僕と山崎さん

空乃ウタ

第1話 春が来て


 顔を照らす夕日が眩しくて、僕はそれまで読んでいた本から顔を上げた。目の前には読みかけの本を開いたまま、すやすやと眠る先輩の姿があった。無邪気な子どものような寝顔は普段の振る舞いからは想像出来ないほど無防備で、何だか見てはいけない光景を見てしまった気もするし、少しだけ得した気持ちにもなった。僕は先輩を起こさないようにゆっくりと立ち上がり、窓のカーテンを閉めようと立ち上がる。


 しかし、座っていた椅子は大分年季が入っていて、足の先についているゴム製のカバーがぼろぼろになっており、床との摩擦でギイギイと間抜けな音を出してしまった。


「んん……」


 その音に起こされた先輩は目をこすりながらあくびをして、寝ぼけ眼で僕の方へと視線を向けた。


「やぁやぁ、おはようハル君」

「おはようございます」

「最近は午後の気温が気持ちいいね。すっかり寝てしまったよ」


少し照れくさそうな先輩は心配そうに、


「僕の寝顔、不細工じゃなかった?」


 と聞いてきた。夕日に照らされた先輩こと山崎さんの表情はいつもより幻想的で、僕も何だか照れくさくなってしまい、先輩に背を向け、カーテンを閉めながら応答することにした。


「大丈夫ですよ。山崎さんの寝顔にそんなに興味はないので」

「……そう言われると、何だか腹立つね。そういえば、僕のお薦めした本はどうだった? 君の価値観に何か変化はあったかい?」


 カーテンを閉め終え、僕は先ほどまで座っていた場所へと戻り、椅子に座る。年季の入った椅子はまた、ギイギイと間抜けな音を立てた。


「うーん……。何だか僕には難しかったですね。主人公の気持ちもイマイチ分からなかったし。内容は面白かったんですけどね」

「そっか……それは残念だったね。結構良い線いってると思ったんだけど。ハル君が勉強不足なんじゃないかな?」

「あんまり勉強は得意じゃないですからね」

「学生の本分は勉強だよ! まあ、僕もあまり好きではないけどね」


 山崎さんはそう言って立ち上がり、僕と自分の読んでいた本を手に取り、本棚へと向かった。


「今日は『僕』なんですね」

「そうだね。最近のブームは『僕』なんだよ」


 僕に背を向けたまま山崎さんは話を続ける。


「君とおそろいだね。嬉しい?」

「いや、山崎さんと話す時だけですよ。普段は、普通に俺とか使います」

「なんだ。つれない後輩だな」


 本を片付け終えた山崎さんは、不服そうにこちらへ戻ってくるとギイギイと音を立てながら僕の前へと座る。


「もう秋だね」

「――早いですね」


 時の流れは曖昧で、本当に毎日同じ長さで進んでいるのかと感じることがある。今まできっと、僕の時間流れは人より鈍間に進んでいた。退屈な時間は、早く過ぎて欲しいという気持ちとは裏腹に、ゆっくりと纏わりついてくるように進んでいく。


 しかし、この人に出会ってから僕の時間の流れは一気に加速して、今までの何倍も早く時が駆けていくように感じる。それほどまでに、山崎さんとの出逢いは僕に変化を与えているのだろう。


「山崎さんはもう進路とか決めてるんですか?」

「決めているとしても君には教えないよ」


 いたずらな笑顔で山崎さんは答える。この人は、あまり自分の事を教えたがらない。半年ほどの付き合いになるが知っていることは普通の知り合い以下に思える。それでも、何か特別な繋がりを感じていて、一緒に過ごす時間は心地いいものだった。


「ハル君はどうするの? やっぱり、大学進学かな?」

「そうですね。特にやりたいことは見つかってないので、大学に行ってから、ゆっくりと考えようと思います」

「そっか――良いと思うよ」


 山崎さんは帰り支度を済ませ、席を立つ。


「今日はもう帰ることにするよ。もう暗くなってきたしね。ハル君はどうする?」

「少し自習して帰ります。テストも近いし」


 そう答えると、先輩は「じゃあまたね」と旧図書室から出て行った。

 一人分の体温が減った室内は少し寒くなったような気がして、暖房をつけることにした。ヒーターの前で暖まりながら色んな事が頭をよぎった。原因はさっき進路についての会話をしたからだろう。これからの事についてはよく分からないし、想像がつかない。ただこの日常が、何の変哲もないただの日常が、たまらなく愛おしいと――そう感じていた。



 *



 四月三日。この日はどこの高校も新しい学期が始まる日で、うちの高校も例に漏れず、新学期の始まりの日であった。高校二年生になった僕は特に新学期に心を躍らせることもなく、普段通りに登校していた。家から高校へは歩いて五分ほど。通学路にある川沿いには今年も桜が咲いていて、綺麗な花びらがひらひらと風に舞っていた。春先の風はまだ少し肌寒くて、深く息を吸うと鼻の奥をツンと刺激した。


