雨をいだく

園田汐

雨をいだく

 

 あの日の噛み跡がまだ残っている気がする。四年経った今でも。

「また思い出してるのか?」

「うるさい」

 一秒たりとも考えたくないことを思い出してしまい、気が立っている。僕が、何を思い出しているのか、分かっているくせにわざわざ聞いてくる。

「思い出すことは、お前にとってそんなに嫌なことなのか?」

「嫌だよ。出来ることならば捨ててしまいたい記憶だからね」

 目の前にいるそいつは、一瞬、泣きそうな顔になって、すぐに笑う。

「まあ、寝ろよ。雨のせいだろう?明日は晴れるらしいからさ、ほら、目を瞑って、ゆっくり寝な。横にいてやるから」

 こいつが僕の横で寝るのはいつものことだ。いい加減、ベッドか布団をもうひと組み買おうと言うが、もう何年もこの状態で寝ている。

 傷跡にみたいに残っている記憶。いつまでも消えずに、その湿度も、痛みも、街頭の明かりも、濡れた道を走るタイヤの音も、全てがその鮮やかさを失うことはないままだ。

 あいつの言う通り、朝には雨は止み、パキッとした晴れ空がベランダから見える。今年の冬はまだ雪を見ていない。沖縄で育った身からすると、関東であってもその寒さは相当身にしみる。だが、あの刺すような日差しの日々よりは幾分かましだ。タバコを持つ指が震える。まだ半分ほどしか燃えていないそれを灰皿に押し付け部屋に戻る。いつの間に居なくなっていたのだろう、部屋には一人だ。スマホで時間を確認するとまだ九時、ゆっくり準備しても二限からの授業に余裕で間に合う。

 熱めのシャワーを浴び、コンタクトを入れ、服を選び、ネットニュースを眺めていると、あっという間に十時十五分。二限は十時四十五分開始、家から大学まで自転車で十五分、コンビニで月曜発売の週刊誌を買って行くとなると、そろそろ家を出なければいけない時間だ。リュックにノートパソコンを入れてブーツの紐を結ぶ。自転車の起こす風で指と耳の感覚がなくなりそうだ。

 百人近い学生がほとんど隙間なく詰め込まれた教室は、ただでさえ暖房が効きすぎているのに、学生の体温も相まってアウターを脱がなければ汗をかいてしまうほどだ。運良く隣のいない席を見つけて座る。外との寒暖差で勝てるはずのない眠気に襲われる。

「今日の講義の内容を中心に年度末のテスト作りますので、対策しっかりしておいてください。じゃあ今日はここまで、退席しても大丈夫ですよ」

 目を覚ますと教授がそう言っている。授業の大半を寝倒してしまった。レジュメを見ても、解読不能な歪んだ文字が二行書かれているだけだ。

「あらら、聞き逃しちゃったな。まあ、どうにかなるさ、あの子もこの授業取ってただろ?教えて貰えばいいさ」

 いつの間に隣に来ていたのだろうか。眠気を振り払うために目頭を揉んでいる隙にそいつは居なくなっている。

 とりあえず喫煙所に向かい、隅で煙草を吸う。昨日の湿り気を残す地面から土の匂いが登ってくる。

「いると思いました」

 声の主の方向を振り向く。小柄だが背筋をよく伸ばしたメイが立っている。

「先輩、さっきの授業ずっと寝てましたよね?見てましたよ。始まってすぐから船漕いで、十分ぐらいでもう突っ伏してましたね」

「どこ座ってたんだよ。あの教授、ゆっくりたらたら喋るし、その上につまんない話するから耐えられないんだよ」

「もう、そんな事言ってたらまた留年しちゃいますよ?」

 一浪して入ったこの大学を一年目ろくに通いもせず、今現在二度目の一年生をしている。故に、浪人もせずストレートに入ってきたメイとは二つ歳が違う。

 四月にこれまたろくに参加していないサークルのビラ配りに駆り出されていた時、

「コウ先輩ですよね?」

 と話しかけられた。

「そうだけど、どうして名前知ってるの?」

「私実は、〜〜高校からきたんです」

 それは、僕が通っていた沖縄の高校だった。

「先輩とは全く関わりなかったので、二つ下だし、私のこと知らなくて当然だと思うんですけど、高校の頃、先輩目立ってたので、つい声かけちゃいました」

 高校生の頃、僕はいわゆるスクールカーストのトップ層に位置し、毎日おちゃらけては皆を笑わせ、教師に注意されていた。注意をする教師の顔も、笑っていた。そこそこ勉強もでき、行事では率先して盛り上げる。どの学校にも一人はいるような人間だった。

