今、あれが言っていたとおり、おまえの入宮が決まった」
「──はい」
「まさか、あの
「やる……?」
同じ
「白蓮」
次の時、父の口から告げられた「命令」に、白蓮はさっと表情をこわばらせた。
「それ、は……」
「わかっているな? すべては家のためだ」
「白蓮さま」
しわがれてはいるが、ぬくもりのある声に名を呼ばれ、はっと意識をひき戻す。
いつのまにか、
「お世話になったのはこちらの方です。白蓮さまのおかげで、この
「老師……」
この書室の
とはいえ、兄はあまり熱心な生徒とは言いがたく、もっぱら白蓮が師事していたといっていいだろう。
両親は白蓮が柳家の
それをこれ幸いとばかりに、白蓮は老師を師として自由に
「白蓮さまがおられなくなるということは、そろそろこの老いぼれもお
「──ええ、それがよいかと。本当ならもっと早くにそうされるべきだったのに、わたしがひき
「なに、
彼は白蓮にとって、この邸において
それに、と改めて書室を
「書物もだけれど、ここを去るのは心残りだわ」
色々と
小さく
歴史だろうと物語だろうと、どんな知識でもここにはない世界を見せてくれる。その時だけは自由になれる。
そんな中で白蓮がとりわけ興味をひかれたのが、西域の学術だった。
文字ひとつとっても、漢字とはまるで違う。
白蓮の好奇心がかきたてられるには十分で、まだ見ぬ世界に
だから、老師を
いずれこういう時がくることはわかっていたが、これらを
「なに、持っていかれればよろしいでしょう。研究はどこにいてもできます」
「!」
なんでもないことのように告げた老師に白蓮は、はっと
いつも道を示してくれた笑顔をまじまじと見つめ、ひとつ瞬く。
「──そう、よね」
そうだ。なにも
『あなた以外のだれが寵愛を得るというのです』
『わかっているな? すべては家のためだ』
母と父の言葉が
だれもかれもが好き勝手なことを押しつけてくるのだ。自分だって好きにしてなにが悪い。
「ありがとうございます、老師。おかげで、気が楽になりました」
「それはなにより。ここにあるものは儂がまとめておきましょう。──なに、荷物はたくさんあるのですから、まぎれこませてしまえばわかりません」
「ええ。
それがいい、と笑った老師が、ふっと表情を改めると
「白蓮さま。ご健勝をお
「はい。老師も、お元気で」
これから身の回りは
最後になるかもしれない
そういえば、と振り返る。
「あの子は、連れていくことにします」
「あの子……木蘭さま、ですか」
「この家から解放してやる機会は、今を逃したらもうありません。迷いましたが……ここに置いておくよりは、身のまわりの世話をさせるという名目で連れだした方がましでしょう」
「それがいいでしょうな」
「それに、もしかしたら『物語』のようなことがあるかもしれませんから」
くすりと笑って、白蓮は今度こそ書室をあとにした。
●●●
後宮は、皇后を頂点とする階級社会である。
正一品の位を持つ『夫人』が四名、正二品の『
加えて、
一人の皇帝のために、多い時には何万という女性がひしめきあう女の園──それが後宮だ。妃嬪の身分であっても、
「なんて、むだなのかしら」
雨のそぼ降る外を
今日は
立場上、柳家の一行は優先的に後宮である
皇帝一人にこれだけの人数が必要とはとても思えない。年ごろの
おまけに、この雨だ。
「天気を占ってくれた方がよっぽど役にたったでしょうに」
皇帝のための宮だけあって手入れのいき届いた景観は見事で、晴れの日であればすこしはこの
ふぅ……と
「お姉さま」
うしろからかかった声に、白蓮は慌てて表情をひき
「片付けは終わったの」
色のない
「あの、あちらはどうされますか?」
目線で問う先にあったのは、
「あれはそのままでいいわ」
「でも、ついでですから」
「いいと言っているの」
足をむけかけた木蘭をぴしゃりと
善意で言っているのはわかるが、あれに
「っ──失礼、しました」
びくっと
そもそもがこんなことをさせたくて、連れてきたわけではない。
今はしかたがない、のだが──
