透子さんの夏休み

灰崎千尋

夏の呉

「あのね、透子とうこおばさんってわかる? お父さんの妹の。その透子さんが最近離婚しちゃって、くれのおじいちゃんおばあちゃんに帰ってきてるんだって。だから今度呉で会っても、あんまりびっくりしないでね」


 母さんにあらかじめそう言われていたから、心の準備はできていたはずだった。離婚なんて珍しいことじゃない。小学校の同級生の名字が急に変わったことだってある。たぶん、あの時と同じようにしているのが正解だ。こっちからはあんまり聞き出そうとせずに、今まで通り、ふつうに。

 だけど、お盆にじいちゃんばあちゃんで透子さんを見た時、僕はあいさつも忘れるくらい驚いてしまったのだった。


「おー、しょうくん久しぶりじゃねぇ」


 そう言ってひらひらと手を振る透子さんは、ちょっとゴツめのメガネをかけて、肩にかけたカーディガンの下にぴったりとしたタンクトップを着ていた。生地の薄い短パンから白い脚が伸びて、歩くたびにポニーテールが揺れる。その姿のどれもが、僕の知っている透子さんではなかった。

 それまでの透子さんのイメージは、なんというか、華やかな人だった。いつもきれいに化粧をして、すっきりした服装をして、良い匂いがして、大人の女の人って感じだったはずだ。


「透子、俺ら今日帰るってうたろうが。なんちゅう格好しとるん。翔がびっくりしとるわ」

「何がいけんのん。自分なんじゃけ別にかろうが」


 ああ、父さんの広島弁も久しぶりに聞くなぁ、と僕はぼんやり思った。父さんは、ふだん東京で暮らしている間は標準語で話すけれど、呉に来ると広島弁になる。周りに影響されるんだと言っていた。


「まぁまぁ、とりあえずごはんにしようやぁ。翔、お腹減ったじゃろう。東京は遠いけぇのう」


 奥からじいちゃんがやってきて、僕の肩にしわしわの手を回す。僕はニコっと笑顔を作ってうなずいた。……じいちゃんが嫌いなわけじゃない。ただ僕が、人に触られるのが苦手なだけで、それをじいちゃんに言えないだけだ。






 うちの家族は、父さんと母さんと僕、これで全員。三人で東京の端っこに住んでいる。母さんは埼玉の出身で、そっちのばあちゃん(じいちゃんは僕が生まれる前に亡くなっている)には、定期的に母さんが一人で会いに行ったり、三人で顔を見せに行ったりする。距離が近いから、泊まったりしたことはないはずだ。

 呉のじいちゃんばあちゃんには、夏休みか冬休みのどちらかに泊りがけで行くのがお決まりだった。共働きの父さんと母さんの休みを合わせて取れるタイミングで決行するから、いつもはお盆や正月からずれているのだけど。今回は奇跡的に、それがお盆の真っ只中になってしまったのだ。そしてどうやらそれを、じいちゃんとばあちゃんはとても喜んでいるらしい。




 四角いちゃぶ台にぎゅうぎゅうに並べられた料理を、大人五人と子供一人ではやっぱり食べ切れなかった。座布団はふかふかだけれど、ふだんテーブルとイスで食事しているから正座はしんどい。右足と左足を交互にずらしながら、僕はつい、向かいに座る透子さんの顔をちらちらと見てしまっていた。ところどころくすんでクマの見える肌は、すっぴんの母さんとほとんど同じだ。目の大きさもいつもと違う。僕は化粧の力を改めて思い知ると同時に、透子さんの顔がすっぴんだとしてもそれ以上にやつれているのに気づいて、ようやく「透子さんが離婚した」ということを思い出す。そんな最悪な瞬間に、僕と透子さんの目が合った。「ん? 醤油?」と透子さんに差し出された醤油さしを、僕は尻すぼみの声でお礼を言いながら受け取って、まだ継ぎ足すほどじゃない小皿に数滴注いだ。




