家
すずらん。
家
私は、誰かの家の前にいた。
初めて来るような、それでいて酷く懐かしくなるような家。
どうして私はここにいるのだろう。
ここに来るまでの記憶が一切ない。
どうやって、何の用があってここに来たのかを思い出せない。
ただ、気がつけばここにいた、という事実だけが残っていた。
引き返そうにも道を覚えていない。
さらに困ったことに、辺り一面が深い霧に包まれている。
歩き回ろうものならこの家にさえ戻ってこれなさそうだ。
──仕方がない。
私は目の前の家に向き直った。
誰の家かも──そもそも誰かがいるのかも──わからないが、この家に頼るより他にない。
誰かがいることに望みをかけて、私は玄関横の呼び鈴を鳴らす。
ピーンポーン
静かな空間に呼び鈴の音が響く。
少しして、玄関の鍵がカチャリと開けられる。
「はい」
ドアの隙間から、男性が顔を覗かせて返事をした。
眼鏡をした、穏やかそうな男性だ。
この家同様見覚えはない。
家主の顔を見れば何か思い出すかもしれないと思ったが、現実そう上手くはいかないらしい。
「すみません、道に迷ってしまったみたいで……」
さすがに「あなたの家に用があったかもしれないけど思い出せません」などと言うこともできないだろう。
男性は少し驚いたような顔をしたが、すぐに微笑み、ドアを開いた。
「なるほど、それはお困りでしょう。この霧ではきっと私も迷ってしまう。ここに立っていてもなんですし、どうぞお入りください」
「ありがとうございます」
「いえいえ」
男性は「人を助けるのは当たり前のことですから」と続け、私をリビングまで案内した。
広すぎず、狭すぎず、シンプルに整頓された部屋だ。
すぐそばにはキッチンがあり、二人分の食器が丁寧に並べられている。
「ああ、どうぞ、おかけください。紅茶をお淹れしますので」
「何から何まで……ありがとうございます」
私は言われるがまま、リビングにある椅子に腰掛けた。
男性は水を入れたやかんを火にかけ、沸くのを待つ間に茶葉やミルク、茶菓子などを手際よく出し始める。
私は手持ち部沙汰で、なんとなく彼が動き回るのを眺めていた。
慣れた手つきで、優しく紅茶を淹れる彼を眺めていると、懐かしい感覚に襲われる。
そういえば、誰かもこうして紅茶を淹れてくれたような気がする。
誰かは思い出せないけれど。
ずいぶんと前のことだったような、そうでもないような。
ただ、その記憶は穏やかで、私にとって心地よいものだったように思う。
そんなことを考えていると、男性がお盆に紅茶と茶菓子を持ってこちらに向かってきた。
「どうぞ。ミルクティーにしました。それから、こちらはクッキーです」
「ありがとうございます。いただきます」
彼は私の向かいに座り、同じように手を合わせて「いただきます」と言った。
カップを手に取り、一口。
白茶色の液体は柔らかい香りを立てて口の中へと流れ込む。
紅茶とミルクがほどよい比率で混ざり合った、まろやかな味。
「おいしい……」
口からこぼれ出た言葉を耳にした彼は、嬉しそうに笑った。
「お口に合ったようで何よりです」
それからは特に話題もなく、互いが紅茶と茶菓子を口にする音だけが聞こえた。
暫くして、彼が口を開いた。
「迷ったと聞きましたが……どうしてこの辺りに?」
当然の疑問だ。
けれど私には答えることができない。
かといって嘘をつくこともできず、私は小さく「わかりません」とだけ口にした。
「わからない?」
彼は首をかしげた。
目の前の人間が記憶喪失だなんてにわかには信じがたいだろう。
「わからないんです。気づいたらここにいて」
「そう、ですか」
「すみません。変なことを言ってしまって」
「いえ……こちらこそ、変なことを聞いてしまいました」