 そこから、校内で会っては良く話しかけてくるようになった。学部も同じとあって、授業もよく被る。

「煙草、身体に悪いですよ。似合ってますけど。お昼ご飯どうするんですか?」

「昼休みは学食混むし、三限空いてるから、コンビニで適当に買って、三限の時間にテーブルだけ使いに学食行こうかな」

「だめですよ、毎日コンビニのご飯食べてちゃ。近くにいい感じのゆっくり出来る喫茶店見つけたので、そこ行きませんか?」

 先輩の大好きな煙草も吸えますよ。そう付け加える。まんまとその一言に釣られ、煙草が吸えるなら、と一緒に昼食を摂ることにした。

「お前さ、友達とか結構多いだろ?こんな、留年してるような奴と一緒にいたらなんか言われるだろ」

 ピザトーストの乗っていた皿は空になっている。朝から何も食べていなかったから、すごい速さで消えていった。

「まあ、聞かれますね。あの人誰?って。普通に高校の先輩だよって、良い人だよ〜って答えてます」

 僕のどこをどう見て、良い人なんていう説明が出来るのだろう。

「でもさ、なんか、こう、良い感じの人とかいないのかよ。こんな奴と昼ごはん食べるよりも、もっと良い時間の使い方あるだろ」

「良い感じの人って、彼氏ってことですか?それなら居ませんよ」

「いや、彼氏じゃないにしてもさ、彼氏になりそうな人とか、仲良くなろうとしてくるような人はいるだろ?可愛いんだからさ」

「そうですね、、みんな忙しそうに恋愛してます。性欲だだ漏れの顔で話しかけられても迷惑なだけなんですよね。いいんです。私は先輩と一緒に過ごしたくて時間を使ってるんですから、これが私の良い時間の使い方なんです」

 迷惑だと話しながら、なぜか顔は嬉しそうに見えた。

「まあ、メイが良いなら、留年して同じ学年に友達が一人もいないこちらとしては助かるんだけどさ」

 その喫茶店は、昼時にもかかわらず、満席になることがなく、メイの言っていた通りゆっくり出来た。さっきの授業のレジュメも、しっかりと板書のしてあるメイのものを写真に撮らせてもらった。一昔前のポップスが薄く流れる店内、声を発しているのは僕達二人だけだった。

「先輩って、休日はどう過ごしてるんですか?」

「休日も、普段と同じようなもんだよ。バイトか、家でだらけてる。たまに映画館に行ったり、古着屋とか喫茶店に行くぐらいだな」

「外出は嫌いなわけじゃないんですね。なら今度、私とどっか行きましょうよ」

「気が向いたらな。だけど、せっかくの休日なのに、良いのか?」

「せっかくの休日だからなんです」

「そっか、分かった。でも、雨の日は外に出ないからな」

 雨の日だけはダメなのだ、どうしてもあの事ばかりを考えてしまう。どこに居ても何をしていても。

 昔は雨の日が好きだった。足首まで水に浸かってしまうような雨が、僕の住んでいた土地ではよく降った。傘もささずにそれを全身で浴びていた。台風の日、家の中でDVDを観ていると特別な日に思えた、いつもの家が秘密基地のようだった。台風の目に入った時の静けさは時間も空気もぴたりと止まっているようだった。翌日の夕焼けはゾッとするほど赤かった。

「分かってます。先輩、雨の日、大学にも絶対来ないですもんね」

 二時間ほど、その喫茶店に居座っていた。メイと分かれて、四限までの時間を図書館で潰している。頑なに割り勘でいいですと言って聞かなかったが、強引にでも奢ったら良かった。レジュメも見せてもらったし、友達と過ごせたであろう時間を奪ってしまったのだから。

「あの子、やっぱりいい子だよな。気づいてるんだろ?お前に気があるってさ。お前が可愛いって言った時も嬉しそうにしてたじゃん」

 こいつはいつも突然話しかけてくる。メイが僕に好意を抱いている事は分かっている。分かっているから、それを躱す。僕はあの真っ直ぐな好意を受け止めてもいいような人間じゃないから。

「どうせ、自分はあんな純粋な子には不釣り合いだ。とか考えてるんだろ?メイちゃんとあの子は違うんだからさ、別にお前が幸せになっちゃいけないなんて事はないだろ」

「分かってる。分かってるけど、ダメなんだよ」

 他の生徒が視線を向けているのが感じられる。そういえばここは図書館だったと口を閉じる。家から持ってきた文庫本を開く。四限のある教室に移動する頃にはそいつは居なくなっていた。

