カモメたちの行く場所

森本 有樹

カモメたちの行く場所

『シーゼイ1-1、レディー、プリコンタクト』

『クリアード、コンタクト』

 簡単な言葉を交わすと給油機は給油プローブを下ろしてくた。私は燃料計器を画面に呼び出すと、給油プローブを上げ、そのまま給油口にキスをした。

 給油機の士官は突然の休暇取り消しに文句を言っていた。私はそれにうんうんと形だけ頷いては流れてくる燃料と一緒に聞き流し、燃料計器の分子が分母に近づくのを静かに待った。

 補給が終わる。やれやれ、と休暇取り消しの文句を言い続ける士官との通信を切ると、私は空中管制機に現地の状況を尋ねた。

『まともなブリーフィングも行えなくてすまない。』

『謝罪はいい。それよりも、現状と目標を指示して。』

『知っての通り、我ら連合軍は国際テロリズムの支配に侵されていた共和国を解放した。だが、現地政府の腐敗と国民の我慢の限界から撤兵を開始した。そしたらこれだ、開戦から一週間たたずに国の半分は既に反乱軍に落ちている。君の任務は早急に反乱軍に占領された空軍基地の機体を破壊することだ。わが軍が与えた機体をだ。』

 ウェイポイントが転送される。衛星航法爆弾にセットしろ。そういう指令の下送られてきた経度緯度それぞれ八桁の数字。それを読み上げる声の中で、その位置が何であるかを理解する。思い出すまでもなかった。

『すみません。ラルス空軍基地は、陥落したんですか?』

 空中管制機は少し黙ったあと、こう続けた。数日前に落ちていたことが分かった。と。押し黙る私にそいつは知ってか知らずしてか『ここもめでたくお前の爆撃スコア入りだ。』と言ってくる。

 俺は静かにシートに深くもたれ掛かり、それから外の景色をじっと眺めていた。

 ウェイポイントを設定、次の場所は攻撃予定地点だ。雲はない。自分の機体で衛星航法爆弾狙いを定めることもできるだろう。

 自動操縦に切り替えながら私は暗闇の中で一人遠い思い出のアルバムを一枚一枚めくるように回想した。

 まだ私が少女だった頃、そんな昔、戦争があった。

 子供の頃、バベルの塔は倒れた。テロリスト達に国は戦いを挑んで勝利した。

 自由と民主主義の勝利だ!世界はそう叫び、祖国は駐留を開始した。

 そして、大人になった私は、駐留軍に加わり、眼下の大地に足を下ろした。

 私の役割はここで空軍の創設に関わるというものだった。そして、長い間女性の地位が低いこの国で女性飛行隊を作る、そのプロジェクトの指導教官に選らばれた。自分はその時は大変名誉な事だろうと思うと同時にぶかぶかのシャツを着せられたような、何とも言えない違和感を感じてその任についた。

 そして、その違和感は日々私の中で大きくなっていった。私がそこ出会った少女たちは誰もが始めて選択肢として現れた自由な空を、無限に広がる空を手にしようと翼を広げていた。

 見たことない程純粋な目。

 それは宝石箱だった。色々な宝石の原石が詰まった宝箱。二対の宝石を輝かせた有翼の王冠がキラキラと輝いては練習機の甲高い音と共に鳥達の王国へと飛び立っていく。

 その中でも、私はアイシャという娘の目をよく見ていた。

「よろしく。」

 そう最初に私が言ったとき、一番元気よく反応を返してきた少女がいた。自分と同じ羽根が生えた少女、アイシャ。

 アイシャは健気な子だった。最初は年齢を詐称しているのかと思うぐらい華奢な体付きに不安を覚えたが、負けず嫌いで、だからと言って短気にならず、じっくりと問題を解決しようとする。そんな子だった。

 飛行の素質も一番彼女が高かった。

 若い候補生達の中で一番早く独立飛行に漕ぎ着いた。キャノピーにフートを被せ、国の反対側の飛行場に寸分の狂いなく着陸させた。そして、あの模擬戦……。

 正対から始まった空戦は巧みに切り返したアイシャが一切後ろを取らせず三回中三回勝利した。

 その時の軌道といったら、一緒にいた教官たちの間ですら語り草になるような見事なものだった。覚えている。向かい合っては互いに二つの円を書いていた彼女は時を見計らって風を切るように急上昇すると、時計の針を逆転したかのように新たな円を描き、まるで谷間に棲む猛禽類のように鋭く敵を切り裂く位置についた。

