ミェコマヤ高原 3

 どこまでも広がっていた青が重苦しい雲に覆われた空を、僧侶はぼんやりと見上げていた。すぐ近くで聞こえるはずの悲鳴と怒号、剣戟の音がどこか遠い場所の出来事のように感じられる。


 呼吸をするたびに肺を蹂躙して全身へ駆け巡る死の臭い。

 後ろから突き刺さるナメクジのような視線。

 自分へと近づいてくる、赤色の気配。


 手に持った蒼玉の槍の色が反射した顔は蒼白で、うつむいて目線を下げた表情はとても戦人のようには見えなかった。例えるならば、嵐の中、一人小舟で沖に取り残されてしまった船乗りのよう。


 そんな背中を見せられているにもかかわらず、周囲にいた兵士たちは不安がる様子はなく、焦った様子もない。それどころかその様子を愉しんでいるようにすら見えた。


 僧侶の手の内にある蒼玉の槍がかすかにふるえて、落ち着きのない戦場に力強く自信に満ちた声が響き渡る。


「さぁ、一世一代の大舞台での最大の見せ場だ。略奪を繰り返し、我が軍を蹂躙する憎き赤の戦士を討ち取ろうぜ! なぁ、大丈夫だって。俺が全力でお前を勝たせてやるからよ!」


 高らかに、酔いしれるような宣言。


 それに沸き立ったのは僧侶ではなく、周囲の兵士たちだった。己をきつく握りしめて青ざめている玩具に、蒼玉の槍は喉を鳴らして笑っていた。


「そら、来たぞ。赤の契約者だ」


 明らかに面白がっている飼い主の様子に、僧侶はのろのろと顔をあげる。言われずとも、強烈な赤い気配が目の前に立っていることくらいはわかっていた。


「……あれが赤い、鬼」

「そうだ。あのくそったれ趣味悪キチガイ宝珠様の玩具だよ。あーあー。本当になんも変わってねぇんだな、あいつ」


 鼻にしわを寄せたような声に僧侶はなんと返せばいいのかわからなかった。蒼玉の槍が発するひりつく空気はすぐに消えて、代わりに心底楽しみで仕方ないと舞い上がる残虐な気配がにじみだす。


「いいぜぇ、壊しがいがあるってもんだ。決着つけてやろうじゃねぇの。なぁ、お前もあいつはやっちまわねぇといけねぇんだし、腹くくれ。大丈夫だって、お前の命は俺が保証してやる。死んでも死にゃしねぇよ!」


 青の僧侶の目線がまた下がる。逃がした視線の先には、踏み荒らされて地に伏せている草花。瑞々しい緑が広がっていた草原は、すっかり荒地へと変わってしまっていた。


 大地に赤の宝珠を突き立てて僧侶を睥睨していた赤の戦士は、鋭く舌打ちを鳴らして大剣を持ち上げた。ギラギラと光っている赤い目とは裏腹に、まとう空気が一気に白けたものへと変わっていく。その変化を敏感に感じられて、僧侶は槍を指が白くなるほど強く握りしめた。


「奪う」


 震える手足を叱咤して、僧侶も槍を構えた。ここで止めなければ、間違いなく目の前の鬼はすべてを根こそぎ奪い取っていくだろう予感があった。


 ぐっと歯を食いしばって顔をあげる。血を塗りたくって乾燥させたような赤い目と目が合う。なぜか、その色が少し触れればひび割れてしまいそうになっているような錯覚にとらわれて、僧侶は息をつめた。


 初めてまっすぐに見た赤の戦士は、ひどく恐ろしい化け物のようだった。なのにそれと同じくらい、息がつまるような胸に迫る何かがある。まるで尊いものを見たような、それでいて今すぐその赤い目の届かないどこかへ逃げ出したくなるような。


