めろうちゃん
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めろうちゃん
1 |祐利
高校卒業と同時に地元を飛び出して、職を転々とすること6年。そこそこ格式の高いキャバクラのボーイでここ最近は落ち着いている。
「今日店開けるんですか?」店長に話しかける。
「そうだよ、あいつとこの店の関係を明日にはマスコミが掴む。しばらく営業できなくなる前にかきいれないとな。本当に参っちゃうな。ああいう素直そうな奴に限ってトラブル起こしたりするんだよなー。そう思うだろ?」
「ああ、はい、そうですね」
違うのに!人と物事の捉え方が違う時、心に張っている固い膜を踏み潰されたような、そんな痛みと絶望が覆う。また1つの断絶。
「じゃあ準備しとけよー」
店長が手を叩いて周囲の注意を集める。
「これからしばらく営業できなくなるから、今日はみんな張り切って!めろうのことは忘れて、香澄、今日からお前がナンバーワンだ」
めろうちゃん。本名は川崎芽衣子、24歳、血液型はO型、星座はしし座。小さな単語のピースを集めるように回想が始まる。
今日からここで働くらしき子に声をかける。
「今日から入店だよね?」
「そうです!」
「ええと、始めのうちはあの水色のドレス着てる子が居る所に行って、あんまり気張らないで、お客さんの話にあの子と同じような反応しておけばいいから」
「分かりましたー!」
「あ、店長からこの店で名乗る名前決めてもらった?」
「はい、でも私本名が芽衣子なのに芽衣って言われて。私嫌なんです。ここではいつもの自分とは全く違う自分でいたいので、本名とは全然違う名前にしたいんですよ、そうだ!祐利さんが決めてください」
祐利さんと私って同じくらいですよね?24。わーやった同い年だ!じゃあタメにしましょーよ。うんそうしよう、と相槌を打って時間稼ぎをしながら考える。でも思いつかなくて僕も芽衣でいいと思うけどなあ、と言おうとして、3つの文字が浮かんでやめた。
「めろう、はどう?」
「うええ、キラキラじゃん」
ごめん今のなし、のごのGの音が喉を出た瞬間、彼女の瞳の輝きが変わった。
「うん、うん!めろうにする!めろうちゃんってよんでください!ありがとうございます!」
その変化した瞳の光はてらてらしていて、水の中に浮かべた油みたいだった。吐き気と撹乱の襲ってくる光。
めろうちゃんは他の嬢とはあまり話さなかった。嫌いというより、興味がない様子だった。だから必然的に僕とめろうちやんは一般的に友達と呼ばれる関係になった。ボーイと嬢が関係を持つことも少なくない中、友情という関係に留まっていた。(僕もめろうちゃんの入店までは好き勝手していた。)実際には僕がめろうちゃんに憧憬を抱いて近づこうとし、めろうちゃんは僕のことを都合のいい奴としか見ていなかっただけなのだろうけど。
半年ほどでめろうちゃんはこの店でナンバーワンになった。ナンバーワンと告げられめろうちゃんが黄色い声で騒ぐでもなくはい、と一言だけ発して口の端をきゅっと上げた時、僕はめろうちゃんと仲良くできていることを後にも先にも1番誇りに思った。金持ちのおじさんが何を言って欲しいのか、どうしたいのかよく分かっている。水を得た魚という言葉はこういう場合に使うのか?水を得ていない状態の彼女の姿を知らないので使おうにも使えない。めろうちゃんがパトロンの安藤さんにシャンパンを最後にもう1本空けさせてお開き。
「ねえ今日何か食べて帰りたーい!」
「はあ?今空いてる店なんか…」
「あるじゃん」
めろうちゃんの指がファストフード店を指していた。めろうちゃんと店の外でも一緒に行動するのは初めてのことだった。店の中でだけ、僕達はしっかりと友達だった。
「じゃあ入るか」
店内の客は数人しか居らず、照明がいやに明るくて入った瞬間目を細めた。
「俺いっつもこの200円のハンバーガーばっかり頼んでるわ」