 有翼の民だからというのもあるけれど、彼女の空に対する才能は同じ種である私自身すら戸惑いを見せる時すらあった。

 一度、何でそんなに頑張るのかと私は聞いたことがある。

 彼女は笑いながら言った。

「どこまでも、飛んで行って、世界を見てみたいです。」

 私は笑いながら、じゃあ、自由に飛んでいけるならまず何が見たい?そう問うと彼女は海に行きたい、と海のようなエメラルドグリーンの目で元気よく言った。

海が見たい、そして、カモメがみたい。

 青い海と空の間を飛ぶカモメに混ざって飛んでみたい。

 そう言って、くるりと回る、翼を広げた少女の背中を見た私は、きっと彼女はどこにでもいける。というどこか漠然とした確信を持つに至った。

 今は山間を吹く気流に乗ることしかできない彼女たち、いずれはきっとこの無限に広がる大空に旅立つ。そんなおぼろげな確信は、あまりにもあっけなく、そして、彼女たちには預かり知らぬ所で閉ざされた。

 祖国はこの戦争に疲弊した。広がる貧困とそこに漬け込む陰謀論、そして広まり続ける流行り病、開戦時の陽気な民主主義の先導者は老け込み、国民は勝手に押し付けたのを忘れて民主主義の守護者をこれ以上続けることはもう無理だと選挙で右派政党を落選させることに成功した。

 スローガンはこうだった。「未来は、変えられる。心強く思えば。」

 そうして強く心を持つ少女たちの未来は、閉ざされた。

 その後、私は国に帰る時が来た。段階的な撤退としてまず、外国人顧問団が引き上げるということになり、訓練課程修了間近の彼女たちは繰り上げで卒業ということになり、私たちは一緒にこの基地を「卒業」することとなった。

 空軍はよく育った。どこの国にも負けない立派なパイロットたちが育った。私は彼らにそう言い、帰国の準備を始めたとき、アイシャは突然夜の部屋にスッと現れた。

アイシャは言う。

「ねえ、教官、帰っちゃうの?」

 私は、ああ、と答言うと、アイシャは国軍に移籍してずっとここに居てほしい。という話をした。

 私は、それに「ごめん、出来ない。」と答えた。それから、あまりにも不快で話した事がない、自分の身の上の話をした。

 自分は、空軍の一家だった。

 飛ぶことは家の名誉であり、誇りであり、全てだった。そして、親たちも当然それを望んでいた。

 だから、私には自由はない。待っている人がいる。それを裏切ることが出来ない。

 間違っていると思ったことはあるの?それを聞かれて夜の狂気で危うく半狂乱になりかけながら言った。何度も。何度も思った。全部何もかも間違っている。でも、道を変えるには全てを捨てて出ていかなければならない。その勇気もまた、私にはなかった。

「どうしようもないんだ。何もかもどうしようもないんだ。」

 もう婚約者も決まっている。空軍のどこかの部隊の人の自慢の息子らしい。確かにいい人だ。だけど、自分が選んだんじゃない。

 アイシャの悲しそうな顔をそっと撫でた。貴女は何も持っていないけれど、運と実力と自由を持っている。私は、何もかも持っていたけど、欲しくてたまらない自由は手に入らなかった。どちらが幸せなのか、それは分からないし、誰にも決める権利はないだろう。

 最後に私は自由なる少女を抱きしめた。そして、こう囁いた。世界一周をするならば、私の町においで、その時は、昔話をしましょう。と。

 その後の彼女の行方は、先日偶然の形で知ることができた。

 テレビでやっていたこの国の再クーデター、反乱軍に無抵抗で陥落した基地の彼女の戦闘機前で同じ羽根の少女が銃の前でうつむいている。

 画面越しに目が合った。間違いない。彼女だ。私はそう確信した。

 何もできなかった。絶望することさえも、私には許されなかった。

 直後に電話がかかってきた。母の声。母は来月の結婚式の話を楽しそうにしていた。みんな期待している。お前は良く育った。祖母や父のような立派な軍人になることを期待していると。

 やめてお母さん、私は母の言葉を遮って、今何が起きているのか説明した。母は言った。そんな終わったことをくよくよしないで。と。

 その「終わったこと」にどんな思いが詰まっているのか。いつも家族はそれを無視して立派になれ、立派になったな、えらいぞ。そんな話ばかりする。バイトをしながら苦学生をしている友人をちょっと羨ましいと行った時もそうだった。母は私の心を理解しない。自分の意志で歩いてみたい。自分の心に正直でありたい。黄金の檻の中の幸せなんてごめんだ。そんなことを何度も口に出そうとして、私は躊躇した。