 いつも通りの静かな登校を満喫していると学校まで後数十メートルという所で、一人の女子生徒が後ろから声をかけてきた。


「おはよう! ハル君」


 声のする方へ視線を向けるとよく知る笑顔がこちらを見ていた。


「おはよう。佐倉」

「相変わらず早いね~。部活に入ってるわけでもないのに。一年生から、三十分前登校は基本だもんね、ハル君」

「まあね。もう一年も続けてるから習慣になっちゃったよ」

「そっかそっか」

「てか、佐倉と朝会うのって珍しいな。何か用事でもあるのか?」


 そう訪ねると、彼女は気だるそうに答える。


「いやぁ~。新学期早々日直でね~。ハル君変わってくれない?」

「いやクラス違うじゃん」

「お人好しのハル君でも流石に無理か~……。そういえば、同じクラスだったの小学校の時だけだよね。後は全部違うクラスだったね」

一樹いつきとは中学からずっと一緒だけどな」

「運命の赤い糸で結ばれてるんじゃないかってくらい離れないよね、二人は。前に一度、友達に『二人はそういう関係なの?』って真面目な顔して聞かれたときは吹き出しそうになっちゃったよ」


 佐倉は楽しそうに笑う。彼女の頭には舞い落ちてきた桜の花びらが一枚くっついていた。


 そんな会話をする内に、校門へとたどり着き下駄箱へと向かう。


「じゃあ私こっちだから。またね!」


 佐倉は長くてふわっとした髪を揺らしながら、小走りで教室へと走っていった。


(相変わらず落ち着かないやつだなぁ)


 新しい学期が始まるというのに、いつも通り変わらない級友を見て何だか少しホッとした。

 下駄箱で靴を履き替え、朝のホームルームまでの時間をお気に入りの場所で過ごすことにする。こんな朝早くからあそこに行く人はきっといないだろう。その為にこんなに早く学校へ来ているのだ。下駄箱から奥に見える階段へ向かい、屋上へと上る。運動部ではない僕には少しきついものがあるが息を切らしながら、上へ上へと向かう。一段上るたびに呼吸と足並みが速くなるのを感じる。


 そうして、ようやく屋上への扉にたどり着きドアノブに手をかけた。


 案の定、屋上には誰一人おらず風の音だけが辺りを包み込んでいた。この素晴らしい空間に一番乗り出来たことに満足した僕は、景色がよく見える奥へと進む。


 うちの高校は、一周二十キロほどの湖のほとりに建てられていて、この屋上からはその湖が一望できる。入学して、この場所を見つけてからは何となく気に入っていて、朝早くにきては景色を眺めながらぼーっとするのが日課だった。


 基本的には、この場所へ誰かが来ることない。恐らく、屋上の扉が解放されている事を知っている人が少ないからだろう。しかし、約一名の僕以外の例外が先にこの屋上一番の絶景スポットを陣取っていた。


「残念。一番乗りは私でした~。君も相変わらずここが好きだね~」

「……青島先生。いたんですか。朝は弱い方だと思ってましたよ」


 そう声をかけてきたのは、隣のクラスの二組担任である青島先生だった。


 先生は咥えているタバコを口から離すと煙と共に息を吐き出した。


「タバコ、そろそろやめたらどうですか?校内禁煙だし」

「まぁ堅いこと言うなって。あたしのおかげで、あんたもここに来れるんだから。本当は立ち入り禁止なんだぞ、屋上は」

「まぁ、そうですけど……」


 青島先生は、にやにやとしながら屋上の鍵をくるくると回す。この先生の言うとおり、本来ならば生徒はここに立ち入る事は出来ない。しかし、青島先生が喫煙場所の確保のため、常時開放されている状態になっていた。この学校はもう少しセキリュティ管理をしっかりした方が良いと思う。


「他の先生にばれないんですか?」

「あっは~。とっくの昔にばれてるよ~。まっあたし優秀だし、怒られないから!」


(それは、呆れられてるだけなんじゃ……)


 本人に言うと機嫌を損ねそうなので心の中にとどめておく。実際、青島先生は優秀で生徒からも人気がある。素行と口の悪さを差し引いても、十分良い教師と言えるだろう。


「君はまだこんな所でウジウジするのにはまってるのか?こんな調子じゃあ、残りの学生生活は楽しめないぞ!」

「……語尾にハートマークがつきそうな喋り方やめて下さいよ」

「いいじゃないか~。可愛いだろ?」


 二十代後半とは思えない天真爛漫な笑顔をこちらへ向けてくる。その破壊力は、普通の男子高校性なら一発でリングに沈めるだろう。


「僕にはそういうの効かないの知ってるでしょ」

「――そうだったな。ところで、一つ頼みたい事があるんだが」

「はぁ……。面倒事は嫌ですよ?」

「なに、簡単なお使いだよ。今日の授業で使う資料なんだが、旧図書館にしかなくてね。それを何冊かとってきて欲しいんだ」


 旧図書館……。この学校に来てからまだ一度も行ったことが無い。確か五年ほど前に、現在使われている図書館ができてからは、ほとんど物置になっていると聞いた。巷の噂では、よく〝出る〟何てことも言われてたりする。