 

 春。シロクマを眺めている。

「私、ちゃんとした動物園って初めてです。一緒に来てくれてありがとうございます」

 どこか行きましょう。と誘われた日から、何度も連絡がきていた。その度に、寒いから、テスト勉強をしなければ進級が危ういから、と理由を探しては断っていた。冬も終わり、テストもメイの助けを借りて終わった今、断る理由を見つけられず、僕は今上野動物園にいる。

「次はペンギン見に行きましょう」

 こうやって誰かと二人で外出するのは、いつぶりだろうか。ペンギンの檻の前は、とても生臭かった。フラミンゴは全員が片足で立ってるわけではなかったし、ライオンとパンダはずっと寝ていた。動いている動物も、寝ている動物も、春を嬉しがっているように見えた。

 動物園を出て、歩き疲れた足を美術館で休めている。僕らの大学は常設展であれば無料で入館できる。

「先輩。気づいてるのは分かってるんですけど、私、先輩のことが好きです」

「うん」

 平日の美術館は静かすぎて、聞こえないふりなんて出来るわけがなかった。椅子に座りこちらをみているメイ。僕は声の方向を見ることは出来ずに、目の前の壁を眺めている。

「恋人になりたいです。理由もなく側に居させてください。会うための口実なんて作らなくても会えるようになりたいです」

 こう言われることをずっと恐れていた。返事を求められることを。

「ごめん」

「それは、私の事が嫌なんですか?」

「そんな事、あるわけない」

「じゃあ、ミオさんが理由ですか?」

 自分でも口に出すことを避け続けていたその名前がハッキリと聞こえてくる。

「どうして、」

 声が震えて、知ってるの?という言葉が続けられない。

「二人がいつも一緒にいたの、見てたんです。あと、ごめんなさい、誰とは言えないんですけど、先輩の同級生の方から、ミオさんが亡くなってから、先輩はずっと悩んでるって、変わってしまったって、聞いちゃいました」

 フラッシュバックしかけた記憶を必死に頭から追い出す。

「知ってるなら、分かってるなら、諦めてくれ」

「嫌です。これは私の我儘です。先輩、このままじゃ、どこかに消えていきそうです。自分の好きな人が、そうなるのなんて耐えられません。恋人でなくとも、側に居させてください」

「ごめん」

 深呼吸なのかため息なのか、区別はつかないが、ゆっくりとした大きな呼吸が横から聞こえてくる。

「分かりました。じゃあ、私が勝手に側にいます。学校でもいっぱい話しかけちゃいますし、休日もデートに誘います。この春休み中もまた誘います。それは許してください」

 うん。とだけ答えてどちらからともなく椅子から立つ。

 家に着く直前に雨がぱらつき始め、着く頃には、肩が少し濡れていた。

「おかえり。メイちゃんとデートだったんだろ?帰り早いじゃん。どうだった?」

「どうもこうも、ないよ」

「そうか、告白でもされたか?」

「分かってるなら、わざわざ聞くなよ」

「付き合っちゃえばいいじゃん。あんなに素直に自分の気持ちをぶつけてきてくれる子なんて滅多にいないぞ?それに、お前もあの子のこと大事なんだろ?」

「大事だから、大切だから、自分が相手じゃだめなんだよ」

「何気持ちの悪いこと言ってんだよ。ミオのことを理由にして、幸せになることから逃げるのはもうやめろよ」

「お前が気軽に呼び捨てにしていい名前じゃない」

 今日は散々な日だ。この名前を二度も聞くことになるなんて。それに雨まで降っている。

 あの日も雨だった。確かに、ミオと僕はいつも一緒にいた。部活を引退してからは特にそうだった。僕の通学路の途中に彼女の家があるから、ほぼ毎日、登下校を共にしていた。皆でいる時は明るく少し変わり者のように振る舞う彼女は、二人でいる時には、とても危うく見えた。頻繁に、噛ませて、と言って僕の指や腕、耳までもを噛んだ。強く、とても強く。その後、大抵二人はくちびるを重ねた。噛まれることを拒んだことは一度もなかった。好きだった。強烈に、狂ってしまうほどに、好きだった。時たま、どこか遠いところにいる気がした。隣にいても、ミオはどこか遠いところにいた。焦点のあっていない瞳で何もないところを見つめていた。そんな時、僕はそのぽってりとした小指を、少しだけ強く握った。