 そこを飛び出していく勇気なんて、私には無かったからだ。

 だから、正しいことをする。動物園の動物が芸をして餌をもらうように、思ってもいない感謝を告げて、それから、忙しくなるかもしれないと電話を切る。

 テレビを再び点ける。テロリストが雄たけびと神への感謝を歌っている。彼らは狂っている。だが、彼らは自由なる精神を持っているのだ。

 私が、決して手に入れることができないそれを。

 飛び立つ前に父が基地に来ていた。父は、母に不快な思いをさせたことをさんざん私に怒っていた。

「でも、彼女たちは、私が育てたんです。お父さんも、そうでしょ、もし私がさらわれたりしたら……」

 そういうと父は大声で私を怒鳴り、「攫われるように育てた覚えはない!!」と会話が繋がらない怒り方で私を攻め立てた。後ろに目をつけろと何度も言った!!それが判らないのか!と怒鳴った。それからはいつもと同じ。お前の母さんはエースだった。爺さんも、婆さんも、お前は家族に泥を塗っているんだぞ!自覚もなしにベラベラとそうやって……、と言って、その後決め台詞のように白い、小さな家の相続について一方的に語りはじめた。祖父が空軍に入って手に入れた小さな白い家と土地、それがどれだけ価値があるか、そのためにお前は将来生まれる息子と尽くしていかなければならない、そんな話をして、満足したのか帰っていった。

 どこにも私はいなかった。

 欲しいのは家系図の接ぎ木としての私であって、泣き笑いする私という個人ではないのだ。

 そして、その悲しみを背負ったまま、私は私のために笑ってくれるアイシャや、その仲間たちの思い出の宝石箱を壊しに飛び立った。

 粉々に……粉々に……。


 空中給油機から少し東に向かってひたすら飛び、次のウェイポイントに到達する。

 対地レーダーを起動して一度精査する。対地レーダーに連動させたターゲティングポッドを照準して別画面で地図と照合する。

 ああ、と私は心の中から懐かしさが込み上げてくる感情を必死に押さえつけた。

 空軍の飛行場、幾度このタキシーウェイを通って離陸したことか。アイシャの顔が浮かぶ。くしゃくしゃに泣いた最後の顔も。だが、感傷に浸る余裕などない

 ハンガーに向けて衛星航法誘導の爆弾を準備する。ターゲット二つのうち一つが微妙に違う。左の爆弾を選んでターゲティングポッドを合わせてスイッチを一つ、攻撃座標は再登録される。もう一度双方の爆弾に8桁の座標番号を経度、緯度共に登録されていることを確認。信管設定、遅延1、ほぼ垂直に命中させるよう突入角度を修正。

 投下。機体から落ちていく爆弾は可能な限り遠くへ飛ぼうと滑空するが、やがてそれは目標のハンガーの上に到着すると垂直に降下を開始し、その運動エネルギー、次いで起爆した遅延信管が遠い思いでを粉々に吹き飛ばした。

かつて練習機を閉まっていた、今は集められた飛行機が所狭しとならんでいる格納庫。

 爆発の瞬間、私は目を閉じた。幼い頃のアルバムを燃やすような痛み。手足を桐で刺されるような痛み、それに耐え切れなくなった。そして、爆炎だけを画面に見た。

「よくやった。任務完了だ。」

 空中管制機から労いの声が入る。大慌ての作戦ではあったが成功した。あとは気を付けて帰ってほしい、と。

 静かだった。反撃すらない。反乱軍は未だに対空兵器を動かしてはいないようだ。それが、悲しかった。私は、私への咎めの一つもないのか。今レーダー警報器が作動したらどんない嬉しいだろうか。自分を否定してくれる人がいたら、どんなにこの辛さを紛らわす事が出来ただろうか。

 その思いが通じたのか、突然警報器が鳴り出した。隣の基地だ。アイシャの姿が最後に撮影された基地。そこから上昇してきた輝点は一瞬だけ味方と識別され、それから敵と再認定された。

「ターゲット方位325、距離45、高度一万、相対速度ホット(接近)、敵機と認定。」

 経験の浅い2番機に退避を促して、ラジャー、迎撃します。と答えて加速する。全くぶれることがない敵機の加速、テロリストが突然奪って使ったにしては動きが素早い。ここまでブレのなくまっすぐ飛ばせるパイロットは、と、そこまで考えて嫌な予感がした。

