第3話
河野臨。
同じ大学に所属する一年生。サクノとは同じ学部。
成績はまずまず。FはないけどSもなくて、Aも片手で数えられるくらいしかない。
見た目は小動物のように無垢で幼気。髪は、出会ったときはロングだったけどいつだったか思いつきでショートカットにして以降そのままになっている。
布を纏うのが根本的に好きじゃないというところは私に似ていて、パジャマなんかは薄地のものを好む。
頻繁に私の家で寝る関係上クローゼットには彼女の私服がいつのまにか増えていて、かと思えばたまに私の服を勝手に着ていくこともあるらしい。正直似たようなブラウスとか着ないと分からないから、その時は似ているなあくらいに思うだけだったりする。
下着はパステルなど薄い色のものが多め。肌触り的に多分かなり高いやつ。
服といい下着といい結構頻繁に新しいのを見るけどアルバイトをしている様子はない。どうも親名義のクレジットカードを持っているようで、好きに使っていいと言われているそうだ。
どこか常識知らずの奔放さからしてお嬢様というやつなのかもしれない。
その割には昼は生協の購買を利用していてお気に入り商品はゆで卵。あとグミとか食感のいいもの。
どうやらカフェテリアの方がお気に召すらしく食堂にあまり来ない。昼食は最近はサクノとふたりで一緒に食べることが多いけれど、それ以前は複数人の女子に囲まれているのをたまに目にしていた。今もたまに。
不思議なことに、彼女は女子ウケがいいのだ。
そして私の親友であるサクノの恋人で、よく私のベッドで寝ている。
理由は訊いたことがない。訊いたところで、返ってくるのはひどく下らない戯言だ。
「ん……しーちゃんおはよ」
ほころぶような笑みが私を見上げる。
おはようと言うには遅すぎる、正午を過ぎごたころだった。
太陽は大忙しで、私の部屋なんかを照らす余裕はないらしく少し薄暗い。薄闇の中で女性を見ると三割増しで美しく見えるというけれど、彼女の場合はむしろ光の下にあると三割くらい魅力を損なうというようなタイプなので、それを直視してもあまり何も感じなかった。
応えず、嫌がらせに明かりを灯す。
そのとたん目頭にのしかかる眩さに目を逸らした。
窓の外の青空よりも、彼女に反射する人工の明かりを見ていられなかった。白妙の彼女は、大学で見かけるのと同じように少し目障りだ。
しぱしぱと瞬きながら
寝相の悪い彼女のせいで押し潰されていた肺が布を透けてくる嫌な熱に否応なく膨れて、胸が詰まってしまう前に吐き出す必要があった。
寝起きの彼女は私の顔をあまり見ない。
パジャマの上に浮かぶ潜り込ませた手の形、シワの寄る布、布を押し付けたときの曲線、持ち上がった裾から覗く少し汗ばんだ肌、そんなものを熱心に眺めていて、ふと思い出したときだけ私の反応を気にする。
まるでそれは生まれて初めて見るものに怖々と触れる好奇心のようにも見えた。
寝る前よりも少しだけ純なその手つきに目覚めていく身体は、だから多分、不純になってしまったものなんだろう。
「いまって、なんじ?」
問いかけるようでいて、私の身体を離れたその手は既に答えを掴んでいる。
応えないでいても彼女は答えを知って、ついでに今朝メッセージの通知が来ていたことにようやく気が付いたらしい。たぷたぷと画面を弄りながら私の腕を枕にした。
嗅ぎなれたピーチローズと寝汗が鼻先を掠める。
今のところ彼女以外から感じたことはないお泊まりの匂い。
うちは少し狭いけれど、ふたりを誘ってお泊まり会でも開こうか。この匂いが、彼女の匂いになってしまうその前に。
そんなことを、つらつらと妄想してみた。
その間にも、長文でしかも連投というひどく読みにくいメッセージにゆっくりと目を通す彼女。
反芻するように何度か文面を読み返し、それからまるでなにも知らない幼子のように無邪気に私を見る。
「しーちゃんってえっちしたことある?」
「……ない」
「よかったぁ、わたしもそーなんだよね」
にへへ、と照れたように笑う彼女が嘘を言っているのか本当を言っているのかは分からない。けれどなんとなく、嘘なんだろうなと、そんなふうに決めつける自分がいた。
「んふふー。そっかー、わたし初めてのえっちはさくのんなんだー」
白々しいとさえ思う私へと、自慢できるおもちゃを見せびらかすような口ぶりで彼女は言う。
実際彼女は私に自慢したくて仕方がないのだ。
彼女にとってはそう労せずとも手に入ったそれが、私の失ったものだとすっかり勘違いしているから。
だから私が反応を示さないと、それだけで彼女は簡単に機嫌を損ねる。
しばらくいたぶるように指先で肌をなぞって気晴らしをしていた彼女は、何かろくでもないことを思い付いて表情を華やがせた。