「ねえ、わたしと一緒に死んでくれる?」

 急な雨に二人の制服は濡れていた。僕は何も答えられなかった。言葉を発することも、その手を握りしめることも、出来なかった。どこかで犬の鳴き声が三回続けて響いていた。ぐしゃぐしゃに濡れた靴下が気持ち悪かった。顔を流れる雨粒が口に入ってきた。

「また、明日ね」

 何秒、何分黙って立っていたのか、ミオはそう言って家続く路地に入っていった。翌日、何事もなかったように彼女は明るかった。みんなの輪の中心で、周りは笑顔だった。

 高校を卒業して、一年と二ヶ月経った頃、彼女の死が知らされた。棺桶に入っている彼女はきれいに化粧をされていた。深く傷が入っているはずの左手首は隠されていた。僕は泣くことが出来なかった。耐えきれなくて途中で式場を逃げるように退席した。一緒に死んでくれる?という問いかけは、一緒に生きてほしい、という願いだったのかもしれない。それを確かめる術も、もう僕は持っていない。

「止まないな」

 外はもう暗い、雨は地面に当たる音でその存在を忘れさせてはくれない。

「忘れなくてもいいさ、でも、幸せになったっていいじゃないか、このままだったらお前が壊れてしまいそうで、俺は怖いよ」

「ほっといてくれ」

 そう言っても、こいつは僕を放っておかない事を知っている。優しいのだ、いつだって。だけど僕はこいつをどうにも好きになりきれない。こんなに冷たくあしらうのに、こいつは僕を嫌いになったりはしない。いつもただ優しいだけだ。

「自分を嫌う事も、その記憶を忌み嫌う事も、やめていいだろ。そんな目で睨むなよ。悲しくなる」

 

 結局、春休みの間、メイに会う事はなかった。何度も食事や美術展なんかに誘われたが、その度に理由をつけては断った。

「良かった。来てたんですね」

 新学期の始まりの日、喫煙所にいる僕の目の前に立つ。

「うん、一応ね」

「休み時間のたびに、喫煙所に来ては煙草を吸わずに眺めて出て行くから、みんなに変なやつだと思われちゃいましたよ、きっと」

 軽やかに笑うその顔は、やはり僕の隣には似合わないだろうなと思った。

「なんか、痩せました?ご飯ちゃんと食べてますか?」

「死なない程度には、食べてるよ」

「それじゃダメです。この際コンビニでも良いので、毎日ちゃんと食べてください」

 食欲がなかった。ずっと、何もする気が起きなかった。バイトも休み、毎日家の中で寝転がり、日差しを浴びない日も多い。

「今日はまだ授業あるんですか?」

「今日はもうないな」

「よし、じゃあ今からなんか美味しいもの食べに行きましょう。焼肉とか、お寿司とか」

 美味しいものから連想されるのが、焼肉と寿司なのがとても真っ直ぐに思えて眩しかった。

「そんな金ない。今バイトもしてないからさ」

「奢ります」

 いや、でも、、とごねる声は、じゃあ貸します、と強引に遮られた。

 肉の焼ける匂い、油が炭に落ちる音は確かに食欲を掻き立てる。

「私、お酒頼んじゃいますね」

 乾杯した時の烏龍茶を飲み干し、中ジョッキのビールを注文している。

 どんな授業を取ったのか、お互いの時間割を見せ合う。去年度の取得単位数の話、私のおかげで二年生になれましたねという軽口、メイが新しく始めたというアパレルショップでのバイトの愚痴、最近観た映画、最近読んだ小説の話、そして遂に話題が尽きる。二杯目の烏龍茶をちびりと口にする。向かいでは、ほとんど空になったレモンサワーのジョッキを握っている。ビールのジョッキはとうの昔に空になり、レモンサワーは二回運ばれてきた。テーブルにはまだ焼かれていないホルモンが四切れ残っている。

「私、春休みに結構考えたんですよ。なんで、先輩にこんなに固執してるんだろうって」

「うん。ようやく考えたのか、遅いぐらいだよ」

 正直に言えば、残念だと思っている自分のことが嫌になる。真っ直ぐな好意を受け止めずに居続け、それが自分から逸れた途端に、残念に思うだなんて、どこまでクソ野郎なのだ、と。

「考えて、考えて、そしたら朝になってて、頭がオーバーヒートしてたのでベランダに出て外の空気吸ったんです。その時、朝焼けがすっごく綺麗で、ああ、先輩に教えたいな、って思ったので考えるのやめました」