 頼む、お願い、それだけは外れてくれという願いを祈りながら加速。そして、考えうる限り最悪の返答がやって来た。

『教官、私です。分かりますか?』

 アイシャ!私は堪らず声を張り上げた。間違う筈がない。彼女だ。

 機体が現れる。後期教育で使用した実戦仕様の単発戦闘機。コンフォーマルタンク未搭載の単発戦闘機。それが鋭い弧を描いて、寸分の狂いもなく自分の機体を並走する。速度も方位も口に出さなくても翼と翼が触れ合う距離まで接近し、それを維持するということは並大抵の事ではない。そんな長い研磨の果てに輝き始めたダイヤモンドの原石に私は話しかけた。

『……これは貴女の意思?』

 はいという返答は不本意であるという事を意味していた。

『ならば、何故……』

『母が、居たんです。』

彼女の声がそう告げた。

『母と弟を残して逃げるなんて……私は出来ない。』

 それからアイシャは気の利いた言葉を探すために少しの間だけ考えた。そして、こう言った。

『どうしようもない、何もかもどうしようもないんです。』

 アイシャの言葉に、私はああと嗚咽を漏らし、彼女の機体から目を逸らした。そうだ、自分も彼女も、囚われている。

 昔見た、見せ物の鳥を思い出した。紐がついた鳥は、紐の範囲内で空の上で仮初の空を楽しんでいた。

 同じかもしれない。

 税金、部族、責任、私も彼女も、見えない紐に繋がれた鳥にすぎない。ただ、大袈裟なジェットエンジンの音だけが、その現実を隠蔽している。

 目の前に居て届かない彼女にアクリルキャノピー越しに彼女に触る。記憶に溢れるのは、未来に満ちた機動。

 まだあどけない。未完成でありながら、今まで見たことがない美しい機動。それらを思い出してから私は「ああ、そうだ。」と返答した。

『どうしようもない、何もかもどうしようもないんだ……か。』

私はどうすることもできずに並走を続行した。キャノピーのアクリルガラスを二つ挟んでヘルメットの奥に見える顔、あの青い瞳。体だけが仕事をしなければとマスターアームに手を伸ばした。アイシャは少しだけ自分の目を見て、それから何か覚悟を固めたのか、最後にお願いがあります。と言った。

『私と本気で戦って下さい。』

 そう言われて私は頭が真っ白になった。そうだ、あのドッグファイトの時言われたことがあった。いつか、本気で戦ってほしい。その自分は笑いながら何言っているんだ、一瞬で敗北するぞ。と笑って帰した。

 そんな、遠い記憶。それが熱となって神経を伝わる。どうしようもない、今一つできることがあるじゃないか。彼女と戦うことだ。怖かった。彼女を愛していた。そして、どこにも飛び立てなかった自分のを重ね合わせては自由であって欲しいと思いを抱いていた。それを撃つことは、私にはできない。

 気持ち悪い思いという自分の声が心の中を反響し始めた。それは、自分も母と同じく自分の手前勝手な夢を押し付けようとする醜さ、自分の不条理を勝手に押し付けようとしている醜さと同じだったではないか。私は今アイシャを見ていない。彼女を愛している自分を見ている。他利のナルシズムに支配されているのではないか。

 そうか、ならば彼女がそれに至った決断を受け入れよう。

 彼女の涙の理由を、戦う理由を尊重しよう。

 自然に兵装投棄ボタンに手が伸びていた。私は一瞬躊躇った後、それを強く押した。中距離空対空ミサイルと増槽が落ちていく。続いて、目標が存在しない暗闇に向けて、短距離空対空ミサイルを発射。

『おい………』

 何をしている!との空中管制機の叫びを、黙れ!と叫ぶと、その周波数から耳を塞いだ。

『アイシャ……』

 加速を促す。アイシャもミサイルを投棄。

『どうしようもない、だけど……』

 それでも一瞬の躊躇い。乗り越える。これに至るそれまでの彼女の生きた価値観、夢、人生の全てを受け入れる覚悟を固めた。

『貴女の美しい躍りを見せて!』

 ブレイク、声に合わせて私は左に、アイシャは右に旋回する。互いに軌道が交差して、それは二度と並ぶことはない。

『正対して、すれ違ったら、始めよう。』

 よろしくお願いします!とアイシャは返した。

 正面から交差する。それから互いに反対方向に舵を切る。それから、二人で上から見ると丁度八の字を書くように軌道する。再びアイシャと遭う。

 そして交差、仕掛けてはこない。アイシャはまだ本気を出していない。楽しんでいるのだ。彼女が世界から離れて純粋で居られる場所。だからこそ最も信頼できる人とそこにいる感傷に、まだ浸っていたいんだ。私も、安らぎの中でそれを許す。だが、互いに旋回速度は微塵も妥協しない。高速域の最適速度での旋回を維持。