 言葉にできない感情の高ぶりに僧侶は唇を噛みしめて眉間にしわを寄せた。自然と槍を握る手に力がこもる。


 赤の戦士が大振りな動作で大剣を振り上げ、大地を蹴る。それに合わせるように僧侶も震える足で走り出した。





 ミェコマヤ高原からはるか遠く離れた青の国の都、スセイ。海に面した地につくられたその都市には、多くの財と労力をかけて建設された権力の象徴たる城がそびえたっている。


 世俗から隔離された様子すらある城壁の向こう側。下々の町民があずかり知らない場所は今、にわかに騒々しくなっていた。


 政務を行っていた宰相の下に一人、伝令役が駆け込んでくる。今度の議の中心となる法の草案に目を通していた宰相は、胡乱気な表情を隠しもせずに顔をあげた。青ざめて息を荒げた伝令役は呼吸を整える暇も惜しいと、膝をついて暴れる心臓の蹴りだすままに声を発していた。


「も、申し上げます! 城内に賊が侵入、陛下を拉致して逃走したとのことです!」

「な、陛下が賊にさらわれただと?! 守備兵は何をしておったのだ! なぜ賊の侵入に気づかなかった! そもそもなぜ陛下の御身を危険にさらしたのだ! よもやおそばに誰もついていなかったなどと言わんだろうな! いや、陛下が賊に拉致されたというならばそうなのだろうよ! もうよい、玉座の間に控えていた兵士どもを全員打ち首にしろ!」


 腰かけていた椅子を蹴り倒して立ち上がった宰相は、取り乱したまま怒鳴り散らす。一気に頭に血が上った宰相はそのまま伝令役に怒鳴り続けようとして、すんでのところで口の中にそれらを押し込めた。どうやらすんでのところで理性を働かせることができたようだ。


「えぇい、賊はこの際どうでもよい! 陛下をお探し申し上げ、お救いするのだ! あの役立たずの言を聞き入れて城の兵を減らしたことが裏目に出るとは。だからあのような身分も低い能無しの提言など突き返されるよう申し上げたのに!」


 顔色を真っ白にして震えている伝令役は、一礼するとそそくさと逃げ出した。礼儀も何もなく、見苦しいその様に宰相は後であれも処分しなければ、と熱の引かない頭で考えていた。




 ところ変わって山奥にある鬼の集落。そこにあるキムテの屋敷に控えていた翁は、自らの影につなげられた見えない糸が引っ張られる気配を察知して足元へ視線を落とす。すると、彼の足元から音もなく人の頭が三つ浮かび上がってくる。


「ヤオハにフゴンか。無事で何より」

「翁様、ただいま帰還いたしました。こちら、青の国の王マゴウ陛下にございます」


 カラカラ、ガラガラと音を立てて影から上がったムロク集の二人は、手拭いで縛り上げたきらびやかな身分の高そうな人物を手のひらで示す。翁は膝をつくと杖を脇に置いて頭を下げた。


 猿ぐつわをかまされて。ふくよかな体をプルプルと震えさせている青の国の王は体を大げさに跳ねさせる。


「お初にお目にかかります、私この集落の相談役をしております。どうぞ翁とお呼びくださいませ。マゴウ陛下、手荒な真似をどうかお許しください。そしてようこそ、我らが赤の国へ。どうか陛下には我らの王、カイリ陛下にお会いしていただきたい」


 翁は身を低くして丁寧な口調で許しを請い、お願いをしている。しかしマゴウには、それらすべてが命を天秤にかけることを前提とした脅迫にしか聞こえなかった。


 普段の玉座にふんぞり返っている状態であれば、それらすべてをはねのけてそちらから来い、くらいは言えたかもしれない。しかし、玉座の間で起きた惨劇とそれ以上におぞましい現象を体験した今となっては、言葉を発することすら恐ろしくてできはしない。


「ヤオハ、フゴン。マゴウ陛下をシュキセへお送りしなさい。くれぐれも、丁重に」


 カラカラ、と乾いた音が近づいてマゴウはまた身をすくませた。彼らの体を覆う布の下には、硬く乾いた気配しか感じられない。本能的に拒絶反応が出てきて、知らずその目には涙が浮かんでいる。


「それでは、青の国の王よ。どうかよき時間をお過ごしくださいませ」


 にっこりと笑って深々と頭を下げた翁の白い頭。そして影に再び引きずり込まれて沈んでいくおぞましい感覚に、マゴウは今度こそ矜持も何もかなぐり捨てて絶叫したのだった。

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世界は虹に支配されている ウタテ ツムリ @utatetyan

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