 予想していた言葉達とは、全く違う内容で困惑する。

「えっと、それは、つまり?」

「つまり、好きだと思う間はずっと好きでいようって事です。あと、自分でも気持ち悪いと思うんですけど、先輩って大学の隣駅に住んでますよね?私もそこに引っ越しました」

 言葉が出ない。きっと目は大きく見開いているだろう。

「ストーカーみたいですよね。というよりこれはストーカーと言われたらもう言い逃れは出来ないなとは思ってます。だけど先輩、放って置いたら知らないうちに死んじゃいそうだから、本当にどうしようとない時、電車がなくても行けるようにしたんです。それで今、お酒の力を借りて言っちゃいました」

 もうここまでくると、笑ってしまう。よくもまあ、僕のことをこんなに好きになれたものだ。

「だけど、家の場所分からないだろ?」

 急に黙り込んで、余っている肉を焼きだす。

「え、もしかして、知ってる?」

 まだ黙り続ける。ホルモンから落ちた油で、炭から火が出ている。

「なんで知ってるんだよ」

「ごめんなさい。後つけました。商店街で見かけた時に、つい」

 なるほど、その行為は紛う事なきストーカーだった。ただ、嫌な気持ちにはならない。もはや清々しい。

「そっか、でもまあ、勝手に来たりするなよ?前も言ったけど、俺一人で住んでるわけじゃないからさ」

「嫌にならないんですね」

「自分でも不思議だけどな、ならないな」

 少し焦げてしまった肉を、すでに満腹な腹に詰め込んで店を出た。

「ごちそうさま。本当に返すから、少し待っててくれ。家まで送るわ」

 夜はまだ寒かった。川沿いを小さなコウモリが飛んでいる。

「猫避けのペットボトルって効果あるんですかね?」

「分からないな」

 その程度の会話がぽつぽつと続いていた。ここです。ありがとうございました。そう言うとメイはスタスタ階段を登っていった。僕の家から、歩いて三分ほどのアパートに引っ越していたらしい。これは、もしかすると、もともと僕の家を知ってた上で物件を選んだんじゃないか、と考えがよぎる。移り住む前に後をつけられて、家を特定されていたのではないかと。だが、正直、どちらでも良かった。実害はないし、負の感情も湧いてこない。それどころか、いつもより気分がいい。帰ったら散らかった家を掃除しようかな、なんて考えてしまうほどだ。

 ドアを開けると真っ暗だった。電気をつけると、足の踏み場もないほどに衣類やゴミが散らかっている。さて、どこから片付け始めようか、とりあえず大きなビニール袋にゴミを詰め込み、洗濯する衣類をまとめて積み上げる。これだけで随分と部屋が綺麗になった気がした。何かを片付けると、次々に気になる箇所が出てくる。一度も開いていない国語辞典を捨てようかどうか迷って、結局捨てずにおく。絡まりすぎてどこからほどいていけば良いか分からないコード類、普段から綺麗に整理しておけば良かったと思うが、それは無理な話なのだ。

「へえ、大掃除?」

 片付けに集中しすぎていて、いつからそこにいたのか、全く気が付かなかった。

「びっくりさせるなよ。手伝えよ」

「俺は汚してねーもん、ここで眺めてる。それよりさメイちゃんと居たんだろう?どうだった?」

 なぜ知っているのだろう、どこかで見かけたりしたのだろうか。

「楽しかったよ。なんかさ、この家の近くに引っ越したんだって」

「そりゃ、良いことだ。お前にとって、凄く良いことだよ。愛だねえ」

「愛、なのか?」

「愛以外の何物でもないよ。お前もさ、もうそろそろちゃんと自分の幸せを直視しなよ。いやぁ、俺は嬉しいよ」

「まあ、努力してみる」

 この際、断捨離とまではいかないが、要らないものを全部捨ててしまおうと、積み重なったレジュメや雑誌をまとめて袋に入れる。引き出しの中身も全部整理しようと漁っているとジプロックに入った大麻が出てきた。ぴたり、と手が止まる。ミオの葬式の後から吸い始めた。トリップしている間は全て忘れられる。これのせいで留年をしたと言っても過言ではない。ここ一年は吸わずにいられたのに、実物を手にすると、どうしてもあの感覚が欲しくなってしまう。

