理屈屋幽霊

@WhereIsMyShoes

 遠くで鳴ったであろうクラクションの音で目が覚めた瞬間、僅かな違和感を覚えた。目に映るのはなんの変哲もない、ビルの外壁に囲まれた狭い青空であったが、視界が妙に明瞭というか、あるべきものがないというか、カメラを通した映像を見ているようだった。

 そもそも何故私はこんな、僅かながらではあるが饐えた匂いのする路地裏のような場所で横になっているのだろうか。目覚めるまでを全くもって思い出せないが、とりあえずこんな不衛生な所にいつまでも横になっていたくはない。

 上体を起こした瞬間、違和感の理由が判明した。

 私の身体は、少なくとも私には見えなくなっていた。

 手足を動かすことは出来ているように思えるが、全く目には見えず、お互いに触れる感触もなく、意識してみると地面から伝わる感触もなく、衣服を身に着けているかすら分からない。

 感触がないながらも立ち上がるように動いてみれば、視界は確かに移動したので、見えないながら機能はしているようだ。

 横を見るとビルの窓ガラスがあったが、そこにも私は映らず、私の除かれた景色のみがある。

 なんらかの疾患によってこのような状態に陥ったのだろうか。記憶を探るも、直近のことはおろか、過去の一切が思い出せない。

 一般的な知識については問題ないように思えるが、想い出や感情のような、私という主体が介在するものがなく、知識の依拠するところがすっぽりと抜け落ちている。

 そもそも、私は何者であっただろうか。会社勤めをしていたような気もするし、学生だったような気もする。住所や名前どころか、性別すら思い出せない。

 肉体的には触覚と視覚の一部を除いては問題なさそうであるが、とにかく、ここに居ても埒が明かない。

 移動した際の最悪の場合としては、実は私は裸であり、私以外の人間には普通に見ることができ、通報、拘束される、だろうか。それでも正直に話せばそれほど問題はないようにも思う。

 他には私は何らかの療養施設のような場所に居たが、そこが劣悪な環境なために脱走していて、連れ戻されることになる、というのも考えられるか。

 なんにせよ幸せな状況にあるとは言えなさそうではある。


 意を決し、路地裏を出ると見覚えのない街並みが目に入る。

 長く伸びる車道を挟むようにビルが立ち並ぶ景色からは季節もわからないが、幸いにも正面に建つビル外壁のデジタルサイネージには現在日時が表示されていた。特筆することもない初秋の昼下がりである。

 前日の時事について知識としては持っているため、おそらくは私は先程目覚めた時にこの状態となったようだ。あるいは以前からこの状態であるがそれすら思い出せないのかも知れないが。

 街にはそれなりに人や車の往来があり、私の側を通る者もいた。私が裸に見られているのであればある程度の動揺はあるはずなので、最悪の事態は避けられたようだ。

 辺りを見回したが、交番も案内板もないようなので、通り掛かったサラリーマンらしき男性に声をかけようとするも、発したはずの声は音にならなかった。

 仕方なく、サラリーマンの肩を軽く叩いてみる。不思議なことにその感触は私の手に伝わった。彼はやや大げさなほどに驚くと、周囲を見回し、怪訝そうに去っていった。彼の態度から察するに、私の姿は見えていないようだ。

 何人かに同じことを試すも、やはり同様に驚かせるだけの結果となった。彼らには悪いことをしてしまった。

 どうやら私の身体は、私に見えないだけでなく、他者からも見えないらしい。私だけであれば疾患だったろうが、どうもそうでないらしい。

 なんとも奇妙なことになったものだ。私の視界は、私の身体のみが見えず、その他は恐らく正常に見えている。であれば、少なくとも眼球は不透明でなければならないが、それも不可視の状態となっているようだ。眼球のみ可視であれば、先程の彼らくらいの驚きでは済むまい。にも関わらず私に視界があるのは、ここが夢であるからだろう。

 自らの考えに失笑が漏れる。希望的観測も過ぎれば現実逃避である。たしかに夢であればこの状況を受け入れることはたやすいが、残念ながら意識は明瞭である。

 となると、視神経や脳を弄られているのだろうか。現実の私は全く別の場所に居て、脳に電極か何かが刺さっているのかも知れない。シミュレーション仮説だか水槽の脳だか言うんだったか。これでは結局のところ、夢も現実も大差がない。

 まあ、そもそもの現実がそうでない保証もないし、今はこの状況を受け入れるしかない。

 そういえば、先程は人に触れる感触はあったが、相変わらず、自分の身体や地面の感触はない。近くのビルの外壁に手を伸ばしてみるが、間違いなく触れるであろう位置でも、感触はない。

 まさかと思いながらも全身を近づけると、一瞬の暗闇の後、ビルの内部に入ってしまった。

 どうやらオフィスビルのロビーのようで、人の姿もあったが、彼らもやはり私に気付いた様子はない。とはいえ、居たたまれないことには変わりないので、早々に元いた場所に戻るべく壁に突っ込むと、やはりそのまま外に出ることが出来た。

 多少驚きはしたものの、こうなってしまってはあらゆる異常も受け入れるほかない。

 確認のため、周囲にあるガラス窓やガードレール、その他様々な物に手を伸ばしてみるも、やはりそのまますり抜けてしまった。

 ならばと近くの段差に登るように足を動かすと、そのまま段差の上に足が乗る。念の為ガードレールにも乗ろうとしたが、やはりと言うべきか、そちらはすり抜けた。

 私の身体は、地面とそれに類するもの──何を以て類するかはともかく──には触れられるように振る舞うらしい。

 この点については幸運と言えるのだろうか。私に対する地面と重力の影響によっては、目覚めは路地裏ではなく、太陽系の片隅か地球の中心で迎えていたかも知れない。

 それにしても、もはや作為的とも思える状況である。これでは古くからのイメージそのものの幽霊である。

 以前の私がどう考えていたかは不明であるが、今の私の知識からは幽霊の存在など信じられない。信じられないが、自らがなってしまったものは仕方ない。当面は幽霊になったと仮定して、今後どうするかを考えねばなるまい。

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