ふさふさしっぽ

 ある日の夜。


 雨が絶え間なく、ざあざあと降っていました。


 空には分厚い雲が広がり、すべてのお星様を隠していました。


 それでも春香はるかは、黄色いレインコートを着て、ニ階のベランダに立っていました。


 見えないお星様に祈るためです。


「マキちゃんが、元気になりますように」


 マキちゃんというのは、春香の幼稚園からの親友で、春香と同じ小学校六年生の女の子です。


 そのマキちゃんは、もうずっと、学校へは来ていません。


 持病の喘息が悪化して、もう二か月も入院しているのです。


「マキちゃんが、はやく退院して、学校に来れますように」


 春香は大切な親友のために、こうして毎夜、星に祈るのでした。晴れの日も、曇りの日も、雨の日も、自分が風邪をひいて寝込んだときも、大好きな親友を思い、祈りました。


 それが春香の、遠くの病院で一人頑張っているマキちゃんのためにできる、精いっぱいのことでした。




 雨が強くなってきました。


 レインコートを着ていても、足や顔が雨に濡れ、春香の体温をうばっていきます。突風が、レインコートのフードを吹き飛ばしました。七月に入ってから、三個目の台風が日本に近づいているのだと、公子きみこ叔母さんが言っていたのを春香は思い出しました。


 このままではまた風邪をひいて叔母さんに迷惑をかけてしまいます。だけど、マキちゃんはもっと辛い思いをして頑張っているんだと思うと、春香はなかなか部屋に入ることができませんでした。


 すると。


「どうして毎晩、祈っているの?」


 どこからか、男の子の声がしました。


「ここだよ、ここ」


 声がする方を見ると、ベランダに置いてあるエアコン室外機の上に、黄色い色のカエルがちょこんと立っていました。


 春香はびっくりして、


「あなた、今しゃべったの?」


 と、思わずカエルに聞きました。すると黄色いカエルは、


「そうさ。僕は星の妖精。君があまりにも熱心に毎晩お祈りするから、お星様に頼まれて、君の願いを叶えに来たのさ」


 そう言うと、春香の肩に飛び乗りました。そして、


「ここにいたんじゃあ、風に飛ばされちゃう。中に入れておくれよ」


 と、飛び出た目をウインクしました。


 春香は実際に起きたことが信じられず、自分の頬をつねってみましたが、どうやら夢ではないようです。それに、なぜ星の妖精がカエルなのよと訝りました。けれどもそれ以上に「君の願いを叶えに来た」というカエルの言葉に心をときめかせていたので、色々な疑問は打ち消すことにして、とりあえず部屋に戻りました。




 そこはこじんまりとした、春香の部屋でした。


 カエルが春香の肩から学習机に飛びうつると、春香はすぐにレインコートをぬいで、濡れた体を拭きもしないで、カエルに詰問しました。


「カエルさん、わたしの願いを叶えてくれるって、言ったよね?」


 もしかしたらマキちゃんを助けられるかもしれないと思った春香は、身を乗り出して、そう言いました。するとカエルはそれを遮るように、


「落ちついて。まず僕はカエルじゃない。さっきも言った通り、星の妖精だよ。これは君と話すためにカエルの姿を借りているんだ」


 さも重要なことのように重々しく言いました。だけど今の春香にとって、目の前のカエルが本当のカエルか借りもののカエルかだなんて、最早どうでもいいことになっていました。


「何でもいいよ。それより、マキちゃんを助けてあげてほしいの。マキちゃん、病気が治らなくて、もう二か月も入院しているの」


「うん。君は優しいね。優しい女の子だ。そしてさびしがり屋だ。だから、君にこれをあげる」


 そう言って、カエルはぴょんと空中で一回転しました。すると、何もなかった空中から、銀色の鍵が出現して、机の上にことりと落ちました。


「わあ、綺麗な鍵。いったいどこの鍵なの?」


「心の鍵さ」


「心の……」


 春香はその銀色の鍵を手に取ると、不思議そうに見つめました。だって、心の鍵なんて、聞いたことありません。鍵はドアや宝箱、日記帳に使うものです。春香の宝箱には、去年の誕生日にマキちゃんから貰ったアロマキャンドルが入っています。宝箱を開けると、火をつけていなくても、キャンドルの甘いにおいが広がるのです。マキちゃんが退院して元気になったら使おうと思って、いつもは大事に大事に、宝箱に鍵をして閉ってあるのです。


 鍵をする……。


 と、賢い春香は気がつきました。


「わかった。マキちゃんの病気に対する不安や心細さに鍵をかけるんでしょう? 病は気からって、よくお母さんが言ってた……」


 カエルは黙って、春香を見つめていました。優しく見つめていました。


「そうなのね? だけど、本当にそれで病気がよくなるのかなあ。病気自体を治すことはできないの? それに、叔母さんに内緒でどうやって病院に行こう……」


「その鍵は、君へのプレゼントだよ」


 突然カエルがそう言った瞬間、春香が手にしていた鍵がくるりと向きを変え、春香の心臓に刺さりました。銀色の鍵は静かに回り、かちりと音をたてました。


「マキちゃんからのね」


 カエルのその言葉を聞いた春香の目から、涙がこぼれます。


「マキ……マキちゃん……」


 春香はそのまましゃがみこんで、親友の名前を呼び続けました。


 すべてが霧のようにかすんでいき、同時に全てが波のように春香に押し寄せてきました。そのショックに浸る間もなく、廊下から激しいノックとともに叔母さんの怒鳴り声が聞こえてきました。