「やめとけよ。吸っても、その瞬間忘れられるだけだろ。シラフに戻った時、何度も苦しくなってたじゃん。やめとけ。今捨てろよ」

「分かってる」

 そう言いながらも、引き出しの奥のほうに戻してしまう。お守りみたいなものなのだ、絶対吸わない、だけど、これがあるだけでいつでも忘れられると思えるだけで、少し呼吸が楽になる。自分に言い聞かせて、引き出しを閉める。

「まあ、今吸わなかっただけ、偉いか。これもメイちゃん効果かね」

 こいつの言う通りだと思った。この一年吸わずにいられたのも、きっとあいつのおかげなのだろう。本当に努力してみるべきかもしれない、自分から誘うことは難しいけれど、誘いは極力断らないようにしよう。

 気を抜くと引き出しの方を向いてしまう視線を誤魔化すために煙草に火をつける。

 

 その後の日々は上手くいっていた気がしている。

 バイトも再開した。働き疲れて帰り、夜のうちに寝て、朝に起きた。

 大学にも雨の日以外はほとんど毎日通った。しっかりと聞けば、教授達は面白い話ばかりしているのだと、当たり前のことに今更気づいた。レジュメはしっかりと読むことのできる文字で埋められていた。

 この写真展いきませんか、と誘われて、次の休日には写真を眺めていた。調子に乗って、帰り道にある公園で写真を撮りあった。僕の撮るメイは笑っていて、メイの撮る僕も笑っていた。

 夕焼けを見ると素直に綺麗だと思えた。前と同じ焼肉屋で今度は僕が奢った。店を出て、並んで歩く夜道、触れてきた手を握り返すことができた。

 引き出しの奥にある物の存在なんて、さっぱり忘れていた。

 

 けれど、きてしまった。長く長く、雨の降り続ける梅雨が。

「今日から梅雨入りらしいぞ」

 大丈夫か?と目で訴えてくる。

「だな、土曜日で良かったよ。大学もないし」

「いや、良くない。大学のある日の方がまだマシだよ。無理にでもあの子に連れ出してもらって大学に行ければ、お前は完全に乗り越えられるだろうに」

「大丈夫、月曜はちゃんと登校する」

 その言葉は、当然守られなかった。土曜日も日曜日も部屋から一歩も出ていない。

 先輩、今日来ますか?

 とメイからの通知が来ていた。

 今日は休むわ

 そうとだけ返して目を閉じた。

 雨音が耳に障る。パソコンでサブスクを開き適当な映画を再生して気を紛らす。灰色の外が気になって集中できない。カーテンを閉め、部屋の電気をつける。どれだけ音量を上げようとも、その雨音を耳が拾ってしまう、途切れることのないその雨は、僕が春、夏、秋、冬、そしてまた春と去年から積み上げてきたものを海へと流してしまうようだった。

 パソコンを閉じ、イヤホンをつけてスマホから音楽を再生する。音量をマックスにして周りの音が聞こえないようにするが、雨はその湿度で僕に存在を知らしめる。

 視線が引き出しに吸い寄せられてしまう。身体が勝手に近づいていく。

「やめとけ。また繰り返すのか?」

 その声を無視して、引き出しの奥のそれを取り出す。紙にハッパを移し、巻く。何かに急かされるように火をつけ、何度も深く吸い込む。早く効いてくれ早く早くと。効き始めるまでの三十分が永遠に感じられた。

 あぁ、やっとだ。ほらほら、来た。ベッドに仰向けに寝転んで、目を瞑る。イヤホンから流れてくる音が脳味噌の中で直接鳴っているみたいだ。思考は曖昧に形を成さないものになっていく。沈みながら浮遊している。自分の手が今どこにあるのか分からない。身体がどんな向きを向いているのかも分からない。輪郭を想像しようとしても、それは歪んで渦を巻いて消えていく。身体は輪郭を失って空間に溶け出す。音は模様を作り出す。頭の暗闇に複雑な曼荼羅のような、幾何学模様が浮かんでは音と共に変化していく。時間を認識できない。感覚だけの世界。いつまでもこうしていられる。何も考えなくていい。というより、考え自体が浮かんでこない。起きているのか寝ているのかも区別が無くなる。

 シラフに戻っては、乾いた喉を潤すために水道水をコップに注ぎがぶ飲みする。家にある適当な菓子を食べる。しばらくするとまだ止んでいない雨の音に息が止まるような気がして、また火をつける。何時に寝て何時に起きていたのか分からない。カーテンは閉められ続けていた。風呂に入ることさえ、億劫だった。たまにあいつが可哀想なものを見るような目で、こちらを眺めているような気がした。何度も通話がかかってきていた。途中からうるさくなってスマホのネット接続を切った。これで良かったのだ、このまま、何も考えずに、気付かぬうちに死んでしまえればいい。何も考えなければ、何も無いのと同じだ。雨も晴れも、夜も朝も、自分もミオもメイも、全て無くなればいい。そう思っていた。

