ノスタルジーの怪物

ヤグーツク・ゴセ

ノスタルジーの怪物

 山下はどこか寂しげな面持ちで窓から顔を出している。じっと、崖下に広がる荒廃した雑破な世界を眺めている。ズボンの右ポケットから何かを取り出した。


 


「ふぅー、このやろ。暑いな」タバコに小さい火の粉が燦燦と付いている。

「生きてりゃ、いいことあるって誰かが言った。その言葉には責任というものが無いだろ。だから俺が責任を持ってお前に教えてやるよ!がはは」

夏に負けないぐらい蒸し暑い先生の言葉が私に響いてきた。


 先生は私になんで構ってくれるんだろ。

「先生、なんで私なんかに構うの?」

「あー!そりゃ、俺ぁ先生だからな、がはは」

「そんなことよりお前、日記書け。毎日何を見て、何を思ったかそこに書くんだ!もちろん、俺も書く!」

「...わかった。先生も"ちゃんと"書いてよね」

「あたりめぇだろ!がはは」

先生の汗臭さが生きる気力を失っていた私をなぜか突き動かした。


 8月17日

 私の最期はどんなふうが良いかずっと考えてた。まぁ、どうせ死ぬんだしそんなこともどうでもいいかな。

 8月17日

 今日病院近くのうどん屋で食った牛丼がめちゃくちゃ美味くてな!

食堂組にもおすすめしといたったわ!


 「今日もあちぃな。ほれ、いるか?タバコ!がはは」

「先生はどんな死に方をしたい?」

「なんだよ、唐突だな。なんだぁ?俺を殺す気かぁ?がはは」

先生はタバコを咥えたままでっかい背中をこちらを向けて大きく笑った。

「そうだな、笑って死ねたらなんでもいい、がはは」

「それもいいかもね」

先生はほんの一瞬だけ真剣な面持ちで崖下見た。


 8月25日

 私はなんでまだ生きているかわからない。

 死にたい理由も生きたい理由も無いはずなのに。雨が続いている。

 8月25日

一昨日買ったばっかの靴にもう穴が空ちまってたよ!最悪だぜ!だが、まぁ、久しぶりに崖下に修理にしてもらいに行ったら全てが懐かしかった。そうだな。

    懐かしさが懐かしかったな。



私には先生のその言葉の意味がわからなかった。多分先生も私の感情をわかりっこないのと同じだろうな。

「先生は何歳まで生きたいですか?」

「そうだなぁ。控えめに言って100歳かな!がはは」

「先生はどうして長く生きたいんですか?」

「そりゃぁ、お前にはまだわからないかもしれねぇな。ただ、何かの懐かしさを思い出すだけで自分がこの世界の記憶の中にまだ生きてるって確認できる。

懐かしい世界に浸りたいじゃないか。」

「私にはよくわかんないな。」

「あんま難しく考えんな!もうすぐお前もわかるようになるさ」

先生はそう言って窓から崖下の世界を見下ろした。タバコの火の粉はやけに弱々しく見えた。


8月31日

 先生が今日休みだった。

わたしは少し寂しかった。少しだけ。

8月31日

 すまんな!風邪だ!俺でも風邪は引くんだぞ!今度お前にも移してやるわ!

だから元気にしとけよ!


先生の日記はこの日から更新されなくなった。



---先生は死んだ---


「先生にまだ言いたいこといっぱいあるよ?

なんで死にたがりの私より先に死んじゃうの?

幸せに笑いながら死ねたの?答えてよ。」

先生はもう答えてくれない。


先生の死についてわかったことが二つある。

風邪などでは無く、肺がんで亡くなっていたこと。

私を患者として診る前から余命宣告を既に受けていたこと。


先生はなんで私の前では強く見せてたんだろ。

先生はなんで私にあんなに優しくしてくれたんだろう。

涙で前が見えなくなるのを防ぐように大きく目を見開いた。風が通り過ぎた。夏が終わる。






--12年後--

私は"先生"と同じ精神科医の先生になった。"先生"の部屋は12年前から何も変わらずごちゃついている。今でも思い出すあの頃の夏風が窓からスゥーと吹き抜け、すり抜け、一枚の紙を落とした。


9月1日

ごめんな山下、俺はもうお前と会うことはできない。嘘ついてて悪かったな。お前はタバコなんか吸わねえよな?

お前は気づいていないだろうが自殺未遂を繰り返してここへ来た時と見違えるほど表情が明るくなったぞ。自信持て!俺が保証してやるよ!

だからお前は生きて証明しろよな!

ー生きてりゃ、いいことあるさー

本当に無責任な言葉だよな!

でもな、俺は今こう思うよ。生きてりゃ、いいことあるんだよ。こうやってお前と出会えたろ?無責任に死んでごめんな。

無責任に突き放してごめんな。

無責任に強がってごめんな。

お前なら大丈夫だ。もう生きる理由があるだろ。お前とだべってた夏の懐かしさが懐かしいよ。じゃあな。今は少し懐かしさに浸りたい。



「先生、ずるいよ、ずるい。胸の奥が苦しいよ。助けてよ。」

涙で前が見えなくなるのを防ぐように大きく息を吸う。

「先生はどうして私なんかにここまで想ってくるの?

私ばっか話してて恥ずかしいじゃん。」


窓から頭を出して崖下の世界を見渡した。けれど先生のように懐かしむことはできない。右ポケットから先生が吸っていたのと同じ種類のタバコを取り出した。あぁ、今ならわかる気がする。あの頃の懐かしさにずっと浸りたい。


     本当に懐かしさが懐かしい。





山下はどこか寂しげな面持ちで窓から顔を出している。じっと、崖下に広がる荒廃した雑破な世界を眺めている。ズボンの右ポケットから何かを取り出した。夏風が透き通る。


 山下は懐かしさに恋をしているようだ。



  「先生、タバコもらいますよ」

私のタバコの火の粉は燦燦と"また"燃え始めた。


         完

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ノスタルジーの怪物 ヤグーツク・ゴセ @yagu3114

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