「春香ちゃん? ちょっと、あなたまたベランダに出ているの? 風邪をひいて叔母さんに迷惑をかけないで、少しはお手伝いでもしてちょうだい。もうあなたには、お父さんも、お母さんも、いないのよ。もうわかる年でしょう? 少しは立場を考えてね!」


 きつい冷たい声でした。いつも春香を叱りつけるような調子でものを言うのです。


「ごめんなさい。叔母さん」


 春香は廊下に向かってできるだけ、しっかりした声で返事をしました。叔母さんははっきり受け答え出来ない子は嫌いだと言うのです。


 春香は殺風景な自分の部屋を見渡しました。


 どこにももう、カエルの姿はありません。まるで夢が覚めたかのように、窓の外で雨が激しく降っているばかりです。




 春香は半年前、お父さんとお母さんを仕事の事故で亡くしました。今は遠い親戚にあたる叔母さんの家にあずけられている身です。


 両親が亡くなってこの家に来てからというもの、春香は寂しくてたまりませんでした。


 叔母さんには男の子が一人いて、春香よりひとつ年上の中学一年生なのですが、らんぼう者で、いつも春香のことを「居候」と言って、泣かせます。叔母さんはまるで聞こえない振りをしています。そんなことも、春香には辛くてたまりませんでした。


 そんな春香の味方は親友のマキちゃんだけでした。マキちゃんは自分の病気で大変なのに、いつも春香を慰めてくれました。話を聞いてくれました。


 けれども、そんなマキちゃんもふた月前、入院したきり帰らぬ人となりました。


 春香にはそれが悲しくて、辛くて、苦しくて、とっても寂しくって、とても受け入れられることではありませんでした。マキちゃんはきっといつか退院して、またわたしの隣にいてくれる、そう思いこまずにいられませんでした。


 もうマキちゃんは、どこを探してもいないのに。


「春香ちゃん、ぼうっとしないで! お手伝いしなさい!」


「はあい。今行きます」


 春香は叔母さんの声にせかされて、もうすっかりカエルのことも、銀の鍵のことも、忘れてしまいました。




 一方、空の上では。


 分厚い雲の、もっともっと上の方で、一匹のカエルと一人の女の子が、春香を見守っていました。




「いいのかい?」


 カエルが隣にたたずむ女の子に聞きます。


「いいの。わたし、春香がもう死んでしまったわたしの幻を見て生きていくなんて、耐えられない」


 カエルの隣の女の子……マキちゃんは、きっぱりとそう言いました。


「春香ちゃんにはこれからきっと、辛い日々が待っているよ」


 カエルは気の毒そうに言いました。


「わたし、春香がそれを頑張って乗り越えてくれるって、信じてるから。春香はたしかにちょっと泣き虫で、引っ込み思案だけれど、心は強いんだから。わたしがいなくてもきっと大丈夫」


 そう言って笑ったマキちゃんはどこか寂しそうでした。何かをこらえているかのような、泣き笑いの表情かおでした。


 カエルはそんな顔をする少女にそっと言いました。


「そうだね。春香ちゃんの心の中にあるものを、銀色の鍵でこじ開けたんだ。それは現実を見る覚悟だった。春香ちゃんの心には、たしかにそれがあったよ。ただ、心にがっちり鍵がかけてあって、春香ちゃん自身も気がつかなかった」


 それを聞いて、マキちゃんはようやく安心した顔になりました。


「ありがとう、カエル……じゃなかった、星の妖精さん。わたしのお願い聞いてくれて」


「なんのなんの。君が毎夜地上に向かって空から祈っていたから、気になったのさ。それじゃあ、そろそろ行こうか。天国まで送るよ」


 黄色いカエルはまばゆいばかりの星型の船を出し、少し得意げに言いました。


「これで天国までひとっ飛びさ」


 船が勢いよく上昇すると同時に、分厚い雲が吹き飛ばされて、隠れていた星たちが瞬きました。


 だけどそれは一瞬のことで、家の中にいた春香には分かりませんでした。


 今の春香には大切な人たちを失った悲しみと、辛い現実を受け入れる苦しさしかありません。


 けれども春香の心には、確かに誰かのエールが響いていました。


 それは力強く、とても暖かい確かなもので、知らず春香を勇気づけました。


 叔母さんのお手伝いが終わったあと、雨風激しい窓の外を見つめながら、春香はマキちゃんがプレゼントしてくれたアロマキャンドルに火をつけました。


「わたし、負けないからね、マキちゃん」


 春香は雨や風で轟々ごうごうとうなりをあげる、窓の外に向かって呟きました。


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