第2話

「君、最近また顔色が悪くなっていないか」

「そうかな」


 私の全てを見透かすように閃くメガネ。

 きょとんとした表情を浮かべるふたりの小さな私は、言われてみれば少し元気がなさそうな気もする。

 でも当然レンズは鏡にするには荷が勝ちすぎるようで、目の前のコトリがずいっと顔を寄せてくるだけでやっぱり気のせいだったかもと思えた。少なくとも、私に自覚はないのだし。

 けれど彼女はそうは思わないようで、なんとも苦々しげに表情を歪めると周囲に気を使いながら囁いてくる。


「もしかしてまだ吹っ切れていないのか?」

「まさか」


 即座に首を振る。

 そうしてももうとっくに心が痛まなくなったのがその裏付けだ。失恋は痛みを伴うけれど、失ってしまえばもうなにも感じることはないのだと初めての恋で知ることのできた私は幸運だったのだろう。


 そんなことを告げてみても彼女は疑わしそうな表情をするので、もう一度口を開いたところにエビ寄せフライを突き刺してあげた。

 突然の異物に目を白黒させる彼女の反応はとても面白くてついつい吹き出してしまう。次に恋をするのなら彼女のような相手がいいのかもしれないとそんなことを思った。

 心配というのはやはり、するよりもされる方が心地がいい。

 どちらかといえばサクノのことは心配する方が多かったから。


 もちろん、それが親友であるのなら否はないのだけれど。


「まったく、君は本当に心配のしがいがないな。いつもそうやってはぐらかす」

「そんなことないって。気にしすぎ」

「……僕は、君らのことを応援していたのだけどね」

「だから気にしすぎだって。私のエビ寄せの術をもう一度くらいたいのかね」


 ん?ん?と箸でつまんだフライを揺らすと、コトリは素早い動きでそれをかっさらっていく。まるでトンビみたいだ。

 けど、せっかく私の大好物を奪い取って行ったならもうちょっと美味しそうに食べて欲しい。

 そんな不服そうに口を尖らせてるのは冷凍食品への冒涜だ。おべんとに乗っけるだけのお手軽おかずとはいえ、美味しく頂かれるために作られたっていうのに。

 手を出す なら、ちゃんと向き合ってあげて欲しい。


「まあ、そう言うのならいいさ。けれど今度は悩んだらちゃんと僕に相談してくれよ。―――あんな君を見るのは、正直もう二度とゴメンだ」

「ん、了解」


 痛みを堪えるような言葉に神妙に頷いておく。

 彼女の言葉には否とは言いにくい。


 なにせ


私の恋が終わった日、コトリには随分と迷惑をかけてしまった。


 大学生にもなってあれが初めての恋と呼べるものだった私は、あまりにそれに打ち込みすぎて、自分を大事にすることをすっかり忘れてしまっていたのだ。

 そんなときああして心を尽くしてくれた親友の言葉なら、疑うという選択肢もなく素直に受け止めることができる。


『しい……ごめんよ』


―――だからあんなキスのひとつくらい、駄賃とでも思って軽く考えてしまえばいいのに。


 それができないコトリは、あのときのことを思い出すと必ずこうして痛ましい表情になる。本人はそれに気がついていないというのだから不思議なものだ。

 例えば私が心配をかけまいと寝たフリをしていたのだと言えば、彼女はどんな表情になるのだろう。

 もちろんそんなことが出来るのなら、今頃あいつは私のベッドからもう姿を消しているはずなのだけど。


 と。


 そこで不意にスマホが震えた。

 その時点で私はすでにある種の予感を覚えている。というより、彼女が私のおともだちリストに居座る限りそれは毎度のことだ。

 彼女のことを考えてしまったのが良くなかったのだろうか。怪談していると怪異を呼び寄せるとも言うし、彼女は割とそういう類の不気味さを持ち合わせている気がする。

 私の邪な妄想を感知するくらいはできそうというか、なんというか。

 そんなことを思いながらコトリに一言かけて、通知を見ると案の定それは今日も私の家に来るという短い連絡だった。


「なんだ、スパムか?」

「似たようなものかな」


 どうも自然と苦い表情になっていたのに気がついたらしい彼女の軽口に、なんてことないように笑ってみせる。

 彼女は気がついているのだろうか、これがくだらない嘘だということに。

 なんとなくすべて見透かされているような気もするし、私の嘘は案外うまくいっているような気もする。

 きっとどちらにしても同じように、こうして「そうか」と頷くだけで終わってしまうんだろうけれど。

 そんな距離感が、親友にはちょうどいい。


「あ、しー居た。おっすおっすー」

「あれ、サクノ」


 とそこへ、湯気の立つカツカレーを持ってやってくるサクノ。見回してみても連れらしき姿は見当たらない。

 付き合い始めてからは恋人とふたりで食べることが多くなったから、彼女がひとりで混ざってくるのは少し久しぶりだ。


 隣に座った彼女は律儀に手を合わせていただきますをして、安堵したような笑みを浮かべる。

   