 三度目の交差だ。仕掛けてくる。本能的にそう思った。ルールが変わる。定期的に正対していたアイシャが後ろから追おうと跳ね上がる。大型の肉食獣が獲物を襲わんとするような動きに命の危険すら忘れて一瞬、後ろを見たまま見とれてしまった。

 来い、私も上昇し、それか後ろから追って来るアイシャからの攻撃を躱す為に激しく円を書いて軌道する。互いに筒の淵を描くように交差する。絡み合う軌道、重力がかき消さて、絶対座標を失った主観上の上方にこちらを睨むアイシャが見えた。

 その時初めて私は身体が今まで感じたことがないくらい軽い事に気が付いた。

 こんな思いは始めてだ。

 遥か向こう、選りすぐりの視力の持ち主でも何とか識別できる位小さいアイシャの顔は、笑っていた。その彼女の笑顔が教えてくれた。

 そうか、自分はずっと、飛んでいても心は地上にいたんだ。

 父が怖かったから、今の進路を選んだ。

 貧しくなるのが怖かった。だから、個性を探すのを恐れた。

 意見をいうのが怖いから、好きでもない男を紹介されて微笑んだ。

 いつもそうだ。そうやって怖がって、自分を殺して、消極的なニヒルを構えてさえ居ればいい、これが生き方だと自分の心に嘘を付いていた。

 その重力が、今はない。あるのは一対一の戦いだけだ。高度と速度、絡み合う軌道。美しさ、ただそれだけの世界だ。

 否応なしに本当に魅せられているのは自分だと理解させられた。彼女の原石の美しさに、ただ濁るしか無かった自分は魅せられている。自分にとっては追い立てられて辿り着いた空で、彼女は思うがまま輝いている。ねえ、アイシャ、もっと美しく飛んでみて。貴女の美しい躍りを見せて!

 だが、それも、永遠に続く事象ではない。

 私はドッグファイトを制して彼女の後ろに出た。ドッグファイトモード、自動ロックオン。

 引き金を引く。

 飛び出す弾、ダイヤモンドの原石が砕ける音

 記憶の中にある笑顔が砕ける、涙の記憶が砕ける、機関砲の音、笑い、機関砲の音、音、音。

 ガンズ、ガンズ、ガンズ………

 炭素繊維に守られた宝石が、砕ける。

 血のように、涙のように翼内燃料槽からオイルが漏れる。

 そして、炎。それが砕けては散らかって。赤いルビーが砕けながら最後の輝きを見せながら、焼尽する。

 ありがとう、という声が聞こえた気がした。私は彼女の名前を叫んだ。返事はない。

『敵機の撃墜を確認した。』

 私を現実に引き戻したのは無機質極まりない空中管制機の声だった。

『今回の件はお父様が揉み消してくれるだろう。まあたぶん無罪放免だ。』

 よかったな、と、こちらの事情などどうでもいいとばかりに無線の主はミッションは成功、帰還せよ。と告げた。私は航法ページを立ち上げた。そして、ウェイポイントを繋ぐラインに、汽車がレールを進むかのような当然さで戻っていった。


―翌月、

 祖国の基地に戻った翌日、私は直ぐ近くの海辺にいた。

 優しく吹く海風の中をカモメが飛んでいた。私はそれを見てアイシャ言葉が脳裏に甦えった。

―自由に飛んでいけるなら何が見たい?

―海が見たい、そして、カモメがみたい。

「うん、ここならいつでもカモメと飛べるね。」

 ポケットから取り出したのはアイシャの羽根。それを手元にあるツーショットの写真を折って作った紙飛行機に挟む。

 そこに外したウィングマークを付ける。私はもう飛ぶことはないだろう。無能になるまで出世するしかなかった、そしてその現実を受け入れられない親のために時間稼ぎとして国外へ教官として送り込まれる事となった自分には、もう重荷でしかない。

 紙飛行機の重心につける。彼女が飛ぶには丁度いい重さだ。

「風になった貴女がもし行き場所に困ったら、私の町においで、その時は、昔話をしましょう。」

 テイクオフ!私はアイシャの機体を送り出した。カモメの舞う空にそれはすーっと素直な飛行を続けて、そのまま青い空に帰っていく。

 そして最後に軍人としての、未完の冒険者への敬意としての敬礼。

 それから私は真新しいエンゲージリングを投げようとして。止めた。そして、それを付けると、真新しい制服のよれを正してから私はその場を立ち去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カモメたちの行く場所 森本 有樹 @296hikoutai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