「ほかの者はどうしたのです」
白蓮としては家の息がかかった供を連れてくるのは
貴妃の侍女としては少ないが、
しかし、いつのまにか連れてきた侍女たちの姿がなかった。
「まわりの様子をうかがってくる、とでていきましたけど」
さっそく
──彼女たちにとっても、死活問題だしね。
妃嬪付の侍女たちの地位は、仕えている
主が皇帝の
万が一、自らが皇帝の目に留まることができたら、妃嬪の身分を得るのも夢ではない。だが、『目に留まる』境遇にいなくては、
当然必死にもなるだろう。
もっとも、そんなことは白蓮の知ったことではないが。
「──どうやら
「
「……そう」
ただ、こちらの心中など知らない侍女たちは、自分たちの仕入れてきたあれこれを
掖庭宮は、多い時には何万という人間を
いくつもの宮殿や
白蓮は貴妃という身分ゆえに、
──
邸にいる時から必要以上に人が
──まずは、ここの庭に種をまかなきゃ。
それから……と
「──さま、貴妃さま?」
呼び声に
いけない。まだ聞き慣れない
「どうしたの」
しかしながら、慌てたそぶりなど
「
「内常侍が?」
内侍省とは、後宮内において皇帝以外で
入宮早々一体なんの用だ、と白蓮は
「──とおしてちょうだい」
やがて侍女に先導されてはいってきたのは、色白のつるりとした
「お初にお目にかかります、柳貴妃。小官は朱
「ええ──それで、用件は?」
「いえ、柳貴妃が入宮されたとお聞きして、ご挨拶をと参上した
「……」
笑みを深めた朱禅に、ぴんとくる。
──お父さまの回し者、というわけ。
おそらく父から色々と
白蓮が、命に
「なにかございましたら、遠慮なくお申しつけください。できるかぎりの便宜を図らせていただきますよ」
「……なにかあったらお願いするわ」
だったら二度と姿を見せないでほしい、とはさすがに言えず、適当に話を
「ええ、お望みであれば方士でも手配いたしますよ?
「それは、わたくしに
「! いえっ、まさかそのような、
不興を買ったと
「なにせ、新しい陛下は……すこし、気難しい
「──気難しい?」
問い返した白蓮に、朱禅は
「それはともかく! 後日、
挙句、
ぜひ、とか口では言ってるけど
「待ちなさい」
──ろうとして、ふと思いついたソレに声をあげた。
呼び止められた朱禅がぎくりと足を止める。
「陛下もいらっしゃる、と言ったわね」
「は、はい」
「ならばひとつ、
「なんでしょう、なんなりとお申しつけください」
「宴の余興に、あの者に
そのための場を設けてもらいたい、と他の侍女たちとともに
「え!?」
意表を
「問題でも?」
しかし、どちらも無視して目を細めた白蓮に朱禅が、いえっ、と面を
「ご用意いたします。貴妃からのご
「頼みましたよ」
足早に遠ざかっていく
「待ってください! お姉さま、今のはどういう」
「どうもこうも、言ったとおりよ。おまえには宴の席で一差し演じてもらいます」
「そんなっ、陛下の
「では、今までおまえはなにをしてきたの」
「そ、れは……」
白蓮の冷ややかなまなざしに、木蘭がぐっと押し
見事な彼女の芸は異国風の容姿もあいまって、だれの目も
「それとも、わたしに
一度口にしたことを
「──わかりました」
案の定、同意を得た白蓮は、
「宴の席なら、そうね、
「なにをしているの」
──まったく、初日からこれだなんて……。
先が思いやられる、と早くも
だが、父に──家に
自分がやりたいように、やるだけだ。
まずは、そのための場を整えなくてはならない。
人が滅多に近寄らなかった書室とは
「あの」
早速計画を練っていた白蓮は、背後から控えめにかけられた声に
「まだ異存があるのかしら」
「いえ! 決まった以上、お姉さまに恥をかかせないよう、
どこか不安そうな木蘭にまだ
どうやら
だとしたらどうしたのか、と小首を
そんな白蓮に木蘭は
「お姉さま、お
「……え?」
具合? 一体なんの話だ、と軽く
「さきほどからお
木蘭の言う『今の方』というのは朱禅のことだろう。
──祈祷や薬って……あ!
