ロンギヌスの宿命

hinoichi

第1話

 少年は死の間際だった。


 ぼやけていた意識が少しずつ輪郭を取り戻そうとしているのに、息ができない。何かが喉に詰まっている。


 少年は自身の口内に溜まっていた血を、噴水のように吹き出した。天に向かって唾ならぬ鮮血を吐き、当然返ってくる血に顔を濡らしながら、荒々しく息を吸う。


 自身の血で溺れ死ぬ寸前の目覚めであった。


 脱力しきった四肢を大の字に投げ出しながら、眼前の巨大な円形に切り抜かれた仄暗い空を仰ぎ見て、自分がどこか穴の中にいるのだということを察した。


 ここはどこなのか、ここは一体何なのか、少年は情報が欲しかった。しかし、まずは呼吸を整えるべきだった。身体を動かそうにも喘鳴が絶えず漏れてくる。


 辺りは鼻腔を突き刺す激臭が漂う。血と油が混ざったような強烈な腐臭である。少しでも意識が嗅覚に傾くと餌付いてしまう程の酷さだが、餌付くと同時にまた血の塊が喉元を迫り上がってきてしまう。


 力が入らず小刻みに震える手で口元を覆い、うずくまるような体制に変える。吐いてしまった方が楽だろうかと頭を下げるが、視界が上下逆転したことで映ってしまった光景と腐臭により、いよいよ胃液も血も何もかもをぶちまけた。


 少年は死体の山の頂上にうずくまっていたのだ。


 魔物の寝床にでも迷い込んだのだろうか。


 頭を抱えて記憶を辿ろうとするが、何もわからない。目覚める前の記憶が全くない。


 少年は目の前の地獄にただただ絶望した。


 死体の山とはいっても人の形を留めているもののほうが少ないだろう。


 ほとんどの死体は少年と同じく擦り切れた布を一枚纏っているくらいだが、どれも布地の本来の色は血塗れてわかったものではなかった。死体は内側から破裂したような傷ばかりで、骨が飛び出したり四肢が弾け飛んだりしている様だ。


 その場から動こうと腕を立ててみるが、自分が立つために力を加えた腕がその先の死体を貫き、身体が肉塊に埋もれかけてしまうほどの損傷である。


 ぐちゅ、ぐちゅ、と聞こえてくるのは、おそらく死体が折り重なっているせいで、下方の死体が重みでどんどん潰れていっている音だろう。


 逃げたい。


 少年は心の底から願った。が、腐肉だらけのその場所から身動きが取れない。声を出して誰かに助けを求めるべきかと考えるが、誰かが来ることで事態が好転することは期待できないほどの惨状にいる。


 ここで誰かが来るということは、この惨状を作り出した側の人間が来るということではないのか。


 つまり、自分の力でなんとかしなければならないのだ。


 少年は死体の山の頂上から身を滑らせ、転がり落ちるようにして場所を変えた。しかし、死体の山を下山したとて地面という地面は見えず、今度は血溜まりと肉片による赤黒い海に投げ出されたのだった。


 再度、頭上を見上げるが、血の霧で濁った先にある、灰色の空の淡い光のみがこの穴蔵の微かな光源であるようだ。


 となれば、死体の山を下ったのは選択としては間違っていたのかもしれない。


 出口はあの巨大な穴しかないのである。


 少年は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。しかし、またあの死体の山を登っても、穴までは届く距離ではない。穴の壁面をよじ登るくらいしかできそうなことがなかった。


 少年はふらふらと壁面まで歩き、登れそうな場所が無いかを探した。


 壁面は直方体の石材が不規則に積み上げられているだけのもので、けっして丁寧なつくりではなかった。凹凸が激しい場所があれば、長いロープ一本くらいの高さだ、登れるかもしれない。


