仮想現実でジサツ

@iosdih

 

 彼は上司に叱られてばかりで退職を考えている。

 務め先では、仮想現実を使ったゲームの企画・開発を行っている。仮想現実を利用したゲームが昨今大流行しているのである。彼はそこで開発を行うひとりだった。

 そんな中、彼が仮想現実で実現しようとしているものは――痛覚だ。

 


 痛み。

 起こった異常を体に感じさせる防衛機能であるとともに、ヒトを長らく苦しませてきた厄介な機能でもある。

 仮想現実、いわば現実世界とは別の新たなるエデンを作ろうとする試みにおいて、それは脱ぎ捨てるべきものだと考えられていた。



 だからゲームにおいて殴られたときの感覚を表現したい場合、痛みは痛覚とは別の、震動や光の明滅で表される。

 痛覚などを再現したところで、何も楽しくないからだ。追求するのは苦痛じゃない、快楽だ。むしろ痛覚など、破棄すべき感覚なのである。

 言ってみれば彼の考えているものは、社会に何の利益ももたらさない、ムダな技術だった。



 だが、彼は痛みが欲しかった。

 ――リストカットをしてみたかったのだ。

 

 

 (同僚は出世コースまっしぐら。だけど自分は新人にも頭が上がらない。

 どうしてこうなったのだろう。自分が悪いのだろうか。挑戦するのが怖くて、人間社会で生きるのが辛くて、克服したけりゃ努力すればいいのに、しなかった。

 今さらどう努力すれば治るのか分からない。年齢的にたぶんもう取り返しはつかない。さんざ上司にケツを叩かれても、何の気力も起きない。向上心のないバカだ。惨めな人間だ。

 なにが自分をこうさせたのだろう。家庭環境? 容姿? いい先輩や先生に巡り合えなかった? 精神病?――何のせいにしたいけど、堂々巡って最後には結局、すべて自分の怠惰のせいという結論にたどり着く。もう考えるのもめんどくさい。とにかく眠たい)

 

 

 

 この気持ちを誰かに分かってほしいけど、臆病で誰も信じられない彼には、心の内を明かす人間関係すら形成できなかった。

 なにより辛かったのは、その孤独だったのかもしれない。

 いつしかぼんやりと「死」を空想するようになる。

 


 三十路をすぎ、だんだん体に衰えを感じ始め、人間不信の自分が唯一すがれる技術職の仕事も、才能に限界を感じてだんだん嫌気がさしてきた。

 「死」――そいつでこの人生を強制終了してもいいだろうか。

 快速電車がホームで駆けてくるのを眺めながら死を思い描くと、恐怖と共に甘美な瞬間が訪れる。

 だけど臆病な彼には、とてもじゃないけどその一歩を踏み出せない。あまりにも分厚い壁が、三途の川のように両者を隔てている。空想するのが精一杯だ。



 『仮想現実で「死」を表現できないだろうか』

 そんな発想にたどり着いたのは、残業でオフィスに独り残っているときのことだった。

 その日、特に哀しい出来事があったわけではない。いつでも暗い日常の延長線上で、ふとそんなことを考えた。「死」は彼にとって身近な思考ルーチンに割り込んでいたのだ。



 彼は企画を練りはじめた。

 会社には全く利益をもたらさないものだから、誰に見せるつもりもない。経費はもちろん自己負担となる。実現するかも分からない。

 しかし、その妄想は彼を駆り立ててやまなかった。

 いつも睡魔に囚われてばかりの彼は、久しぶりに眠気を感じないまま、開発に取り組むことができた。

 

 *

 

 (目の前に、銀色に光るメスが用意されている。

 親指と人差し指でそっとつまみあげる。氷のように冷たい。まじまじと見つめる。角度を変えると光の反射の加減も変わる。ぎゅっと握りこんで、つるりとした金属の感触を確かめた。