 

 ドアを叩く音とチャイムが鳴らされる音が交互に響く。それと、先輩、居ますよね?というメイの声も。

 居留守を決め込もうと、もう一度音楽を再生しようとするが充電が切れている。

「先輩。開けてください。じゃなきゃ、人が倒れてますって言って警察に通報しますよ」

 それは困る、こんな部屋、警察に見られたら、一発でアウトだ。何時間ぶりに立ち上がったのだろうか、足がふらつく。十秒で着くはずのドアまで、二、三分かけてたどりつき、ようやく開けた。

「良かった。死んでなくて」

 強引に部屋に上がり込んでくるメイを止めようとするが、腕に全く力が入らなかった。

「先輩、何も食べてないですよね?鏡見てみてください。ガリッガリですよ」

 鏡に映る僕は散々なものだった。頬がこけ、汚らしい髭が生え、肌も何だか薄黒かった。

「とりあえず、これ食べてください」

 カロリー補給用のゼリーとスポーツドリンクをカバンから取り出す。ちびりちびりとそれらを口にする。水につけられた時の乾燥わかめはこんな気分なのだろうか、凄い速さで養分が隅々まで届けられていくのが分かった。

「食べたら、身体洗って、髭剃りましょう。何日お風呂に入ってないんですか?正直、臭います」

「何日、分からない。そもそも今日が何曜日なのか分からない」

 ようやく声が出せるようになってきた。

「今日は、金曜日です」

「じゃあ、五日は入ってないな」

 多分、服も月曜からそのままだった。

 メイが風呂場に歩いて行き、お湯が溜まっていく音が聞こえだす。それを聞きながら、僕はずっと、ぼうっとしている。

「ゼリー、まだあるので、もう一本食べててください」

 二本目のゼリーを食べ切る頃には、思考もだいぶハッキリとしたものになっていた。

「溜まりましたよ。ほら服脱いでください」

 僕の服を脱がそうとしてくる。

「大丈夫、風呂に入れるぐらいには回復した。流石に服を脱いで風呂に入るのは、一人でさせてくれ」

「分かりました。でも、お風呂場のすぐ外にいるので何かあったらすぐ言ってください」

 シャワーも浴びずに湯船に浸る。声なのか息なのか、口から空気と音が漏れ出る。しばらく浸かっているとゴミのような何かが浮き始めて、自分の身体の汚さを再確認させられる。

 いつも通りのシャンプーの量で髪を洗っても泡立たない、追加で二回プッシュして髪を洗い、身体を擦って汚れを落とす。タオルで身体を拭いてから、洗面所で髭を剃った。さっき鏡で対面していた顔と、全く違う顔がそこにあり、思わず笑ってしまった。

 着替えて、浴室を出ると本当にすぐ近くに立って待っていた。

「さっぱりしましたね。生き返ったって感じです」

「とりあえず、座ろうか」

 二人とも、床に直で座る。先に無言の時間を終わらせたのはメイだった。

「あの、先輩。一緒に住んでいる人がいるって言ってましたよね?」

 どうしてそれを聞くのにそんなに緊張するのだろうか。そういえば、今あいつはいないな。そう気づく。

「うん。そうだけど、ちょうど今、いないな」

「その人、本当にいるんですか?」

 何を聞かれているのか、よく分からなくて戸惑う。

「この家、ワンルームですよね、男の人が二人で住むには狭すぎませんか?それに、歯ブラシとか食器とか、全部ワンセットしかないの見ちゃったんです。靴だって、服だって、二人分にしては少なすぎます。本当にその人、実在するんですか?」

 更に頭が混乱する。何を言われているのか理解ができない。あいつが実在するかどうかなんて、当たり前に存在しているに決まってる。だって僕は実際にあいつと何度も喋っていたではないか。

「いるよ。いるに決まってる」

「責めるつもりは全くないんです。問い詰めるつもりも。だけど、その人の名前、言えますか?」

 名前、そんなの知らないわけがない。ずっと一緒にいたのだから。けれど、答えようとする口からは言葉が出ない。ぽっかりと口が開くだけだった。

「じゃあ、え?あいつは誰?」

 優しい、だけど、僕はどうしても好きになれないあいつは?どんなに冷たくあしらおうともいつだって僕を心配して、僕の幸せを望んでくれていたあいつがいない?そんなわけがない。でもどうして名前が分からないのだろう。頭の中がぐちゃぐちゃになる。掻きむしっても、脳みそはうんともすんとも言ってはくれない。