彼は申し訳なさそうに俯く。
少し気まずくなって、私はどうにか話題を変えられないものかと辺りを見回した。
ふと、窓の外に立ちこめている霧が目に留まる。
未だに晴れない霧は、一面を白く染め上げながらゆっくりと動いている。
山でもないのに、これほど霧が出るとは。
「霧、晴れませんね」
彼は窓の外に目を向け、「そうですね」と返した。
「いつもこんな霧が?」
「僕も最近越してきたばかりで詳しくないんです」
「そうなんですか」
「ええ、ですがこの周辺に霧がよく出るなんて聞いたことありませんでしたね」
やはり珍しいことらしい。
「最近ここに……ということは新婚だったりするのでしょうか」
「ええ、よくわかりましたね」
「いや、まあ、食器が二人分あったものですから」
「ああ、確かに」
だとすると、長居するのもよくないのかも知れない。
そもそも、見ず知らずの他人の家に長居している時点で問題だが。
奥さんがどこにいるのかはわからないが、家に見ず知らずの女性がいれば気分を害するというものだろう。
「そろそろお暇しようかと思うのですが」
「まだ霧は晴れていませんが……」
「いえ、この調子じゃ晴れなさそうですし、なんとかして帰ります」
「そうですか。お役に立てず申し訳ない」
「そんなことは……見ず知らずの他人にこれほどよくして頂いて」
私は立ち上がって食器をキッチンまで運ぶ。
それから、荷物をまとめ始める。
「奥様はどちらに?」
「今は……出掛けています。暫くは帰ってこないかと」
「では、よろしくお伝えください。お邪魔しました、とも」
まあ、他人からよろしくされても困るだけだろうが。
また彼に案内されて、玄関に向かう。
靴を履き、玄関から出る。
「ありがとうございました」
私は頭を下げる。
本当にお世話になった。
結局目的も帰り道もわからないままだが、仕方ないだろう。
壁伝いにでも歩いて行けばどうにかなるかもしれない。
いや、初めからそうしていればよかったのではないかと今更ながらに気づき、下を向きながら苦笑する。
「 」
彼が何か言ったような気がして、私は顔を上げた。
「失礼、今何か?」
「──ああ、いえ、何も……」
「そうですか、では失礼します」
「はい。ああ、そうだ、暫くまっすぐ歩けば少し広めの道に出るかと思いますので」
「ありがとうございます」
「お気をつけて」
「はい、お世話になりました」
彼は一瞬寂しそうな顔をしたように見えたが、すぐに笑顔になり、手を振った。
私は軽く会釈をして、その家を後にした。
「どうか、お元気で」
霧で隠れ始めた家からそんな声が聞こえる。
振り返って何か返そうとしたときにはもう、家は霧に隠れていた。
それから暫くまっすぐに歩くと、彼の言ったとおり少し大きい通りに出た。
霧の中で見にくいが、ここならなんとかなるかもしれない。
そう思ったところで──。
「──さん、朝陽さん」
誰かに名前を呼ばれたような気がして、振り返った。
──そこで、目が覚めた。
夢だったのだ。
ここまで、全部。
霧も、あの家も、あの男性も。
不思議な体験だった。
夢にしては鮮明で、かといって現実とは言い難いような。
素敵な体験だったと思う。
記憶を失っていたり、霧に包まれていたり不安になる要素も多くあったが、夢の中でああして誰かとお茶をすることができてよかった。
ただ、最後に彼に何も返せなかったことだけは惜しかったかもしれない。
彼が一瞬見せた寂しそうな顔が脳裏に浮かぶ。
また、会えるだろうか。
そんなことをベッドの上でぼんやり考えていたが、ふと、周囲が騒がしいことに気がついた。
「よかった、目が覚めたのね……!」
傍らには見慣れた女性の──母親の顔があった。
その横には父親の顔も。
涙を流している?