 手首の皮膚を袖から出す。運動不足と食欲減退で女のように細い。白い肌に、静脈が薄青く浮かんでいる。よくよく見ると、トクントクンと微かに脈打っている。



 生きている身体。

 親に生んでもらった身体。

 そこに、刃を向ける。軽く押し当てると、冷たい、と思う間もなく熱いものがあふれ出した。

 ぷつっと切れた皮膚から、血の雫が次々と生まれる。緊張と興奮で、背すじにはどろりとした冷や汗が垂れている。

 けれど、更に強く刃を押し付ける。刃が肉をえぐるにつれ、痛みは唐辛子のようなピリッとした鋭さを超えて、鈍く耐えがたいものへと変質していく。手がぶるぶる震える。脳が拒絶反応を起こす。

 とめどなくあふれる血液は赤黒く、床にたまってくる。左手がジンジンと痺れて感覚を失っていく。指先が驚くほど冷たい。

 この温度が、「死」。

 今――「死」に触れている。

 恐怖と感動で、訳もなく笑いがこみ上げてきた。



 自殺を阻止しているのは、自らの身体を、自らで傷つけることへの忌避だ。

 だがこれならば、自らを傷つけずとも自らを傷つけることができる。

 装置を頭から外せばほら、



 静脈は何事もないかのように、トクントクンと脈打っている。命を主張するかのように、ペースを必死に早めて)



 

 

 リストカットの実現に始まった彼の開発は、次第に実践的な「死」の表現を試みるようになっていく。

 「縊死」、「轢死」、「落死」、「窒息死」、「服毒死」、「失血死」、「溺死」、「焼死」――ありとあらゆる臨場感あふれる死の体験を、作品として世に生み出した。



 彼がここまで多くの作品を生み出せたのには、熱意以外の理由がある。

 実は第一作「リストカット」の制作後、協力者が現れたのだ。

 世渡りを上手くやってのけていそうな新人だった。会社に入る前はよく海外旅行にでかけたそうで、特に危険な地域での旅を好んでいた。

 今まで感じたことのない特別な体験だった、と新人は彼の作品を絶賛した。



 新人は新人で、変な奴だった。

 「死」によって今の自分の殻を破った先に、どんな世界が見えるのか興味があるのだ、僕と同じ人間はこの世にたくさんいるはずだ、もっとこの活動を広めるべきだ。

 そのようなことを大真面目に滔々と語り、誠意を示すといって、どこからか資金を調達してきた。



「クラウドファンディングですよ。『リスカ』は一部の若者にすごい反響がありました。アングラですけど、やっぱりこのプロジェクトは支持されてますよ。完成したサービスの公開を条件にしてあるんです。やるしかないです、先輩!」



 無駄に行動力のある新人のことを迷惑だとか思う気もなく、資金があるならと欲望の赴くままに「死」を量産していった。

 『タナトス』と名付けられた仮想現実プロジェクトは、気軽に死を体験できるサービスとして、様々な思惑で利用されるようになる。

 自殺を思い悩んでいる若者が、これで自殺を思いとどまったというメッセージが届いた。

 逆にこれで自殺する勇気が湧いたと、感謝されることもあった。

 肝試し感覚で死んでみたらマジで死ぬかと思った、ぶっ殺すぞと理不尽な怒りをぶつけられた。

 修行にとても役立った。お釈迦様にお会いできた、という仏僧もいた。

 恋人と心中するやつも作ってほしいですとびきりロマンチックな、という依頼が届いたりもした(ちゃんと実現した)。



 彼はともかく、新人はしてやったりという表情をしていた。



「ほら、こんなにもたくさんの人が喜んでくださってるじゃないですかー。やっぱり発表して良かったっしょ」



 よく分からない気分だった。「死」を望んでいるとき自分は孤独だと思っていたのに、こんなにも多くの「死」を望む仲間がいる。



 学生の頃『完全自殺マニュアル』という本に手を出した時のことを思い出した。

 読み終えたあとの奥付には「第一一二刷発行」とあり、こんなにもたくさんの人が自殺に興味を持っているんだと、驚きを隠せなかったものだ。



「そういえば『タナトス』の開発者としてまたイベントに招かれてるんですけど、どうします? いつも通り断っておけばいいですかね?」



 その日、なぜか彼はイベントに出てみようと思った。

 話してみたくなったのだ。自分と同じ「死」を希う人たちの声を聞きたかった。

 