 ちょっと古いお風呂に入って、和室に敷いた布団で川の字で寝る。と言っても、父さんはじいちゃんとまだお酒を飲んでいて、母さんはばあちゃんの話し相手になっているから、寝ようとしているのは僕だけだった。三枚並んだ布団の上をごろごろ転がりながら、透子さんは今どうしているのかな、と思う。今日は電車と新幹線とレンタカーと、ずっと座っていただけなのにすごく疲れていた。すぐにまぶたが重くなってきたけれど、ばあちゃんの声が和室までしっかり聞こえる。


「由美さん悪かったねぇ、透子はもうずっとああなんよ」

「いえいえ、透子さん、大変だったでしょうから……少し瘦せましたよね」

「そうじゃねぇ。なんも相談せんと七月にいきなり帰ってきて『離婚した』言うけぇね、うちらもびっくりしたんよ。慰謝料が払われるまではうちにおるつもりらしいんじゃけど、ついでにこの辺で次の相手探してくれたらええのにねぇ。まぁ慰謝料払う側でうてかったわ……」


 ばあちゃんのマシンガントークも相変わらずだ。あいづちを打つ暇も与えない。こんな話をしているのが、透子さんに聞こえていませんように。そう願いながら、僕はゆるゆると眠りに落ちた。






 次の日の朝、いつもよりずいぶん早めに起こされて、朝ごはんだ。焼き魚、卵焼き、みそ汁、漬物、ごはん。お手本みたいな和朝食。おいしくないわけではないのだけれど、正直、朝からこんなに食べられる自信がないし、ばあちゃんのタッパーの匂いが苦手だった。そんなわけでゆっくりもそもそ箸を動かしていると、じいちゃんが思い出したように言う。


「透子、今日は墓参りに行くけぇ朝の内にトウロウうてきてくれんか」

「え、まだ買うとらんかったん?」

「あんまりはよう買うても汚れたり破れたりしたらいけんけぇと思うて。九時からオダ商店が開いとるはずじゃけ」

「んー、まぁええけど……」


 トウロウ、と言うと神社とか庭にある石の灯籠か、どこかのお祭りで川に流すやつしか僕は知らない。墓参りにトウロウが要るというのはどういうことだろう。

 僕がふしぎに思っていると、「ねぇ、翔くん」と透子さんに呼びかけられた。


「一緒に行かん? おさんぽ」


 おどろいて顔を上げた勢いのまま、僕はこくりとうなずいていた。うなずいてから僕は、自分がここから連れ出されたかったのだと気づいた。




「翔くん、何年生になったんかいねぇ?」


 透子さんがポニーテールをぶんと揺らして振り返りながらたずねた。


「小五」


 僕は短く答える。油断するとつんのめりそうになるほど急で長い坂道を、僕たちはゆっくり下っていた。あまり広い道路ではないから、透子さんのうしろをついていく。真っ昼間よりは気温が低いとはいえ、太陽はじりじりとアスファルトと肌を焼く。セミの声がうるさいのは、東京も呉もいっしょだ。


「わぁ、もう小五かぁ。大きゅうなったねぇ……って言われるのも、もう飽きとるよね。ごめんごめん」


 透子さんがうなじの汗をタオルハンカチで拭きながら言う。


「大人はもう老け込むばっかりじゃけぇ、子供が大きゅうなるのを見ると嬉しくなってしまうんよ。ほいじゃけぇもうちょい、言わせとってね」


 そういうものなんだろうか。

 確かに、久しぶりに会う大人みんなが「大きくなったなぁ」と言うのには、小五にもなると少しうんざりしていた。もっと小さいころには、素直に喜んでいた気がするのに。そしてこれくらいのことが気になってしまう自分自身にも、うんざりしてしまうのだ。


「……透子さんも、そうやって言われるの、飽きてた?」

「ふふ、当たり」


 なんとなく尋ねてみると、透子さんはまた少し振り返って笑った。


「だって『大きゅうなったねぇ』に対する正解のリアクションて無いじゃろ? 『そうなんですよー』も『そんなことないですよー』も変じゃし、なんかこう、はにかんでみるくらいしかできんし。まぁでも、そう思いよったあたしですら翔くんに『大きゅうなったねぇ』って言ってしまいよるんじゃけぇ、残念じゃけど子供のみなさんには定型句としてあきらめてもらえんかねぇ」


