祖父と箱

彼方

祖父と箱

今は亡き父方の祖父は、大層真面目な人間として地元でも有名だった。倫理道徳を重んじ、酒やタバコにも手を出さず女は生涯祖母一人。賭け事の一つも知らず、趣味らしい趣味も無い仕事一筋の人物だった。

それでも、職業が公務員ということもあって助言や助力を求める人は多く、近所では大層頼りにされていたという。

真面目な祖父だったが、一方でそれを家族にも厳格に求めていた人でもあった。

特に子供達の教育や躾には顔を綻ばせる事など無かったらしい。正しい在り方という四角い箱の中に自分も他人も収めようとしていた人、それが祖母や父達から見た祖父という人間の姿だった。


そんな祖父にも一つ、悪癖とも言える困った癖があった。それが、空き箱の収集である。


祖父宅は二階建ての広い木造家屋で部屋も幾つかあったのだが、庭に面した広い和室に高く積み上がった箱の山があった。いつから集め出したかはわからない。祖母が気づいた時には既に、食べ終わったお菓子の箱や贈答品が入っていた箱、大小様々な空き箱が地層のように積み上がり、巨大な一つの山となって部屋の隅にそびえ立っていたのである。

元来掃除というものが苦手だった祖母も、これには頭を悩ませたらしい。何度か片付けようと進言したものの、祖父は決してそれを許さなかったそうだ。

子供達も祖父の怒りに触れるのを恐れて箱の山には近づこうとはせず、いつしか祖母も片付けることを諦めた。


そうして空き箱は年々層を増していき、私たち孫が興味を持つ頃には天井に触れそうな程の大山にまで成長していたのだった。



「ねぇ爺ちゃん、あの箱のお山はどうしてあるの? 」

まだ小学校にも上がらない頃だったか、私は居間で分厚い本を読んでいた祖父の傍へ行き、箱について聞いてみたことがある。

祖母や子供達には厳しかった祖父は、孫に対してもやはり厳しく頑固者だった。そして、私達孫にとっても箱の事は触れてはならない不文律ではあったのだ。

しかし、この時遂に恐怖より興味が勝ったのである。


「あれにはな、爺ちゃんの秘密が入ってんだ」


普段であれば箱の「は」の字が出るだけで怒髪天を貫く祖父である。けれど、その時は少し様子が違っていた。

「秘密? 」

「そうだ。あの中には爺ちゃんの秘密が入ってる。だから、絶対に開けてくれるなよ。これは爺ちゃんとの秘密だ、いいな? 」

固く結ばれていた口許が緩く解かれ、私を見下ろす眼差しは春の木漏れ日のように暖かい。きっと他の誰にも見せたことの無い笑顔を、私は胸の奥に大事に仕舞いこんだ。これは秘密だ、私と祖父の二人だけの。

あの祖父と秘密を共有する心地よい緊張感は、まるでキラキラと光る宝石を手に入れたような気分にさせてくれた。

この素敵な宝物は誰にも言わずにひっそりと隠し持っていよう。祖父に言われるでもなく、私はそう思っていた。



それから二十数年がたったある年の夏、祖父が亡くなった。長い闘病の末だったが、その最期は苦しむことなく、とても穏やかなものだった。

が、穏やかで終わらなかったのがその後だ。亡くなった祖父を一度自宅に連れて帰ろうとなった時、一つ問題が発生した。


寝かせる部屋がないのである。


亡くなった当時は既に入院していたのだが、それまで祖父は二階の和室で寝起きしていた。けれど、連れて帰るとなると二階では難しい。ならばと庭から搬入可能な一階の和室が候補に上がったものの、すんなり決められない理由があった。


あの天井近くまで積み上がった箱の山である。


しかし他の場所、他の方法を考えるにはあまりにも時間が無かった。

「よし、片付けよう」

叔母の号令で、深夜の大掃除が決定した。


最初に手をつけたのは、手前に置かれていたクッキーの空き箱だった。

持ってみるととても軽く、ふたを開けてみると中は空っぽ。他の箱も幾つか開けたが、そのどれもがやはり空だった。

なんだ、何も入ってないじゃないか。そう誰かが言ったのを皮切りに、重ねられていた空き箱が次々と崩されていく。開けては潰し、開けては潰し。私も皆に混ざって箱に手をつけていく。

なんでこんなに溜め込んだんだか。口ではそう言っていたものの、内心で手に入れた宝物が石ころに変わっていってしまう、そんな寂しさを感じてならなかった。


開始から一時間が経ち、潰された箱のビルが建ち並ぶ頃、漸く最期の一つが撤去された。


── そこには、何もなかった。誇りや湿気で黒ずんだ畳があるだけだった。


「なぁに! 何か隠してるかと思ったら何も無いじゃん! 父さんどうしてこんなに溜め込んでたのよ……」

思わず声をあげた叔母に、父や、私以外の孫達も頷いていた。

頷かなかったのは私と、祖母だけ。

「最初っから、何もなかったんだよ。箱があればそれで良かったのさ、爺さんは」

溜め息をついて祖母は座り、黒ずんだ畳にそっと触れた。

皺の刻まれた細い指が、ゆっくりと畳を撫でていく。脆く壊れそうなものを愛おしむ様に。

「お前達には昔っから恐かったろ。まさに、昭和の頑固親父そのものさ。けど、結婚する前はそんなんじゃなかったんだよ。暖かい顔で笑う人でねぇ、私はそこに惹かれたもんだ」

父達が生まれてから変わったのだと祖母は言った。正しくは、変えたのだと。

祖父は、自分が父親になると分かった時、祖母に言ったそうだ。


『僕はちゃんと父親にならなければならない。決して信条を曲げない、父のような威厳のある父親に』


祖父の父、私から見た曾祖父は戦時中に出征し、この先で亡くなっている。祖父がまだ小学生の頃だった。

曾祖父はとても厳格で頑固な人間だったそうだ。まさに、私達の知る祖父のように。

しかし、厳格でありながらも家族を守る頼もしい父親だったと祖父は常々祖母に語っていたという。

祖父は曾祖父をとても尊敬していた。そんな曾祖父を、祖父が父親の教科書にするのは当然の事だったといえよう。


「子供の父親になるんだ、自分がしっかりしなきゃいけないんだ。そう言って、お前達には厳しく接してたんだよ。本当は、いっぱい笑って誉めてやりたかったろうに、痩せ我慢してさ……本当に、馬鹿だよ爺さんは」

正しい在り方という四角い箱の中に自分も他人も収めようとしていた人、私達は祖父をそう思ってきた。

そして事実そうだったのだろう。厳格な父親という箱に自分を収めるために、穏やかで優しく、厳しさよりも誉めたかった本来の心を別の箱に詰めこんで。それでも捨てることは出来ずに、ずっと積み上げ続けてきたのがあの箱の山だったのだ。

私に見せたあの笑顔は、高く積まれた箱の中に収めきれなかった分だったに違いない。

祖母の頬を一筋の涙が伝っていく。父も叔母も、孫達も皆が泣いていた。口々に祖父を呼び、謝り、礼を言って泣いていた。


私はその輪から一人外れたところにいた。涙は流れていたが、それは悲しみではなく、怒りだった。

祖父の笑顔は、優しさは、私と祖父だけの秘密のはずだったのに、今や秘密は暴かれ、二人だけの宝物が突然他人に盗られていくような気がして怒りが込み上げてくる。

何より、そんなことを考えてしまう私自身に、怒りが沸いて仕方なかった。


箱の一つを元に戻すと、私はそっとその中に怒りを詰めて、蓋をした。


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