「なんで二人がここに……それに、なんで泣いてるの?」
「なんでって……あんた、私がどれだけ心配したと……!」
母親は怒ったように言った。
何か、心配させるようなことでもしてしまったのだろうか。
身に覚えがない。
困惑していると、反対側から今度は聞いたことのない女性の声が聞こえた。
「落ち着いてください、お母さん。ショックで一時的な記憶障害が発生しているのかと」
「そんな……」
「大抵の場合すぐに回復しますので問題ないかと。検査のために一時的に席を外して頂いても?」
「え、ええ……行きましょうか、あなた」
「……ああ」
「終わり次第お呼びしますね」
女性と両親の会話が一区切りついたらしく、両親は席を立つ。
ショックで記憶障害が発生している、と女性は言った。
だとすれば、やはり先ほどの体験は夢ではなく現実だったりするのだろうか。
わからない。
「朝陽さん」
「はい」
隣の女性が私の名前を呼ぶ。
看護師だろうか、白い衣服に身を包んでいる。
私が返事するやいなや、手元のボードに何かを書き込み始めた。
「あの」
「はい」
「ここは病院ですか?」
「はい、そうです」
「どうして病院に……」
女性は手元から視線を外すことなく答える。
「火事がありまして。隣の家からの延焼だったとのことですが、なにか記憶は?」
火事。
火事?
どこで?
隣の家から延焼。
私の、家が。
赤く染まる視界。
熱と煙で意識を失いそうになりながら、彼に肩を借りながら一刻も早く逃げだそうと歩いた。
遠くからサイレンが聞こえる。
怪我をした右足が痛む。
それでも、二人で生き残ろうと必死に前に進んだ。
階段は既に瓦礫で塞がっていた。
「こっちから逃げよう」
彼は隣の部屋の扉を開け、窓を指さす。
「二階だから、もしかしたら助かるかもしれない」
「大丈夫、僕は後から行く」「怪我をしてる君が先だ」そう言って、窓を開ける彼。
息ももう続かない。
早く、早く。
後ろから何かが崩れる音が聞こえる。
私が一階へ飛び降りる瞬間、彼に崩れた瓦礫が襲いかかるのが見える。
手を伸ばすけれど、届かない。
待って、まだ──。
そこで、私は意識を失った。
「あ、あ──」
私は言葉を失う。
どうして、今まで忘れてしまっていたんだろう。
「人を助けるのは当たり前のことだから」といつも笑っていた彼の笑顔を。
つい先日結婚して、引っ越したばかりだった。
互いに仕事があり、一緒に過ごす時間がとれなかった私たちにとって、休日の昼下がりに二人で紅茶を飲む時間は最も幸せな時間だった。
ミルクティーとクッキー。
優しい香りに包まれながら、交わす言葉は決して多くなかったけれど、二人で紅茶を愉しむ時間。
「彼は……助かったんですか」
私は半ば祈るように、隣の女性に尋ねる。
しかし、彼女は首を横に振った。
「非常に残念ですが──」
もう、戻らない。
あの幸せな日々は、嬉しそうに紅茶を淹れる彼を見ることは、あの家に帰ることは、もう。
その事実だけが目の前に残されている。
それが、どうしようもなく苦しくて。
私は、涙を流した。
夢のことを思い出す。
最期に私に紅茶を淹れてくれた彼は、彼のことを忘れてしまっていた私をどう思っただろうか。
別れ際、一瞬寂しそうな顔をした彼は、このことを知っていて、私に話を合わせていたのではないだろうか。
そんな、確かめようのない疑問がぐるぐると頭の中を回っていく。
ただ、確かなことは一つある。
私は、彼の後を追うことを許されない。
私をあの家から出してくれた彼への、せめてもの恩返し。
そして、
「どうか、お元気で」
私をあの家から笑顔で送り出してくれた彼への、せめてもの手向けだ。
家 すずらん。 @tamahachi
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