 かろうじて壁面の様子がわかる程度の明るさの中を手探りで壁伝いに進むと、一つだけ砂金がついているかのような輝き方をしている石材があった。


 目を凝らして見ると、石を削って文字が刻み込んである。


 ——血族にのみ道は開かれる——


 何の記憶も無い少年には、意味を為さない言葉だった。何かの合言葉だとしてもわかるはずはなかった。


 しかし、少年がその文字を指でなぞった瞬間だった。


 文字が書かれた石材を中心に、辺りの一つひとつの石材が自ら意思を持つように回転しながら左右に広がり、布を切れ目から引き裂いたかのような空間を作り出した。


 まるで巨大な生物が口を開いて待ち構えているような不気味さがある。


 しかし、進む他ない。


 目の前の真っ暗な空間に、恐る恐る、両足まで踏み入る。


 ——刹那。


 視界は砂金が舞うようにきらきらと輝いた。急な光に目を細めているわずかの間に、背後の石材の割れ目もその光にかき消されていく。


 少年は何が起きているかわからず呆気に取られた。


 数瞬で砂金のような光の霧が晴れていく。だが、薄らと視界に広がった光景に、少年はさらに息を呑んだ。


 それは、まるで王族の城の一室のような空間だった。


 十メートルはあろうかという巨大な騎士増がその四角い空間の左右に五体ずつ並び、騎士像が挟む中央には緋色の絨毯が皺一つなく伸びている。


 絨毯の先にはこれまた巨大な、騎士像の体躯に合わせて作られたかのような神々しい玉座が据えられている。


 背後の壁には二本の線が鎖のように絡んでいるように見える紋章らしき印が刺繍された旗が掲げられており、その何者かを象徴するものであるのだろう。


 まさに王のための謁見の間という空間である。


 玉座の上に、片膝を立てて座りながら少年に視線を向ける何者かがいた。絨毯と同じ緋色の外套に身を包んでおり、顔の全てまでは窺い見ることができない。


 少年は絨毯の上に進み、この空間の主であろうその何者かに近づいていく。少年の素足の形に合わせたに血の足跡が絨毯を汚しても、何者かは咎める様子はない。


 そのまま玉座の手前まで進むが、いよいよ玉座に近づくというところには祭壇を意識したかのような横幅の広い階段があり、少年は直感的に、この階段までしか進んではならないのだと理解した。