彼とのやりとりを
──この子、あれを病気のための祈祷や薬と
「……あれの意味をはき違えているようね」
「意味?」
「あの者はわたしの身を案じたわけではないわ」
いや、案じたことは案じたのだろう──白蓮が皇帝の寵を得られるか、を。
「陛下の
ぶり返したいらだち混じりに
まったく
予想だにしていなかったらしい白蓮の返答に、木蘭は目を白黒させた。
「で、でも方士って、
「
「え!?」
ただでさえ大きな
「じゃ、じゃあ、術っていうのは……」
「
そもそも祈祷にしても薬にしても、効果のほどは
だからこそ、入り用とみなされたことがなおさら腹立たしいのだ。
木蘭はといえば、ようやく合点がいったのか「ぼ、房中術……」と真っ赤になった顔をうつむかせている。
一方で、罪悪感がちくりと
その初々しい
●●●
どれほどの人数になるのか、堂内にはおさまりきらず、庭にまでひしめきあっている。
とっておきの
それも当然だろう。
名目上は
「……とはいえ、とても顔がわかりそうにはないけど」
いくら
おまけに、
要は、皇帝の方からこちらが見えればいいというわけだ。
ゆったりと腰かけながら周囲を観察していた白蓮は、つっと視線を横へ動かした。
──彼女たちが四夫人のうちの、残り三人。
後宮が開かれたばかりの今、皇后は空位だ。これから妃嬪たちが寵を
とはいえ、空位のまま皇帝の在位が終わるのも
寵愛されたとしてもいつまで続くかはわからないし、皇后の実家ともなると軽くはない発言権を持つことになる。
そのため、現状でもっとも身分が高いのは、貴妃である白蓮ということになる。
淑妃、
「──すっごく
さわさわと堂に満ちる、おちつかないざわめきにまぎれるように
視線を動かした際、
席順からしておそらく、淑妃である
「蓬家というと、お母さまが目の
彼女も母親からそのあたりの
家の権勢をこれでもかと見せつけた
──重くないのかしら、あれ。
当の白蓮が思うことといったら、それくらいだ。
権力を見せつけるのも大変だ、などと
胸元まである
もちろん、
あんなじゃらじゃらしたものをいくつもつけていては、重い上にわずらわしい。化粧だって、
せっかくなにかにつけ「柳家にふさわしいものを」とうるさい母の
なにより、派手に飾りたてなくても、人目をひく
これで貧相だと笑う者がいたら、見る目がない、と逆に鼻で笑ってやればいい。
じろじろとこちらを
梨雪のむこうにいるのが、侍女たちによると隣の牡丹殿へはいったという、桂徳妃──
さらに奥が、賢妃の
「見事に、
何代か前の
おまけに、先の皇帝のころから権勢を誇っていた家が中心のこの顔ぶれを見るに、
「
朱禅が口を
もともと跡継ぎの座を望んでいたわけではないようだが、逆らう者には
玉座についた
にもかかわらずこの
反対に言えば、それだけ
「だとすると、
あとは、と夫人たちのうしろに並ぶ嬪の顔ぶれへと目を移す。
当然こちらも貴族家の者が中心だが、中に
梨雪のように派手に
侍女たちが仕入れてきた情報によると、嬪の中には都で
貴族の出の者たちに囲まれ、大勢の人目を集めても
その時、ドォン! と
シンと静まりかえった堂内に、
「楽にせよ、とのお言葉です」
やがて聞こえてきた
先ほどまでだれもいなかった牀に
──やっぱり、顔は見えない、か。
思ったとおり、三方を帳に囲まれた牀の奥までは見通せない。
──まあ、見えたところで、
白蓮の胸に
そしてもう一人、自分同様あの晩のことを思い
「あの方が」
「……」
ちらりと目だけで声の方をうかがう。他の侍女たちとともに
あの状況では、彼女もまた顔などまともに見えてはいなかっただろうに。
「──なにはともあれ、役者は揃ったわ」
あとは、
そうして、
合図とともに
おそらく、彼女たちの耳にも
そんな堂内に
「貴妃、柳白蓮さま」
場があたたまってきたのを見計らったように、名を読みあげられる。
「柳白蓮にございます」
白蓮は事前に告知されていたソレに、
そのまま夫人から順次読みあげられていく。
皇帝に顔と名を