「ごめん。ちょっと、待って」

「大丈夫です。先輩。大丈夫です」

 あいつは、多分、居ない。メイの言う通りだ。だけど、どんなに脳みそにそれを分からせようとしても、飲み込めない。

 手が暖かい。メイが近くにいた。僕の左手を右手で握りしめている。

「生きていくれて、良かった。本当に良かった。ありがとうございます。生きていてくれるだけで、それだけで良いです」

 身体が、もうひとつの身体に包まれた。心臓の音が聞こえる。暖かい。ここに居れば大丈夫だ、そう思えた。何もかもが許されていた。大きな穏やかな無言が、部屋の中に二つあった。

「ありがとう」

 随分と時間が過ぎ、ようやくそう絞り出す。

「私、今日はずっとここに居ます。今日だけじゃなく、この先ずっと一緒にいます」

「うん。そうして欲しい。この先、ずっと一緒にいて欲しい。だけど、今日だけはごめん。帰ってくれないか?」

「どうしてですか?」

「こんな言い方、変に思うかもしれないけれど、あいつと二人にして欲しいんだ。狂ってるんだろうけど、絶対に今、その時間が必要なんだ。そうしないと、この先、メイが側に居てくれても同じことを繰り返してしまう気がする」

 その二つの目を、初めて真っ直ぐ見据えた気がする。

「分かりました。だけど、明日また来ます。というか、明日から一緒に住みます。良いですよね?あと、生きててくださいね。約束してください」

「うん。ありがとう。約束する。絶対に」

 息を大きく吐いて、立ち上がり、メイは出ていった。玄関で、約束ですよ、ともう一度繰り返してから、雨の道を家へと戻っていく。

 ドアを閉めて、振り返る。

「久しぶり、元気にしてたか?」

 ベッドの上に座ってこちらを見ている。

「元気に見えるのかよ、これが、お前は誰だ?」

 そいつの目の前に立ち、真っ直ぐ見下ろす。

「見えるよ。昨日までは見てられない程だったからな。そんな怖い目で睨みつけなくてもいいだろ?俺が何かって、そんなの本当は分かってるんだろ?」

 相変わらず、優しい表情で僕を見つめる。

「さっきはよかったな。抱きしめてもらえてさ、やっぱり、いい子だな。お前への愛で溢れてるよ。羨ましい」

「何がしたいんだ?」

「何がしたいって、んー、したい事というより、して欲しいことはあるかな」

「どうして欲しいんだよ」

「んー、俺だってね、愛されたいんだよ、あんな風に抱きしめて欲しいさ。分かってるんだろう?俺が何か。どうしてお前は、忘れようと、なかったことにしようとするもんかね。そんなに要らないものか?汚いか?生まれてこのかた、好かれたことなんてない。狭いとこに押し込めようとされるばっかりだ。一度ぐらい、抱きしめてもらいたいよ。愛してもらいたいよ」

 今にも泣き出しそうな顔が見える。誰よりも僕を見てきたその顔。どれだけ拒もうとも、そばを離れようとはしなかった。幾つもの夜をともに並んで過ごした。

 瞬間、僕は悟る。こいつが何なのか。まだ言葉を続けようとするそいつを思い切り抱きしめる。

「そっか、分かってた。お前が誰か、何なのか、目を逸らそうとしてきた。抱きしめてもいいんだな、大事にしてもいいんだな」

「そうしてくれると、ありがたいね」

 僕達は抱き合い、横になる。ずっと捨てようと、忘れてしまおうとしていたそれを抱きしめる。きつく。だけど、潰してしまわぬように。それは僕にいつだって優しくしてくれていた。その優しさを返すように、自分だって優しくされたいと願う、子供みたいなそれを両の腕で抱きかかえる。捨てようとしても捨てられない、後悔を、ここに居ても良いと、言い聞かせるように抱きしめる。

 もう大丈夫だと。

 僕達の手は皮膚を通り越して、心に触れていた。雨に包まれた小さな部屋の中で、溢れ出て頬を伝う水は温度を持っていた。抱き合い、苦しさを、優しさを、痛みを、混ぜて溶かす。二人はひとりになる。

 もう僕はひとりで寝られる。

 長い夜は梅雨と共に明ける。

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雨をいだく 園田汐 @shiosonoda

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