 透子さんは申しわけなさそうにそう言った。

 透子さんは、ふしぎな大人だ。親はもちろん、じいちゃんばあちゃんとも違うし、近所のおばさんや先生とも違う。近すぎず、遠すぎない。それが僕には心地よかった。

 Tシャツが汗を吸ってじっとりと肌にはりつく頃、ようやく坂道の終わりが見えてきた。これをまた歩いて戻ると思うとゆううつだけど。

 久しぶりの平らな道には点々と家が並んで、その間にシャッターの閉じたお店が挟まっている。もうずっと営業していなさそうな錆びついたシャッターもあれば、「夏季休業のお知らせ」が貼ってあるものもある。僕たちの他に歩いている人はおらず、車が一台すれ違っただけだった。

 その道をさらに進むと、やっと開いているお店があった。くすんだオレンジ色のテント状のひさしに、白い文字で『小田商店』とプリントしてある。


「やっと着いたわぁ。こう暑いと、この距離でもしんどいねぇ。早うトウロウ買って帰らんと茹だるわ」


 透子さんはそう言って、店先の傘立てみたいなものに刺さっている派手な飾りを、一本手に取った。


「それが、トウロウ?」

「ん? そうよ、翔くんは見るん初めて?」


 透子さんはトウロウを少し上に掲げて、くるくると回した。

 僕の身長よりも長い竹の柄の先に、逆さまの三角コーンみたいな形に色紙が貼り合わせてある。青、赤、黄色、緑、目がチカチカするほど鮮やかな色紙いろがみに、金色の飾りや、ゆらゆら揺れる房飾りもついている。


「これが広島の盆燈籠ぼんとうろう。お盆になったらお墓にお供えするんよ。えーと、翔くんは浄土真宗ってわかる?」

「歴史でちょっとやった」

「お、えらい! 広島の浄土真宗の信者を安芸あき門徒もんとって言うんじゃけど、そこだけの習慣らしいわ」

「その……白い方じゃだめなの?」


 僕は色とりどりな盆燈籠の横にある、白と金色だけを使った燈籠を指さした。


「あー、白いのは初盆用じゃけぇ、うちは使えんねぇ。これだけ見ると派手に思うかもしれんけど、灰色一色のお墓にこれがばーっと並ぶときれいなんよ。じゃけぇ広島でお盆のお墓は、肝試しには使えんの」


 透子さんは楽しそうに笑った。でもすぐに短いため息をついて、「ちょっと待っとってね」と、燈籠を買いに中へ入っていった。ドアも窓も開け放たれているので、お店の人との会話は丸聞こえだ。


「あらぁ透子ちゃんじゃー! 久しぶりじゃねぇ。なんか大変だったんてぇ?」

「お久しぶりですー。いやまぁ、今は落ち着いとるんで」

「はぁ今時離婚なんて珍しくも無いもんねぇ。透子ちゃん、べっぴんさんじゃけぇ大丈夫よー」

「はは、ありがとうございますー。じゃあお墓参りしてくるんで……」

「あ、もしかして外の子がとおるくんの息子? もうあんな大きいんじゃねぇ。徹くんにも会いたかったわぁ。よろしく言うといてね」

「はーい失礼しますー」


 透子さんが明らかに疲れた顔をして出てきた。燈籠を肩に担いで「うん……帰ろ」とつぶやくと、元来た道を戻り始めたので、僕はまたその後ろについて歩いた。山登りをするような角度の坂道と身長差のせいで、ジーンズをはいた透子さんのお尻が僕の目の前に来て困ってしまったことは、内緒だ。






 じいちゃんばあちゃんに戻ると、墓参りの準備は終わっていた。呉のお墓には何度か行ったことがある。お寺の墓地とかじゃなく山の上にあるので、水やほうきを持っていかきゃいけないのだ。父さんが広島駅で借りた車に荷物と人を積んで行く。このために、いつもより大きな車を借りたらしい。