「えー、私そのシリーズ1回食べたことあるけど卵ぐちょぐちょで吐き気して、それからトラウマで食べてないわ」
「あの卵は確かに、でもこれは美味いから!食べてみ」
レジに立っている若い男に注文する。20歳くらいだろうか?こんな道でも良かったのかもしれない。自分が好んでその日暮らしに走っているような気がした。
注文したものを受け取って席につき、ポテトをめろうちゃんと僕の間に置いた。すかさずめろうちゃんが3本一気に掴んで食べた。
めろうちゃんが指についた油をペーパーで拭いながら口を開く。そして突然、
「ユーリ、結婚しない?」
「え?結婚?え、いや、俺は普通に…もう1回言って!」
「言わん」
「…結婚しよう、めろうちゃん」
その瞬間、めろうちゃんの瞳から僕が魅せられた光が消えた。めろうちゃんに突き飛ばされて椅子から落ちた僕に、めろうちゃんが椅子を掴み僕に馬乗りになった。うわああああー。めろうちゃんの絶叫。ああこの人のことやっぱり分からないや、赤のかかったちかちかした視界で思う。
「大丈夫ですか!?」
先程の若い男が焦った様子で駆け寄り、それに気づいためろうちゃんはすっと立ち、僕を跨いで仁王立ちした姿勢になった。
めろうちゃんが小さな声で呟いた。
「めろうちゃんって、呼ばないでよ」頬には涙が伝っていた。
「ごめん、芽衣子」
「私帰る」
「え!?お客様!」
「大丈夫です、ただの痴話喧嘩です」
めろうちゃんの逆鱗に触れたこと、それを痴話と形容してしまった罪悪感。幸い怪我は内出血程度で済んでいた。
その次の日からめろうちゃんは店に来なくなった。1週間ほど経ち捜索願を出そうかと思った頃、めろうちゃんが逮捕されたのを知った。ここで回想は終わり。
わー!ありがとうございますー、名指しされた香澄が黄色い声を上げる。香澄は入店してから半年程の二十歳の嬢だ。
開店まではまだ時間がある。
店のバックヤードのパイプ椅子に座り両手に収まるほどの大きさしかない、受信料を滞納しNHKチャンネルのつかないテレビをつけるとまためろうちゃんのことを放送していた。
彼女の中学時代の同級生が、めろうちゃんのことを「大人しくて、とてもキャバ嬢という仕事ができて、人を殺せるような子になったなんて思えない」と話していた。同級生が犯罪を犯した、きゃー私の所に取材来ちゃった、本当は答えたくないんですけどね、これを話したらいい?これも話しちゃいましょうか?と嫌がっているように見せかけて本当は自分より下のヒエラルキーだったかつての同級生を蔑み、貶したい気持ちが音声加工越しに透けて見える。テロップは「「魔性」の女、男性殺害」すぐに電源を切った。
めろうちゃんが本来すごく地味な性格をしていること、知らなかった。あの絶叫も派手な人間特有のヒステリーさだと思っていた。本来の自分が薄れていくのを、店の外だけでも食い止めたかったのだろうか。
でもめろうちゃんは見かけはすごく派手だった。常に丸い童顔とちぐはぐのブランド品のバックや靴を身につけていた。派手な自分と地味な自分、どちらを大切にしたいのかはっきりして欲しかった。
ボーイと嬢が関係を持つことも少なくなく、僕もめろうちゃんの入店までは好き勝手していた。でもめろうちゃんと寝たいとは不思議と1度も思わなかった。ただ、僕はめろうちゃんに田舎から同じ店に辿り着いた、という点でシンパシーを感じていた。だからこそ支え合える、支えてみせると思っていた。先に言われてしまったけれど、めろうちゃんが暴力沙汰、または年齢的な問題でこの仕事を続けられなくなった時にはプロポーズしようと思っていた。2人でこの店を乗っ取ってオーナーにでもなるのはどうかと言ったら、下っ端のボーイが何言ってるの?あたしが店長になるんだよ、歌舞伎町ナンバーワン取ろうぜユーリ、と笑ってくれただろうか。疑問符ばかりの、到達点のない散文的な考え。たくさん頭のなかでめろう、めろうと呼んで、その度殴られる。殺されたっていいかもしれない。この気持ちが支えたいという高尚な感情でなく単なる被虐欲だったら?
