近所のおっさんが逮捕された。
コミュ力の高い、嫌な人だと思っていた。僕の家のはす向かいの隣の家。子供の頃は、樫原さんだか柏木さんの家だったが、しばらく空き家だったのだけど、そのおっさんが引っ越してきていた。
個人で雑貨の卸売りの業者をしているようで、近所の老人達との阪神の話に交じって、「大阪の取引業者がヤクザだった」というような武勇伝が、僕の部屋にまで聞こえていた。同じ武勇伝を何度も聞いてので覚えた。フットワークが軽そうで、身なりもこざっぱりとしているから、50代後半から60代前半だと思っていたが、実は70代だったことが分かったらしいが、その時、おっさんは「バレたか」と言ったらしい。
僕は、実家に引きこもって暮らしている。ベランダで、蔓万年草なる食べられる草を育てながら、それを動画にしたりしているが、ベランダに出ると、しょっちゅうおっさんが、どこからか歩いて帰って来るし、自分の家の玄関先に座り込んだりしている。中年の僕でも、外にいるだけで眩暈がした猛暑、酷暑の中でも、おっさんは玄関に座っており、近所の顔見知りが通りかかり、「そんなところで暑くないか?」と聞かれると、「ここに座ってる方が気持ちええんや」とデカい声で返していた。
コミュ力が高いのは、個人で業者をやっているからか?と思ったが、生まれてから、ずっとこの町内で生きている僕なんかよりも、ずっと町内の人と関わっている。植物の手入れや撮影をしようとベランダに出ると、おっさんは誰かと喋ったり、どこからか帰って来てたり、玄関先に座ったり、溝(どぶ)を見つめている姿をよく見た。
今となっては確かめようもないのだが、溝に対して、謎の執着があったと思う。町内では春と秋に溝掃除をする。僕は、両親に任せて参加することはないのだけど、おっさんは、海でテレビ番組のロケでもするのか?と思えるくらいに本格的ないでたちで、一人だけ魚市場のような恰好をしていた。なんと、溝掃除の前日に自分の家の周囲を終わらせて、当日は、頼まれてないのに、色んな人を手伝いに行っていた。僕は、コミュニケーションの押し売りだと思っていたが、町内の行事に参加しない僕なんかよりは、世の中のためになっていると思った。
溝掃除は年に2回しかないのだけど、おっさんは、不定期に自分の家の周囲の溝を掃除したりしているが、掃除はしなくても、ずっと溝を見ている姿を何度か見かけた。変な人だな、と思っていた。
事件が起きたのは、お祭りの日だった。小学生の女の子が、大人に怒鳴られるという事案が発生したらしい。子供部屋おじさんである僕は、女児がらみの事案の話を聞くと、「自分が疑われるのじゃないか?」と身構えてしまう。詳細は、後に知ることになるが、お祭りで遊んではしゃいでいた女の子を大人が怒鳴りつけたのか?それとも、いわゆる事案なのか?そんな風に思っていた。
また、同じ日に、溝を見つめていた、あのおっさんが陰に身を潜ませて、僕の家の二軒隣のおばさんを驚かせた……とか意味不明な事を聞いた。ちょっと意味が分からなかった。
お祭りの翌日に、起きていた事件を知った。なんと、あのおっさんが不法侵入で逮捕され、警察署で一晩泊まり、翌日に帰って来たらしい。おっさんの家の前に見慣れない女性二人組と警察官がいて、不審に思った僕は、それを母親に伝えたのだが、女性二人は福祉関係の人らしく、警察官は警察署から、おっさんを家に戻したのだと思われた。
その日から、僕がベランダに出るとしょっちゅう目にしていたおっさんを見なくなった。玄関先に座り込む事も、溝を見つめることもなくなった。玄関を覗いてみても人気がしないけど、僕がパチンコ屋で期待値ハイエナを終えて帰って来ると、夜は、電灯がついているから、家の中にはいるのだと思う。
しかし、二日経っても三日経っても、おっさんは出て来ない。町内会の溝掃除の日が近づいていた。溝掃除の前日も、溝掃除をしていたおっさんだったが、それも出てこなかったら、いよいよ家の中で自死しているのじゃないか?と不安に思いながら、パチンコ屋からの帰りは、家の灯を確認した。
インターホンを鳴らした方がいいのじゃないか?と思ったが、僕の両親も含めて、近所の、よく阪神の話をしていた人とかも、インターホンは鳴らさなかった。こういう時、どれだけ親しくても、逮捕された人間の家のインターホンを鳴らすには勇気が(と言うのかは分からないが)いるのだと思う。
あの祭りの日に、おっさんはどういう理由で、どこに不法侵入したのか?その謎は、本人の口から僕が聞く事はないと思っていたが、おっさんが家から出てきたら、誰かしらが事情を聞いて、それを両親を伝って、僕も知るのだと思った。おっさんが、生きているならば。
祭りの日から一週間経ち、溝掃除が近づいて来た頃、全ての真相を知る事になった。おっさんは、警察官と女性二人組が来ていた日に、どこかへと連れて行かれたらしい。そこが精神病院なのか、なんらかの施設なのか、警察署ってことはないだろうけど、どこかへ行ったらしい。
そして、祭りの日、ご近所さんを驚かせた事、小学生女児を怒鳴りつけた事、不法侵入、全てがおっさんがやった事だった。
詳しい時系列は分からないが、道路の角に隠れてご近所さんを驚かせた。おそらくその後に、小学校のフェンスをよじ登っていた。通りかかった知り合いが「危ないで!やめなはれ!」と言ったが、おっさんは、フェンスを登って行き、学校が終わった後に、校庭で遊んでいた小学生の女の子に対して、何かを叫び、その時点で通報が行われ、小学校への不法侵入で逮捕されたのだ。僕がお祭りの日だと知らないで、自分の部屋にいた時に、外ではそんなことが起きており……思い出すと、遠くから太鼓の音がドンドンと聞こえていた。
人は、急に狂う事があると聞いた。近所には、認知症の人が増えた。変な叫び声が聞こえたり、聞いていて、思わず笑うしかなくなるような、心にダメージがあるような叱責が毎日のように聞こえてくる。徘徊老人と、それを探す家族を目の前で目撃した。徘徊の開始をベランダで目撃してしまい、慌てて家の人に言いにいったりもした。
人は、徐々にボケて行くイメージがある。不法侵入を行ってしまうような、フェンスによじ登ってしまうような……狂ってしまうにしても、段階があるのだと思っていた。しかし、急に、一気に来ることもあると聞いた。
あの祭りの日、おっさんに何が起きたかは分からない。今後、私が知る事もないと思う。個人で商売をし、コミュ力も高くて近所の人と沢山話していて、他の家の溝掃除も手伝い、阪神とか、商売の武勇伝を語っていたおっさんが、狂った。
玄関の前に座り込んでいた時に、おっさんは何を見ていたのか。溝を見続けていた間、何を考えていたのか。あの日、おっさんに何が起きたのか?コミュ力は高くても、話す相手は選ぶようで、僕はおっさんと話した事はほとんどなかったし、あの日、おっさんに起きた事は、僕は知る事はないのだと思う。
ただ、人は急に狂う。僕にも、その日が来るのじゃないか、と怖くなった。人は、急に狂う。狂う日が来るのかもしれないのだ。おっさんの家の電灯は、今日もずっと点いていて、それを消す人はいない。
人間爆弾 ナカノ実験室 @yarukimedesu
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