「まぁいいですけど。自分で行かないんですか?」

「これでも、忙しい身でね! 新学期はやることが多いんだよ」


 先生は、胸ポケットからボールペンとメモ帳を取り出し、


「んじゃ、これ持ってきてね。一限で使うからよろしく~。担任の先生にはホームルーム遅れるって言っといてあげるよ。それじゃ~ね~」


 お目当ての物を書き出した紙切れを僕に渡し、颯爽と立ち去ってしまった。面倒事を朝から押しつけられ、折角の清々しい朝は台無しになってしまったが、先生にはそれなりにお世話になっているから良しとしよう。


 旧図書館は、南校舎の三階に位置している。南校舎は芸術棟となっていて、美術室や音楽室等が集まっていた。選択授業で美術や、音楽を取っていない僕にとってあまり馴染みのない校舎である。


 朝の校舎では、吹奏学部が練習する音が鳴り響いていた。今流れている曲は確かドラマの主題歌だった気がする。心地のいい音を聞きながら歩いていると、あっという間に旧図書館にたどり着いた。


 中へ入ってみると、空気がかなり埃っぽくて思わずむせてしまう。この校舎には、朝日が差し込みにくいのか、朝だというのに少し薄暗い。電気をつけて奥へ進むと、ガタガタとどこからか物音がした。


(ネズミでもいるのか?)


 そう思った僕は、特に気にすることもなくお目当ての資料を探そうと本棚を漁る。しかし、どうにもここの空気に慣れなかったので、窓を開けることにした。


「開けちゃだめだよ」

「えっ!?」


 部屋の中には誰もいないと思っていたので思わず飛び跳ねてしまう。振り返ると、学校指定のジャージを着た見慣れない人が立っていた。


「僕、寒いの苦手なんだよね。四月はまだ空気が冷えるでしょ? だから窓は開けちゃ駄目」

「はぁ……すみません」

「ここに誰か来るなんて珍しいね。何か用事があるの?」


 そう言って近づいてくる彼――いや彼女だろうか。ジャージを着たその人物は、中性的で端正な顔立ちをしていた。髪の長さ声色も微妙だった為、正直どっちか分からなかった。


 中性、中立、中庸。そんな言葉をそのまま体現しているような人だった。


 ただ一つ分かる事は着ているジャージが三年生のデザインだったので恐らく先輩だろう。


「あぁ……いや……先生に資料を持ってきてくれって頼まれて……」

「もしかして青島先生? あの人、生徒の人使い荒いもんね~――そんな不思議そうな顔して見ないでよ。照れるじゃん」


 苦笑いしながら先輩は続ける。


「まぁ大体の人は似たような反応するからね。もう慣れちゃったよ。じゃあさ――」


 そして、ぐいっと僕の方へ顔を近づける。その距離は一歩前にでれば唇が触れそうな距離だった。


「君はどっちだと思う?」

「っっ!」

「因みに今までの傾向は五分五分ってとこかな」

「あの……いや……その……」


 さすがに耐えきれないと思い、すぐに顔を逸らし距離をとった。一瞬の出来事だったが、この先輩が並ではない程の綺麗な顔立ちをしている事はよく分かった。


「あはは。ごめんごめん。ちょっと刺激が強すぎたかな。一緒に資料探してあげるから許してよ」


 そう言って僕の持っていた紙切れを取り上げ、資料を探し始めた。


 半分混乱状態に陥った僕は、代わりに探してくれている先輩をじっと見つめる。人見知りな性格という訳ではないが今まで出会ったことないタイプだった為、接し方が分からなかった。


 先輩は本棚の周りを数回移動しあっという間に資料を集め終わる。まるで、この旧図書室にある本の場所を熟知していると思わせる程の手際の良さだった。


「よいしょっと……これで全部かな」


 机の上に数冊の本を置き、先輩は僕にメモを返却する。リストを確認すると必要な資料は全て揃っていた。


「あ、ありがとうございます」

「いやいや、何のこれしきって奴だよ。僕はここの主みたいなもんだから」

「そ、そうなんですか……」

「さあ、早く行かないと朝のホームルームに遅刻しちゃうよ」


 先輩は早く部屋から出て行くよう促し、自分は受付カウンターに入り椅子に座る。すると、傍に置いてあった文庫本を一冊手に取り読み始めた。


「先輩は教室に行かなくても良いんですか?」


 素朴な疑問をぶつけると先輩はこちらに顔を向けることなく手短に、


「うん」


 と、一言だけ答えた。


 その一言にどこか突き放すような冷たさを感じた僕はこれ以上深く関わるのも悪いと思い「失礼しました」と一礼をすると旧図書室を後にした。

 


 


 

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