「ユーリくん、なにぼーっとしてんの?」
香澄がこちらを覗き込んで話しかける。
「あー、ごめん」
「今日セイナちゃん来ないっぽいよ!セイナちゃんのお得意様に連絡しとかないとだよ、あの人セイナちゃんいないとキレ散らかして店のフインキ悪くするんだよ?めろうさんがいなくなってへこむのは分かるよ?仲良かったもんね、でも今日は今日だよ?そういう世界じゃんここは、ユーリくんの方が長いから分かるよね?」
頭が悪いと思っていた奴に諭されてしまうとは。僕はめろうちゃんを愛していなかった。
掻き乱されただけ、そしてこれからは過去に戻るだけ。なんてことはないんだ。愛していないけれど囚われている。倫理のなさが鉄格子を砕ければ良い。
「香澄ちゃん、店の後空いてる?」
2 孝規
芽衣子は俺の目をまっすぐに見た。
あたし東京へ行くの、本当は東京でなくてもいい、遠い所ならどこでも。 あー、俺はついていけないや。そうだね孝規は一生ここにいるんだもんね、私と一緒に行けばいいのに!全部捨てて!
「孝規さん、起きてください」
「…はい」
女中の未岐子さんに起こされて目が覚めた。
また芽衣子の夢を見ていた。
「今日で、最後なんですか?」
「はい。ここにはもう居られません。矢田家の皆様にご迷惑をおかけしてしまい、大変申し訳ございませんでした。」
田舎の元地主で現開業医の矢田家は、代々川崎家を女中に雇っている。
「いえ、俺は別に…未岐子さんたちには本当に良くしてもらいましたし」
「とんでもありません。芽衣子のせいでこんな…」
「…」
「あと1か月ほどでイギリスに発たれるのでしょう?事情が落ち着くのを待つ意味では、少し早めてもいいかもしれませんね」
「そうですね」
もう戻らないつもりだよ、と心の中で呟く。
ここ数年、孝規はうちの医院を次ぐんだぞ、と言い聞かされている。遊び歩いてばかりの長男。成績が伸び悩み浪人を数年続け、精神を病んだ次男。まだ跡取り候補は残っている、と三男の僕は人生のレールを敷かれていた。そんなレールぶち壊してやるからな、と社会への自己顕示欲に動かされ矢田の家から逃げる方法を考えた。思いついた手段は留学。海外の医師免許を持っていれば予備試験を受けるだけで日本でも医師として働けるし、語学留学も兼ねられる。それは表向きの理由で、本音ではしばらくしたら行方をくらませて、死んだと思って貰えればいいなんて思っている。親不孝でごめんなさーい!でもどうせお前ら俺の事跡継ぎとしてしか見てないだろ!俺は矢田の人生ではなく、孝規の人生を生きたいんだ。芽衣子は、結局自分自身の為の人生を生きられたのだろうか。俺のせいで、彼女のまっさらな人生のカンバスには大きなバツ印が滲んだ。彼女の本来の人生の享年は24歳。川崎家の周りは常に何人ものマスコミが取り囲んでいて、カーテンが揺れたり、そんな些細な動きでもフラッシュが焚かれる。未岐子さんらは家に入るだけでも苦労している。
未岐子さんが部屋から出ていった後、ソファーの向かいのテーブルに置いてある付箋を手に取った。
被害者ぶっている加害者になるよりも、根っからの加害者になる方がいくらかマシだ。
スマホを手に取って、「週刊〇〇 03-××××-××××」とメモに書かれている電話番号にかける。誰が書いたのか字が読みづらく、本当は6なのに0と打っていたらどうしようなんて気を揉んでいた。
「はいこちら週刊〇〇編集部です」
やつれた男の声だった。
「川崎芽衣子の事で、お話出来ることがあります」
「長くなりそうですか?」
「はい、すごく」
男の声が少し明るくなった。
じゃあ駅前のファミレスで、3日後の10時。はいわかりましたと言って電話を切る。
芽衣子の分まで、俺が遠くへ行く。
しばらく経った日、
「なんで芽衣子のことあんな風に書いたんですか?」
どんな手段を使ったか俺のSNSのアカウントまで特定した男からダイレクトメールが来た。
「俺がそっちの方まで行きます。直接話したいんですよ」
会ったら絶対にろくな事にならない。分かっているはずなのに、俺はその男と会う約束をしてしまった。
週刊誌の記者と話をした時と同じファミレス。
「どうしてこんなめろうちゃんのことコケにするだけのような記事書かせたんですか」
市販の髪染めで染めたような、安っぽい茶髪の男だった。おそらく、めろうというのは芽衣子の働いていたキャバクラの源氏名だろう。
「俺じゃないですよ、やめてください」
「この記事書いた記者、ちょっと脅したらすぐ吐きましたよ」
「…俺は芽衣子の遠くへ行きたい、別人になりたいっていう願望を代わりに叶えようとしてる所なんです」
男がテーブルを強く叩いた。ソーサーとスプーンがぶつかってカチャカチャ音を立てる。
「そんな適当なこと言わずに、全部話してくださいよ!その内容次第でこっちも少しは考えます、めろうちゃんが昔からあなたに信頼を置いてたって聞きました。」