「蓬梨雪にございます! あのっ……お目にかかることができて、
梨雪が白蓮に見せた気の強さでなんとか関心をひこうとするが、
「続きまして、
彼女の
「桂珠翠にございます」
四人の中では一番年上だろうか。控えめな
彼女の方がよほど『淑』妃にふさわしかったのでは、と
残り一名の夫人、
「姜英華にございます。お見知りおきくださいませ」
豊かな
続いて
妃嬪のすべてをこの調子で紹介するとは思えないから、適当なところから名を読みあげるだけになるのだろう。
興味がないものを延々と聞かされる皇帝もお
冷静でいたつもりだったが、どうやら自分も意外に緊張していたらしい。
白蓮は杯に
やがて、妃嬪たちの紹介に区切りがつくのを見計らって、こちらへと近づいてくる宦官の姿が目にはいった。
「──準備が整ったとのことです」
そっと耳打ちされ、そう、と
白蓮はひとつの山場を
「陛下」
特別張りあげたわけでもない声が、
「
ついで、ざわり、とさざめきが
静かに
緊張しているようだが、動きにおかしな力みは感じられない。これならいつもどおりの演技ができるだろう。
進みでた木蘭の姿に、ざわめきが大きくなる。
白蓮が指定した胡旋舞とは、
その動きの
皇帝も興味が
──ここまでは、計画どおり。
速まる
木蘭はさきほどまで宮妓たちが舞っていた場に用意された円形の
軽やかでいてしなやかな動きは
動きの速さに反し、木蘭の足は敷物から一歩も
しまいには、だれもが
消えゆく音色の
「…………」
「見事だ」
静かな深い声だった。
聞こえた低声に、一瞬耳を疑う。
「その方、名は」
だが、続いたそれに、白蓮ははたと牀を見やった。
──かかった!
入場してから今まで一言も発することがなかった、言葉はすべて人を介していた皇帝が、ここへきてはじめて直接声をかけた。
その相手が、妃嬪のだれでもなく、
ただ白蓮だけが、こらえきれない笑みをゆっくりと口元に浮かべた。
これがうまくいけば、今まで
そして自分は、彼女を
まさに、一石二鳥というわけだ。
──それに、かつて助けた者と助けられた者が期せずして再会する、なんて運命めいてない?
このまま二人が恋におちる、そんな物語を夢見てもいいだろう。せめてそれくらいのことは、許されるはずだ。
「あの子も、あの人をすくなからず気にしてるみたいだし」
自分から
皇帝からお声かけを
「木蘭」
白蓮は静かに声を投げた。
「ご、ご無礼を……木蘭、柳木蘭と申します」
「木蘭か。楽しませてもらった、なにか
さらに破格の言に、妃嬪たちに一層の
「褒美など、私は……あっ」
当の木蘭は
「では、おね……柳貴妃さまにお願いします!」
「──え?」
ふいに飛んできたそれに、白蓮はなにを言っているのかと
木蘭にむいていた周囲の視線が、いっせいに自分へ集まるのがわかる。
「柳貴妃に?」
「はい。私に陛下の
にこやかに告げる木蘭に、白蓮は必死で平静を
──どうして、そこでわたしに
彼女でなかったら
ほお、とおもしろそうに
「なにかあるか」
ここは
「ならば──薔薇殿の名にちなんで、
しかし白蓮は内面の動揺を押し
それでいい。
見た目通りの印象を植えつければ、自分に
まず間違いなく、これを機に自分と木蘭の関係性は後宮中に周知される。遠くないうちに皇帝の耳にも届くだろう。
──それであの子へ一層興味が湧いてくれたら一番だけど、すくなくともわたしへの好感度は下がる。
白蓮の
「──考えておこう」
皇帝は興味をなくしたようにいなすと口を
ないだろうな、と思いながら、これで本当に薔薇園がもらえるなら、それはそれでありがたい。
──実験に使いたいと思ってたのよね。量がいるから、簡単にはできないし。
入宮早々種をまいた薬草や
とりあえず、さっそく顔をだした芽が早く育つといい。
そうしたら……と思案に心を飛ばしながら、白蓮は用はすんだとばかりに
後宮の錬金術妃 悪の華は黄金の恋を夢見る 岐川 新/角川ビーンズ文庫 @beans
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