「やー、危うくぼっち飯だったわ」

「ひとりなのか?」

「なんか集まりみたいなのがあるんだって」

「そうか」


 頷くコトリがちらりと視線を向けてくるけど、そんなに心配しなくても今更対面したからといってなにを思うでもない。なんなら毎日電話で声を聞いている。

 いやもちろん、親友として仲のいいやつが輪に入ってきたことを喜ばしくは思うけど、それくらいのことだ。


 歓迎の印に最後のエビ寄せフライをカレーに乗っけてあげれば、即座にカレー付きカツとして返ってくる。

 二口サイズくらいのロースカツだ。

 たった三つしかないうちの一つと思えば数は同じでも、カレーの上で仲良く並ぶのを見るとどうにもちゃっちくてとても同価値には思えない。

 けど、まあ貰えるものは貰っておく。

 お返しに、ちょうどお茶を飲み終えたところだったので、持ってきていないらしい彼女の分も注いできてあげた。


 しばしのんびり食事をしていると、カレー味の口をあちあちの緑茶でさっぱりさせた彼女がなにやら神妙な顔つきで私たちを見回してくる。


「んで、ちょいとあっしからふたりに相談があるんでげすが」

「聞こうでやんす」

「集まった途端僕を置き去りにしないでくれ……でごんす」

「かわいーでごんす」

「可愛いごんすね」

「おい貴様ら」


 頬を赤らめるコトリは、そういう所のせいで弄られるのだと気付いていない。

 わたしたちは顔を見合せて笑った。

 久々の対面でもこんな風にくだらないことで笑えたことに少しだけ安心する。

 親友というのはやはりいいものだ。


「聞いてやらないからな、相談とやら」

「おっとお、ごめんごめん、福神漬けで手を打ってくれー」

「まったく。今回だけだぞ?」


 だからそういう所なんだよコトリ君。

 笑みを噛み、それはさておきと話を向ける。


「で、どしたの」

「それがさー、実は来週の土曜が実はノゾミの誕生日だったりしてさ」

「、」


 一瞬反応ができなかった。

 そうだね、と危うく相槌を打ちそうになって、それをすんでのところで呑み込んだから。

 良くも悪くも彼女は少し目立つから、別に誕生日くらい知っていてもよかったのかもしれないと呑み込んでから思った。

 けれどせっかく止めたので、私はさも初めて知ったような素振りで応える。


「へぇ。初記念日?良かったね」

「そそ。でも最近知ったから、運良くシフトも空いてて危な!ってなったよね」

「それはなによりだが、プレゼントの相談でもするつもりか?僕たちに?正気とは思えないが」

「それ自分で言う?いやまあ私も困っちゃうけど」


 あいつが誕生日に貰って嬉しいプレゼントなんて想像もつかないし、自分の貰って嬉しいプレゼントも思いつかない。

 サクノからのプレゼントなら、どれくらい悩んでくれたのかななんて考えるのが楽しいから、なにを貰っても嬉しかったし。


 けれどサクノの相談はそうではないらしく、「やや、それはちゃんと自分で考えたいから」などと可愛らしいことを言って首を振る。

 じゃあなんなのかと訊ねてみれば、彼女はなにかとても言いにくそうに頬を赤らめて、きゅっと目を閉じながらぽしょぽしょ。


「……、……?」

「ビックリするほど聞こえない」

「なにを恥じることがあるのだ」

「うぅ……メッセで送る……」


 取り出したスマホをたぷたぷ。

 するとしばらく使われていなかった三人のグループに通知が来て、その内容を読んでみればなるほどサクノが恥ずかしがったのも頷けた。


 つまり、どうやらサクノは初めてをしたいらしい。


 あれと。

 あれと?

 まあ、見る目がないのは今更だ。というか、そんなのはきっと相談するまでもない。


「別に全裸で押し倒せばいいんじゃないの」

「なっ、ばっ、」

「しい、それでは痴女だ」

「正直友達とセックスの仕方とか真面目に話し合いたくない」

「なぉっ、あ゛っ、」

「確かにしいはこういった話題は嫌いだったな」

「嫌いっていうか、経験ないから聞いててもあんま面白くないし。語るに関しては言うにおよばず」

「まあ僕もアドバイス出来るほどは経験もないが」

「まっ、ちょっ、タイムタイムタイムタイム!待って、恥じらい!恥じらいがなさすぎじゃないふたりとも!?」


 慌てて口を挟むサクノの言葉に顔を見合わせると、彼女は“そんなことを言われても”といった顔をしている。眼鏡に映った私も今回はしっかり分かる。


「いや、中学生じゃないんだから。視界の七割は経験済みだよ多分」

「なんならこの場の三割以上は経験済みだぞ」

「ぁ、……」

「……ひとの情事を勝手に想像して勝手に恥ずかしがるな」


 このテーブルの実に三分の一を占める経験者の一人であるコトリは、しれっとボケがスルーされた上に思ってもみない反応をされたのにやや困り、こほんと気を取り直すと思い返すように視線をさ迷わせる。

