第1話(1)

 幽霊であれば生前があるだろう。やはり何をするにも自らが何者であったかを知る、思い出すのが第一だ。

 しかし、この状態は制限が多すぎる。特に物に触れられないのでは、情報端末や文書から直接情報を得ることは不可能だ。

 電器店や、最悪では民家に侵入して、テレビからニュースを確認する程度はできるだろうが、いくらなんでも私を特定する方法としては効率が悪すぎる。

 情報収集の具体的な方法を考えるのは一旦後回しにしよう。

 関わりのあった人間について憶えていないだろうか、と考えてみても、歴史上の人物から最近の芸能人に至るまで、著名人の知識はあるが、友人や親族には全く思い当たらない。

 直接的に個人を特定できそうな知識は完全に失われていると考えるほかない。せめて私の年齢や性別の特定ができないだろうか。

 たとえば、学校で習う鎌倉幕府の成立した年は世代によって異なる、という知識はある。だが、やはりいずれを学校で習ったかが欠けており、知識を得た時系列も存在しない。

 娯楽や時事のような、年代が限定される事柄についても同様に、リアルタイムで経験したのか、単に知っているだけなのか判断がつかない。

 早くも行き詰まってしまった。考えるだけではどうにもならないようだ。

 仕方がない。とりあえず街を散策してみよう。期待はできないが、何か思い出すことがあるかも知れない。

 他人に視認されない状態で人を避けながら街を歩くのは中々困難であったが、それでもしばらく宛なく歩き回った。

 予想していたことだが、思い出すことは何もなく、ただ時間だけが過ぎていった。

 日が暮れるまで歩き回って、得られたことといえば、疲労や空腹を感じないのが分かったということだけだ。

 ふと正面のビルに目をやる。袖看板には『シルバー法律事務所』とある。何故だか妙に気になり、注視してみると、手書きされたような文字で『霊能弁護士在籍』と看板の余白に記されている。誰かの悪戯なのだろうか。

 霊能力や霊感など、この状態でなければ一笑に付していたところだろうが、今や落書きにもすがりたい。

 事務所の扉を文字通りくぐり抜け、内部へと進入した。

 事務所内の見た目は至って普通であった。個人事務所なのだろうか、やや狭い室内には、机上のノートパソコンに向かって作業する女性が居るのみだ。

 こちらに気づいた様子はないが、やはり私の姿は見えないのだろうか。

 女性に近付くと、彼女は顔を上げこちらを見た。

 一瞬驚いた素振りを見せると、素早く立ち上がり、どこに持っていたのか白い粉末をこちらに向かって投げつけてきた。粉末は私をすり抜け、床に落ちた。どうやら塩のようだ。

「近寄るんじゃない!」

 女性は塩を投げつけた姿勢のまま、私を睨んでいる。中年のようであるが、細身のパンツスーツに身を包んだ姿は俳優やモデルにも見える長身の女性だ。

 彼女には私が見えているらしい。ひょっとしたら、私の声も聞こえるだろうか。

「驚かせて申し訳ない。落ち着いてもらえないだろうか」

 相変わらず私の耳には聞こえないが、どうだろうか。

 女性は驚いたように目を見開くと、こちらを見据える。

「見た目の割に紳士的だな。会話ができるヤツなど初めてお目にかかるが」

 ありがたいことに私の声も聞こえるようだ。女性の口ぶりからすると、私のような存在に遭遇したことがあるようだ。

 彼女は私を見据えたまま椅子に腰を下ろすと、息を大きく吐くと口を開いた。

「害意はないようだが、私に何の用だ」

「先程目が覚めた時にこのような状態となったのだが、自分の過去が一切思い出せずに困っているところだ。あなたの他に私を見ることや、私の声を聞くことができる人はないようなので、どうか助けてもらえないだろうか」

「助けてと言われてもな」

 女性は軽く肩を竦めた。

 確かに、そもそも私自身が何をしてもらえれば助かるのかも分からない状態だ。

「ところで、先程あなたは『見た目の割に』と仰ったが、私はどのように見えているのだろうか」

「どうって、黒い霧のようなものが人の輪郭をしているように見えるが。自分ではどう見えているんだ?」

「何も見えない。あなたには私の声も聞こえているようだが、私にはそれも聞こえない」

「難儀なヤツだ。思い出せないというのは性別もか?」

「全く思い出せない。声から何か分からないだろうか」

 女性は首を振る。

「残念だが年代も性別も分からない。何とも言えない声に聞こえるからな」

 私を認知できる人に出会えたのは大きな進展ではあるが、それでも私を特定できる情報は得られないようだ。

「そう言えば、何故ここに来たんだ? 単なる法律事務所でしかないはずだが」

「落書きなのだろうが、表の看板に『霊能弁護士在籍』とあった」

 そう言った途端、女性はこれまでで最も大きな驚きを表すと、わずかの瞬間だけ、微笑とも苦笑ともとれる表情を見せた。

「助けてほしいと言ったな。情報がなさすぎて、今してやれることは何もないが、私の仕事に付き合ってもらおう。ひょっとしたら何かの手がかりくらいはあるかも知れない」

「仕事とは?」

 女性は懐から名刺を取り出すと、表面をこちらに向けた。

「言うのが遅れたな。私はしらがね真珠まこと。相続専門の弁護士だ」

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