彼女の恋人はうちのベッドで寝てる

くしやき

第1話

『―――あっ、てか待ってもう九時じゃん』

 お決まりのセリフとともに慌てたような声が届く夜八時五十五分。学校から帰った途端に始まってご飯の途中なんかでもだらだらと続けられる声だけの通話は、いつもこの時間になるとかけてきたサクノの方から切断される。

 今日も同じ。

 忙しなく別れの言葉を告げた彼女は私が応えるなりてろれろんと直線1.4kmを去っていく。彼女の声はもう届かなくて、きっと今頃は次のお相手のために慌てて身だしなみなんて整えているのだろう。

 どうせ声しか聞こえないのに律儀なことだった。

 私は軽く深呼吸をする。

 会話中に息をするのが少し苦手だった。吐き出しきれず、吸いきれなくて、自然と肺の中に鬱屈したもやもやが空気中に漂う。だからそれはため息と呼ばれるんだろう。

 溜まったものを全て吐き出してしまえばもうため息とはおさらば出来るんだろうか。

 そんなことを考えても意味はないのだろうけど。

「終わった?」

 きし、とベッドをきしませて、彼女は私ににじり寄る。覗き込む夜空みたいな瞳にはきらきらと無邪気な星が瞬いていて、また少し溜まったものを吐き出す羽目になった。

 きっと彼女に関わっている限り肺には風通しの悪い思いをさせ続けるのだろう。


 訊くまでもなく見れば分かる問いだった。

 だから答えずスマホを置く。

 彼女は嬉しそうに頬骨を目立たせ、じゃれつくように私の胸に顔を埋めた。

 なんという名前だったか、彼女に勧められるままに買った有名なブランドのパジャマはもこもこふかふかしている。きっと彼女はそうして抱き着いた時の心地良さを求めていたのだろうと気がついたのは初めてそれに袖を通した夜だった。

 夏も盛りの熱帯夜。電気会社の収益にずいぶんと貢献したのを覚えている。

 冬でも薄い布を好む私の抱き心地は、だから多分、あまりいいものではなかったのだろう。

 私はあまり脂肪の付きにくい体質らしい。サクノにもよく言われることだ。もっともそれは羨み混じりの言葉で、その度に私は本心からそれを否定する羽目になる。

 きっとサクノみたいにふわふわしていれば、わざわざこんな肌に合わないもこもこを纏う必要も無いのだ。

 ああけれど、手慰みみたいに身体をまさぐるこいつの手の感触を、遠ざけてくれていると思えば少しは見直してやってもいいのかもしれない。せっかくなら、着ぐるみみたいであってくれればもっといい。


「しーちゃんってほんと細いよねー」

「っ、ふ、」


 布地の隙間から差し込まれる細い指。からかうように脇腹を撫でる心地に身が強ばる。

 彼女は目を細めて私の反応に集中しながら執拗に指先で肌をくすぐってくる。彼女からすればそれはほんの些細ないたずらだった。

 けれど何度もそれを繰り返された私の身体は上手く冗談として受け止められない。

 それを知ってか知らずか徐々に興奮していく彼女の熱い吐息が湯につけた風船みたいに肺を膨らませる。吐き出したいのに喉が詰まって、震えに乗じて飛び出るそれはどこか粘り気をもって天井に張り付いた。

 それが雨のように降り注ぐよりも前に、秒速9.3mの電波が最近流行りのアイドルソングになって部屋に飛び込んでくる。

 彼女は私の身体を弄んでいた指先であっけなくそれを受け取り、私の腕を枕に楽しげに笑う。


「こんばんわー。今日も時間ピッタリだね。……えー?うふふ。うん」


 彼女はちらりと振り向いた。

 煽るようにいたぶるように見せつけてくる。

 そこで絶叫を上げられたのなら、こいつの全てを台無しにしてやれるのだろうと思う。

 でもそれは出来ない。

 指をくわえて見つめるだけ、目を閉じて従うだけ、それだけが私に許された全てだった。


「わたしも愛してるよー、さくのん」


 私の親友の恋人は、今日も私のベッドで寝ている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る