男が語気を強める。女々しい奴。この人は芽衣子のことが好きだったんだろう。そう勘づくと、堅かったはずの口はぼろぼろ崩れて話し出してしまった。
「分かりました、話します」
「叶未だってこんな人の下にしか立てない家業継ぎたくないって思ってるよ!」
夜は音がよく響くので、川崎家の口論が学校からの帰り道に聞こえてきた。芽衣子、東京から帰ってきてるのか。芽衣子と俺の家が女中として雇っている芽衣子の母親の未岐子さんは、顔を合わせる度言い争っている。
「叶未は家事とか好きだし、継いでくれるとは思うんだけどあなたは長女でしょう」
「そういう古臭いとこが嫌なんだって!」
立ち聞きなんかみっともないと思っても、その場から足が動かなかった。
次の日、家に2人がやって来た。僕の両親は久しぶりの芽衣子との対面に喜んでいた。
「芽衣子東京から帰ってるんですよ、もうこの子はいつまでもふらふらしてて恥ずかしい」
それを遮るように芽衣子がこんにちは、と挨拶した。それからも未岐子さんと目を合わせようとしなかった。未岐子さんが昼食の用意をしている間、俺は芽衣子を2階の部屋に呼んだ。
「孝規、すごい背高くなったね」
「まあ、4年も間が空いたらそりゃ」
「私が短大卒業したくらいから会ってないもんね」
「東京で4年も何してたの?」
「内定どこにももらえなかったの、知ってるでしょ?だから最初の何年かはフリーター。でもここ1年くらいはキャバクラ」
「芽衣子がキャバ嬢!?出来んの!?」
「できるできる」
「未岐子さんには?」
「言う訳ないじゃん」
芽衣子は数年見ないうちに、動作や言葉の端々に気の強さが浮き出てくるようになっていた。昔は絵に描いたような内弁慶で、素顔を見せるのは家族くらいだったのに。昔の臆病な彼女の残像が目に残って、今正面であぐらをかいて座っている彼女と目を合わせられない。
「それでさ、孝規はこれからどうするの?母さんから留学する、とか聞いたんだけど」
「うん、留学する」
「へー!どこにどのくらい居るの?」
「イギリスに。…もう帰らないつもり」
このことを他人に話したのは初めてだった。
「そっかー、私も家継ぎたくない気持ち分かるよ。孝規が帰ってこなかったら私も家継げってそこまで言われなくなるだろうし、ウィンウィンだね」
「最初の何年かは同じ所に長くは居られないだろ、引っ越すのだって金が要る。だから…」
「だから?」
「だから…」
「何?言ってよ早く」
「…援交をやる」
「は!?それこそあんたに出来んの?」
「きっとやれる、はず」
「はず、で上手くいくことなんかあったら苦労しないよ!って!孝規が援交とか面白すぎる、ううぅ〜」
「笑うなよー!人が真面目に考えてること、普通に計算して割がいいからやるんだろうが」
「性を売り物にすること舐めちゃダメだよ、いつ、どこなの?」
「…今日の晩、3つ東線乗ったとこの駅前のホテルで」
「じゃあさ、私その駅前のどこかで待ってるよ」
「そんな干渉しなくていいって」
「いや私分かるよ、孝規そういうの向いてないもん。困ったら電話かけてね。逆美人局とかしてもいいかもね」
「セックス終わるのを幼なじみに待ってもらう惨めさ、芽衣子は一生理解しなくていいよ…」
交通費を節約する意味でも隣町で客を探した。マッチングアプリを使ったけれど、高校は卒業していなくとも18歳の誕生日は迎えているのできっと大丈夫だろうと信じている。
駅前の誰かも分からない偉人の銅像の辺りで待ち合わせにした。
「あの、Kさんですよね?」
「…はい。タケさんですか?」
大柄な男だった。さっきの話しかけ方がすでに粘着質な感じがして気持ち悪い。ダメだ、割り切らなければ。
「ここではなんだし、もう行こう」
タケと名乗った男に案内されるままビジネスホテルに向かった。
部屋に入りジャケットをハンガーに掛けた。
「前払いでお願いします」
「こういうの慣れてるの?」
「いえ、初めてです」
3枚1万円札を受け取った。これを3回繰り返せば、1か月分の家賃になる。そう思えばなんてこと無い。
「じゃあ、よろしく」
「はい…」
すると突然ベットに両肩を掴んで押し倒された。焦ってワイシャツのボタンを外そうとする手を掴んで、
「え!ちょっと、そんな急に!」
「は?こういうもんだろ」
「それにさ、気づかなかった?俺、武嶋だよ、お前ん家の所に爺さん入院させてる」
「は…?」
「満足させてくれよ〜、ダメだったらお前の親とかに言っちゃうかもな、お宅の息子さん売春してますよ、って」
脳の血が混乱やら怒りやらで逆流し、とっさにサイドテーブルの上にあった灰皿を掴み、武嶋の方に向かって勢いよく下ろした。脳天を突いていた。武嶋の大柄な身体がぐら、と揺れて倒れた。シーツに赤く染みが広がっていく。少し脅かすくらいのつもりだったのに。こんなはずじゃない、ここで終われない!