 *

 

(ゲームに対しての興味はとうに喪われていた。だから、話は蹴った。

 「死」を追求した結果、このような技術が生まれたというだけだ。

 


 『タナトス』の技術を応用し、更なる臨場感を求めたゲーム開発。反対はしないが、積極的になるつもりもない。

 結局、会社からの要請で技術だけを無償で提供することになった。

 ひどく虚しさを覚える。

 なぜ向上心を持とうとするのだろう。更なる利益を追求するのだろう。

 ライバル企業と競り合って、成長した先に何があるというのだろう。いったいいつまで頑張り続けるつもりなのだろう。



 おそらく、彼らと自分の間には深い断絶がある。自分は彼らの考え方を一生理解できないし、あちらにしても同じだろう。

 愚かなのは、停滞を望むこちら側だとは思う。



 様々な考え方や個性があってのヒトだ。だから仕方のない部分もある。

 いさかいはそうやって起こる。孤独はそうやって芽生える。その断絶に、自分は耐えきれない。

 すべて皆一つに溶けあってしまえば、幸せになれるのだろうか)

 



 

「アレ、売上すごいらしいっすよ、先輩。素直に開発に関わっといたら、今じゃヒーロー……。ま、先輩らしいですけどね」



 うだうだ言いながら、相棒と二人で酒を飲んでいる。

 まあどうせ、退職するつもりだから。口癖のように彼はつぶやいた。

 はじめて告げたときは相棒にさんざん引き留められたが、今は最後のプロジェクトに協力してくれるように頼んで、どうにか落ち着かせている。



「でも今回の作品、宣伝してほしいなんて先輩から言い出すのって珍しいですよね。心境の変化でも?」



 彼は口をつぐむ。別に、と照れたように首を振るような仕草を見せた。

 これまで自分のために作品を創ってきた彼は、このときはじめて誰かのために作品を創るつもりでいた。いや、結局自分のためなのかもしれない。よく分からない。

 ただ、それが終わったらすぐに、ココを離れるつもりでいた。



 半年後に作品は完成し、彼はこれまでにない清々しい気持ちで会社を出た。

 帰りに、道具を買った。

 

 

 (退職届を足元に置いて、靴を脱ぐ。

 用意した椅子に登って、垂れさがるロープの輪っかを手にした。

 何度も何度も見た光景だ。驚くほどに心は凪いでいる。

 この先にある苦しみだって、既に慣れている。



 昔流行した、死をトリガーに同じ時間をループし続けるあのアニメ作品の主人公は、こんな気持ちだったのだろうか。

 まさか、同じ気持ちになる日が来るとは思ってもみなかった。

 頭を輪っかにくぐらせる。

 この後のことをちょっとだけイメージする。



 少しの間、苦しいだけだ。

 目の玉が飛び出そうになる苦しみのあと、一分にももたずに気を失う。それだけのこと。

 もしかすると頭にVR装置がついてて、それをとったら元の世界に帰って来るのかもしれない。もしそうだったら間抜けだなあ。



 もっと話しあえば分かり合えたのかなと思いながら、それをすぐに否定する。

 自分が彼らとコミュニケーションをとる手段は「死」しかない。



 この気持ち――心の「痛み」は今もちゃんと記録されている。

 願わくばどうか、この痛みが彼らに届きますように――)

 

 

 

 自殺者の見る世界シリーズ――サンプル① I.Y氏


 これは人が自殺に至るメカニズムの発見、精神疾患者への理解を深めるべく、医療または教育を目的として記録された仮想現実です。深刻な精神状態を追体験する内容のため、娯楽目的での閲覧は絶対にしないでください。

 三十分ごとに休憩を挟むようにプログラムされてあります。必ず指示に従い、最低十分間の休憩を取るようにしてください。また、閲覧後に流れるヒーリング映像を必ず鑑賞し、完全にリフレッシュしたと判断された状態で日常生活を再開するようにしてください。

 

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