 自分のときのことを思い出しているのだろうか。

 いつ別れたかは知らないけど、確か初めて会った高校生のときにはもう彼女がいたんだっけ。

 なんの気なしに見つめていると、ちょっと赤くなって顔を背けられた。


「あー、そうだな……僕の場合は、素直に誘ったな。当時はそういうことに興味もあったし、そろそろしませんか、と。彼女の方も興味はあったようで、あっさりその日のうちに済ませたよ。向こうのご家族はご不在のことが多かったんだ。どちらかというと好奇心が強かったから、なんだかんだふたりでゴムを買いに行ったのが一番緊張した」

「え゛っ、ことりんって生えてるっけ……?」

「しい、僕は彼女とプールに行ったこともあるはずなんだがあれは幻だったのか?」

「キャパシティがいっぱいっぱいなんじゃない?『しませんか』なんて言った時点でもう真っ赤になってたよ」


 今もコトリの下半身の方を凝視してぷすぷすと湯気をあげるサクノ。可愛いは可愛いけど、さすがに少し心配になる。

 よくもまあそんなにも無垢でいられたものだ。

 保健体育の授業とかあったはずなのに……いや、そういえば普通に風邪ひいて休んでたような気がする。なるほど。

 コトリはサクノの視線に落ち着かなさげにもぞっと動き、説明するように言葉を続ける。


「何分初めてだったから、一応そういうことについては調べて、書いてあることに従ったという形だ。雑菌がどうの性病がどうのと書いてあると、さすがに好奇心旺盛な青少年でもビビるだろう。それに割と突然の思いつきだったから、爪を短く、などという意識もしていなかったし。……まあ、箱を使い切ってからは面倒で直接していたが」

「ちょ、ちょ、く、!」

「……なんというか、向こうから手を出されるのを大人しく待っていた方がいいんじゃないか?」

「そうかもね」


 一歩進んでは恥じらいに思考停止するサクノに付き合っていると、長い休憩時間をフル活用してもこの話は終わらないだろう。

 別に私は全然付き合って上げてもいいけど、唯一まともな意見を出せそうなコトリに半ば嫌気がさしているらしいしこれ以上は不毛だ。


 そう思うのに、緑茶を一気飲みしてお代わりを注ぎに行って戻ってきたサクノは多少クールダウンしたからとまだ話を続けようとする。

 この子はそんなにも性に興味津々だっただろうか。

 もしかして今更思春期でもきたのかと顔を見合わせる私たちに、彼女は沈痛な面持ちでぽつぽつと語りだした。


「わたし、ほら、初めての彼女だし、ふたりの言う通りこんなんでしょ?この歳にもなってセ……そ、そういうのに疎すぎるのってさ、相手からしたらやじゃない?」

「なるほど」


 そこまで重々しく考える必要もなさそうな、そんなことか、と拍子抜けしてしまうような理由をずいぶん大袈裟にとらえているものだと思う。

 けれどそれも彼女らしいと言えば彼女らしいように感じて、これはそういう納得だった。


「まあそれなら、それこそ本人に言うべきじゃない?」

「でも恥ずかしいじゃん……」

「いやそれ恥ずかしがってるようじゃそもそも無理でしょ」

「まあ正論だな」

「むぐぐ」


 ぐうの音くらいは出ても流石に反論まではないらしくもそもそと口の中で呟きを転がしたサクノは、かと思えばくわと顔を上げるとカレーライスを掻っ込んでいく。

 自分への言い訳でも一緒に飲み込もうとしているんだろうか。

 そのせいで危うくのどに詰まらせかけてぎりぎりで飲み込んだ彼女がもう一杯のお代わりを必要としたことは語るまでもない。


 それからやっとほっと一息。

 ついてから、彼女は決意に満ちた視線を私たちに向けた。


「分かった!わたし、ちゃんと話す!」

「おー。がんば。今度のおべんとは赤飯かな」

「それは初潮ではなかったか?」

「そうなの?じゃあなんだろ」

「なんにしてもやめろぉー!」


 わーわーと騒ぐサクノもまたからかい甲斐がある。

 こんなことで初夜翌日なんかは一体どうなってしまうんだろうと少し心配だった。恥ずかしすぎて脳が茹ってしまわないだろうか。ただでさえ単位が危ない教科があると言っていたのに。


 少なくとも翌日は全休の日を選んだ方がいいと、それくらいのアドバイスはしておくべきかもしれないなと、そんなことを思った。


 そのとき、突然世界が遠ざかった。


 輪の中からひとりだけあぶれて、ほんの一瞬だけ声が音になる。なんてことのない、会話の中で次になにを言おうかとふと言葉が途切れてその間にふたりの間に言葉が生まれた、そんな些細な間隙を狙って奇妙な納得が舌に触れる。


 ああ、それにしてもそうか。


 彼女は、寝るのか。

 来週の土曜日に。再来週には、もう。

 舌先で転がすそれが溶けだしてしまう前に飲み下そうとして、間違って肺に送り込む。

 おぼろげに気化した納得に、肺が膨らんだ。


―――自問する。


 私は今いったい、誰を、想起したのだろう。

 私の思った彼女・・ははたして、どっちだったのだろう。

 そっと吐き出したため息にはもうその面影はなくて、深呼吸の間もなく届いた声に私はからかうような笑みを向けた。

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