第1話(2)
以前の知識が全て残っているのであれば、私は法曹界の人間ではなかったようだ。
「法律の専門知識など持っていないが、私に出来ることがあるだろうか」
私の言葉を聞いた銀は、待てをするように掌をこちらに向ける。
「過去が思い出せないと言ったな。会話ができる程度の知識はあるようだが、特定の職業に就いていなければ知り得ないようなものはないのか?」
「以前から持っていなかったのか、この状態になって失われたのかは不明だが、特にないように思える」
銀は「そうか」と頷いた。
「まあいい。さて、仕事の話をする前に、こちらが名乗ったのだから、君の名前も知っておきたいところだが、当然名前も憶えていないのだろう?」
首肯する。霧のように見えているらしいが伝わるだろうか。
「では私がつけてやろう。そうだな、性別が限定されるのはイマイチだろうから、
ほとんど考える素振りすら見せなかった。名無しの権兵衛からとったであろう、何とも安直な命名である。自らの名字を英訳しただけの事務所の名前も、彼女が考えたものだろうか。
「文句はないな? では仕事の話に移ろう。言った通り、私は相続を専門に扱う弁護士だ。案件によっては何かしらの調査が必要となることもある」
確認を取るようなことを言いつつも、間断なく話を続ける銀に、とりあえず相槌を打つ。
「さっき君は扉を開けずに入ってきたな。私が居る時でも施錠はしているし、今もそのままだ。すり抜けられるんだろう?」
「今日確認したところでは、床や地面、人以外は、私自身を含めて全てすり抜けられる、と言うか触れることができない」
「自分には触れられないのに、人には触れられるのか」と言いつつ、立ち上がって私に近付き、顔に手を伸ばす。頬にやや骨ばった感触が伝わった。
「こちらの感触としては、見た目と違って陶器やプラスチックに近いな。体温も感じない」
銀は遠慮する様子もなく、私を叩くように全身に触れる。
「一応、羞恥や痛みは感じられるつもりだが」
私の言葉に、ようやく触れることをやめた。
「すまない。触感からも性別不明だな」
言葉の割に悪びれる様子はない。だが、単刀直入な銀の姿勢は、私の現状からすると有り難いのかも知れない。
「仕事の話を続けよう。調査というのは主に遺言に関連したものだ。遺言書が残されているかとか、内容に瑕疵、何か問題がないかとかだな。君に働いてもらいたいのは内容に関する部分だな。そもそもが弁護士に相談に来るような事態だ。まぁ穏やかとは言えないことも多い。やれ改竄されているだの、やれ呆けていたから無効だの、その意見も相続人間で対立していたりな。調査が難物になることも珍しくないわけだ」
扉をすり抜けられるか確認した理由がなんとなく想像できてきた。
銀は唇の端を僅かに持ち上げ、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「そこで君の出番となるわけだ。人に見られない、屋内にも侵入可能となれば、これ以上の適役はないだろう?」
やはり、相続人なり関係者なりを探れ、ということなのだろう。弁護士の割に遵法精神に欠けるのではないだろうか。
「分かった。あまり気乗りはしないが、手伝わせてもらおう」
銀は微笑して鷹揚に頷いた。
「この仕事をしていると、君のお仲間に遭遇することもないではないからな。あるいは君なら、調査などしなくとも、遺言を遺した本人からなにか聞けるかもな」
もとより宛があった訳ではない。銀の言うお仲間に会えば何かしら得るところがあるかも知れない。
「ところで、君は食事や睡眠は必要なのか?」
自らの状態に意識を向けてみるが、依然として空腹や疲労は感じられない。
「恐らくだが、不要だと思う。食事についてはそもそも触れることもできないだろう」
「食事をしたらどうなるか気になるところだがな」と、また皮肉めいた笑みを浮かべた。
「滞在する宛もないんだろう?」
「そもそも誰にも見られず、何にも触れることが出来ない以上、特に気にすることはないと思っていたが」
銀は肩を竦め、呆れたようにも、気遣うようにも見える表情を浮かべる。
「全く。多分君は男性なんだと思うよ。特に外に出る用がないなら、この事務所に居てくれていい。居場所が知りたくなった時でも連絡の取りようがないしな」
「分かった。色々とありがとう」
「こちらとしても、得難い人材だ」
愉快そうに言うと、机上のノートパソコンを閉じて鞄にしまった。
「では私は帰るとするよ」
銀は鞄に手を伸ばしたかけたが、「ああ、その前に塩を片付けなくては」と心底面倒くさそうに呟き、隣室に向かった。程なくして箒とちり取りを手に戻ってくると、床に散らばった塩を片付け始める。
「塩や酒が魔除けとされるのは知っているが、幽霊にも効果があるのだろうか?」
「私の経験上、何の影響もないのは君が初めてだな」と、手を止めることなく返答する。
掃除を終えた銀は事務所を一通り見回してから、改めて鞄を手にとった。
「さて、では今度こそ帰るとするよ。照明は必要か?」
「消してくれて構わない。眠れるか試してみたい」
「分かった。では明日の朝に会おう。君は幽霊でも日中に動けるんだろう?」
頷くと、銀は事務所を消灯して立ち去った。
暗闇の中でも物が見えるなどということはなく、視界は暗闇に閉ざされた。やはり視力はこの状態でもさしたる変化はないようだ。
それにしても、何という一日だったのだろう。幽霊になったと思ったら、すぐに本物と思しき霊能者に出会えるとは。以前の私が超自然に興味がなかったためにそちらの知識に疎いだけで、実はありふれた存在なのだろうか。
ともかく、今の私に出来ることはない。明日を待つとしよう。
理屈屋幽霊 @WhereIsMyShoes
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