 この先に踏み入るのは不敬に当たる、そう思わされる威圧感が場に漂っていた。


 少年は立ち止まり、忠誠を誓うかのような片膝をつく姿勢を取った。


「——やはり、何も言わずとも通じるものはあるようだ」


 少年の態度は場に相応しいものであったのだろう。


 その声は意外にも穏やかな女性のものであった。無礼があれば言葉も変わっていただろうか。若くもあるが貫禄と気品を漂わせる声音である。


 外套から覗く白雪のような肌に浮かぶ真っ赤な唇は柔らかい微笑を浮かべ、右目だけ覗いているその瞳は鮮血の如く赤々と輝く。


「同志よ、全てはその身に宿る血の記憶を辿りたまえ。ほら、もうわかるね?」


 言葉の直後であった。


 少年の脳内に、紙芝居のように、断片的な映像が写し出されていく。


 ——フルプレートの甲冑を纏った騎士の一団に単騎で斬りかかっていっている自身の姿。


 ——二足で立ちはだかる狼のような魔物に爪で腹を貫かれながら、魔物の目に自身の拳を突っ込む姿。


 ——市街を空間をまるで瞬間移動したかのように駆け抜け、白い騎士装束の男にとびかかる姿。


 ——自身に笑いかけてくる、女性のものらしき口元。


 全てが一瞬で脳内を情報として駆け巡ったが、少年にはあくまで客観的な映像にしか思えなかった。


 しかし、自身の顔すらわからない少年は、紛れもなくそれらが自身の姿であることは理解した。


 断片的とはいえ、それらは体験として記憶されている感覚があるのだ。


「——さあ、行きなさい。血の呪いを、君が終わらせてくれ」







 少年はまた意識を失っていたようだ。


 ただ、此度の目覚めに息苦しさはない。まるで眠りから覚めるかのような、静かな目覚めであった。


 目に映るのは仄暗い空でも血の赤でもなく、はたまた騎士像が並ぶ王宮の一室のような空間でもなかった。木目の天井に薄汚れたランプが吊り下がった、小さな部屋だった。


 パイプを組み立てただけの簡易ベッドと、鏡台と背もたれの無い丸椅子しかない。


 悪夢でも見ていたのだろうかと、少年は頭を抱えた。しかし、体調に不安なところもない。


 少年は身体を起こしてベッドから立ち上がると、鏡台の上に古めかしい羊皮紙に何やら文字が書いてあるのを見つけた。


 ——神の嘘を暴き、神の悲願を叶えよ——


 誰が書き残したものなのか、名前も宛名もない。自分に宛てられたメッセージとして受け取ればよいのだろうか、と考える。


 何かの役に立つかもしれないと思う程度に思案を留め、その羊皮紙を丸めてコートの胸元にしまった。


 ——ここで、鏡に写る自分の姿を改めて見直した。


 血溜まりの地獄にいた時は、まるで奴隷のように布一枚を纏っているだけの姿であった。


 今は紺のロングコートに、その中はシャツにスーツベスト、パンツにブーツとどこにいっても恥ずかしくはない格好であった。首元にはスカーフまで巻かれてさながら貴族の出の者かのような風貌とも見てとれる。こうなるとハットもあるのではと目線を扉の方に向けると、取手にコートに合わせたようなハットがやはりあった。


 血溜まりの地獄、王室のような空間の二つを経験した感覚は妙に生々しいが、今この瞬間から考えると、あれらはやはり夢だったのだろうと思わされる。


 ——血の呪いを、君が終わらせてくれ。


 だが、あの言葉が少年の脳裏を過ぎる。映像のようにして流れ込んできた、自身を俯瞰した記憶も思い出すことができる。


 きっと、己に課せられた何かがあるのだろうが、まずは情報が欲しいと、少年はすぐに扉を開けて部屋を出た。


 部屋の外は内側と同じく木目の廊下や壁、他の部屋の扉が並んでいたが、部屋と部屋の間の壁面には絵画などの装飾は一切なく、灯をつけるランプが等間隔並んでいるだけである。


 廊下を挟んで左右に五つずつの部屋があるが、一切の物音はしない。少年が居た部屋が並んでいるのだとしたら、ここは宿のようなものなのだろうか。ひとまず外へ、とそのまま突き当たりの階段まで進み、一階へと降りた。


 一階は酒場であるらしく、カウンターのような造りになっており、その中央には老人の姿があった。


 老人はシャツ一枚というラフな格好ではあったが、鼻下に整った髭を蓄え、グラスを磨いている様はずいぶんと風格がある。


 ちらと少年を見やると、


「早い目覚めでよかったよ。毎回、皆に言っているが、選択は慎重にな」


 それだけ言って、またグラスに視線を下ろす。しかし、ああ、そうそう、と言葉を加える。


「街の中心にある聖騎士教会を訪ねたまえ。バルドーという男に会うといい。そこが君の最初の選択になるだろう」


 何かと情報を持っているであろうこの老人に少年は自分のことを知っているのか、何をしなければならないのか、たくさん尋ねたいことがあった。


「何も言うことはないさ。全ては神のみぞ知る。さあ、行った行った」


老人の言葉は少年の心を見透かしていたかのようだった。


 それから老人は少年の方を見ることすらしなくなり、磨いたグラスを棚に戻したりと、少年をまるでいないもののような振る舞いを続けるだけだった。


 言われたとおりにするしかないかと、少年はこちらを見てもいない老人にハットを少し浮かせた挨拶だけして、その場を後にした。


 少年は、聖騎士教会のバルドーという男を目指す。

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