何か困ったらかけてね、その言葉を思い出し芽衣子に電話をかける。
「あのさ、芽衣子、困ったことになってさ…302号室、うん、今すぐ来て欲しい…」
扉を勢いよく開けた芽衣子は横たわっている武嶋を見ると、何かを諦めたような穏やかな顔で笑みさえ浮かべながら、
「このまま意識戻ったら暴力ふるわれたとか騒がれてめんどくさいよ、もうさ、殺しちゃわない?」
と言った。
みんなイカれていた。イカれてるって自覚もなくイカれていたから、余計に性質が悪かった。どうして俺がすんなり芽衣子の提案を受け入れて、こんな行動をしたのか今でもよく分からない。きっと、俺も芽衣子もイカれていたからなのだろう。
「分かった」
武嶋の首の浅く窪んだ所を、力を込めて握った。絞殺で死ぬには2分ほどかかると聞く。俺が武嶋の首を絞めていたのもせいぜい2分くらいなのだろうが、2時間にも2日にも感じた。ようやく力の入れ方を分かってきたころ、武嶋が一瞬大きく震え、その後すぐだらりと弛緩した。
俺は近くで立っていた芽衣子を見上げ、教唆を仰いだ。
「芽衣子、俺…!」
「できたんならあの人殴った灰皿とか早く貸してよ、指紋つけるから」
どこまでも急進的に破滅に向かっていく。
しばらく芽衣子と芽衣子の指紋をつけたり、俺の触ったところを拭いたりしていた。こんな素人のしたことすぐバレてしまうだろう。本当なら俺は殺人罪で、芽衣子は殺人教唆罪に問われるだろう。でも今はそれを逆にするか、芽衣子が全て被るかの2択だ。
今までとこれからの断絶が全部光になって、その光と駆けて行きたかった。幸せになりたかった。
芽衣子が、
「幸せになりたかったね、なれなかったね」
俺はすうと息を吸って、
「なれる訳ないよ、俺たちだから」
「孝規のこと警察に言わないから。ちゃんとイシャになってね」
「人殺した奴に医者なんか務まるかよ」
「クソ田舎の小さな医院なんか看取るのが仕事みたいなものだよ」
「だから俺は帰らないんだって」
「そうだったね、なるべくここから遠くに居て、約束」
窓を開けた。互いの背中を抱きながら深呼吸する。春になりかけの、でもまだ依然として気配の残る冬の空気は澄んでいて、この世界の全てが俺のしたことを見逃してくれているような気がした。もしかしたら、このことはいつまでも誰にも気付かれないかもしれない。
「っていうか、本当に芽衣子のこと好きなんですね」
「好きじゃないですよ」
「あ、俺言った通りもうすぐイギリス行くんで、一緒に国外逃亡します?」
「遠慮しときます、俺落としたい子いるんで」
「は、くだらない」
男はこれ以上追及してこなかった。互いに、いや俺とこの祐利という男と芽衣子、3人でそれぞれ何かを諦めあっていた。
俺はこれから俺のために遠くへ行く。でもそれは芽衣子の望みでもあった。より遠くの場所を求めている限り、俺は芽衣子の呪縛から逃れられないのかもしれない。自分の性愛とも向き合えないような人生。
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