そのまま馬乗りになって私を見下ろす。
小柄で線の細い彼女の骨ばった臀部が杭のように突き刺さる。身体を動かす気力もない。
「ねえしーちゃん。練習、しよっか」
まるで子供みたいだと思った。
かまって欲しくてちょっかいをかける幼い子供だ。
―――ふと、思い出す。
初めて彼女が私のベッドで寝た日のこと。
あのときも彼女はこうして見下ろしていたはずだ。それともそれは単なる印象なのだろうか。
彼女の冷笑が今では懐かしくすらあった。おぼろげな記憶のどれとも似つかないたくさんの表情を浮かべて彼女は上がり込んできたのだ。
見せつけるように誕生日を辿り初恋だったものでできた鍵を解除する指先は少し不慣れで。指紋認証に慣れる彼女は、果たしてそれをまだ覚えられているのだろうか。
その時私はコトリのことを思い出していたような気がする。ああいや、それは少し後のことで、失ったそこに穴があると思い込んで懸命にそれを埋めようとしていたのだ。
そんな私には突然の訪問への驚愕を選ぶほどの体力はなかったから、手近なところにあった使いまわしの風船細工で感嘆符を作った。
彼女はそれを楽し気に割り捨てて、今となればいつものことと分かる一方的な言葉を私に投げつけてきた。
それは間違いなく脅迫そのものだったけれど、幼い彼女のそれは同時に懇願でもあったのだろう。今ならそれが分かる。
そして彼女は私のベッドを寝床に得た。
ああそうだ、そうだ、そういえば、その時に言っていたはずだ、彼女の家は遠いから、大学に近い私の家がいいのだと。
単純な理由だ。
とても明快な理由だ。
誰だってうっかり納得できるだろう、頭のおかしくて傍若無人な人間が振りかざす理由とあらば疑う必要性すら感じないほどに分かりやすい理由だ。
そんなちっぽけな理由を振りかざしてまで、どうしてお前は私を求めるんだ。
―――
『いいよ』
私は言った。
驚愕に見開かれる瞳は宇宙みたいにきらきらとしている。私は天体観測が嫌いだからそれを地に敷いた。
夜空を見下す感触は悪いものではない。
そんなことをしても自由に呼吸などできないと分かっていたけれど、せめて吐き出したため息でこの小さな新品の風船を破裂させるくらいのことはできるのだと思い込んでいた。
できるわけがなかった。
あのときの風船の残骸は、たとえ穴があったって簡単に埋めてしまえるくらいの山を築いている。
膨らみかけで放置された風船はもうとっくに自分で縮む力もなかったけれどつつけば簡単にしぼみきるだろう。
それらはしょせん色とりどりの塊だ。
それ以上が空虚な幻想でしかなかったのと同じでそれ以下なんてないのだ。結局は無駄だ。
それなのにどうしてわざわざ息を切らせてまで膨らませる必要がある。
そんなことをしたってどうせ意味はないのに。
知っただろう、知ったはずだ。
だから私は恋を失ったのではなかったのか。
―――
「……」
彼女の視線に私は何も応えなかった。
そもそもなにを応えろというのだろう。試みに承諾してみるという下らない思い付きもあったけれど、どうせそうしたところでなんにもならない―――瞬きの向こうでそんな幻想が明滅した。
それはどこまでも現実的な無だった。
私にできることなどここにいるくらいだ。
彼女らは寝るのだろう。
私の知らないベッドで、私の知らない彼女らと。
それでいいだろう、それが全てだ。
私は親友で、そしてベッドを占領されているだけのこと。
結局彼女は抵抗もしない私に不満げに頬を膨らませて、飽き飽きしたように降りた。
自由になっても起き上がろうとはあまり思えなかった。今日は全休で、毎週三連休があるという幸福をしっかりと噛み締める重要な初日なのだ。
そんな私とは違って三限からあるはずの彼女は、不貞腐れてまた私の傍らで目を閉じる。どうやら二度寝することにしたらしい。
もずもずとちょうどいい場所を探す彼女が、結局無意識の自分の本能を信じることにしたようで、私に重なったところで満足げに吐息する。
サボるな。せめてサクノに返信はして。重い、退いて。帰って。
いくつかの言葉を諦めた私はまた灯りを消した。その手が行き場を失って、仕方なく彼女の背に不時着する。見上げてくる彼女を無視するように目を閉じたけれど、まぶたの隙間から飛び込んできた彼女の笑みとも驚きともつかない表情が、夜よりも暗い場所でうっすらと像を結んでしまう。
青空を取り込めば消えるだろうかとぼんやり思って。
目を開くことさえ億劫だったから、やめた。
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