 蛇がとぐろを巻くような山道をぐるぐる登る。しゃべり続けるばあちゃんの話は知らない人のことばかりでよくわからないし、僕は車酔いにならないように、窓の外をじっと見ていた。お墓に着く少し手前の道が、僕は好きだった。山の木が完全に空をおおっていて、昼間でも薄暗くて、セミの声がなんだか遠くなって。別の世界へつながっているみたいな道。自分で歩いてみたいけど、いつも車でしか通らないのが残念だった。そこを抜けると、急に視界が開ける。

 山の斜面には小さな段々畑があって、その合間を縫うようにぽつぽつとお墓が立っている。この辺りまで登ってくると、どこからでも海が見えた。潮の匂いや波の音は無くても、空と海の分かれ目はしっかり見える。ぼうっと眺めていたいけれど、まずはお墓のそうじだ。

 父さんとじいちゃんはお墓のそばに生えている木の枝をどうにかするらしい。ばあちゃんと透子さんが墓石と小物を洗う。僕は母さんがほうきで掃いたあとを草むしり。「いつ飲んでもええけぇね」と置いてある大きな魔法瓶には、冷蔵庫の少し苦い麦茶が入っている。僕は大人と同じように首からタオルをかけて、ぶちぶちと草を抜いた。途中からは母さんもいっしょに。目には汗が入るし、麦わら帽子の内側が蒸れて気持ち悪いけれど、黙々と作業をしていられるからいい。ときどき顔を上げれば海も見える。

 ひたすら草をむしっていると、砂利じゃりの中から細いパイプが出ているのに気づいた。引っ張ってみたけれど、びくともしない。


「ああ、それ抜けんぞ。今朝買うた盆燈籠をすところじゃけぇ。あとでいっしょに挿そうの」


 枝を落とし終わって休んでいた父さんが言った。


「翔は覚えてないだろうけど、もっと小さいとき、そのパイプに小石を詰めちゃったことがあって大変だったんだから」


 母さんはそう言うけれど、僕は本当に覚えていなかった。覚えていたら、もっと早く燈籠のことを知っていたはずだ。今までこのパイプに気づかなかったのがふしぎなくらいだった。

 そうして一時間近くお墓とその周りを掃除して、なかなかきれいになったと思う。新しいお花を活けて、お線香を焚いて。最後に父さんが車から持ってきた燈籠を、二人でパイプに挿し込んだ。

 盆燈籠は太陽の下で見るといっそう強烈な色をしていて、金紙の反射が目に痛いくらいだった。生ぬるい風が吹いて、しゃらしゃらと色紙の房飾りを揺らす。


「ほいじゃあ、お祈りしようね」


 じいちゃんの一言で、みんなしゃがんで手を合わせる。手を合わせたけど、何をお祈りするんだかよくわからないから、砂利の上を歩くアリを見ていた。




「この後じゃけど、佐々木さんとこに寄ってくれんかねぇ。ちょっとあいさつしたいけぇ」


 ばあちゃんのこの言葉に、父さんと母さんの顔が少しひくついた。

 

「……あー、でも腹減ったよなぁ、翔。汗いっぱいかいたし」

「ねぇ、ほら、私たち何にも持ってきてないですから」

「そんなん気にせんでえぇんよ。顔見せるんが大事なんじゃけぇ。せっかくお盆に来とるのに」


 ばぁちゃんのこういうところが、僕は苦手だ。父さんと母さんの気にしていることをまるっきり無視してしまう。じいちゃんはこういうとき何も言わない。そして僕はそもそも、知らない人と会いたくない。


「あたし行かんけぇ、歩いて帰るわ。車で行ってきんさい。」


 透子さんの声がスパンとひびいた。ばあちゃんはしばらく黙っていたけど、「まぁ、透子はえぇか」とぽつりと言った。いいんだ。


「翔くんはどうする? あたしと一緒に帰る?」


 これは助け船ってやつだ、と僕は思った。だからすかさず「透子さんと行く」と答えた。




 結局、「とおるは行かんといけんよ。昔あんなにお世話になったんじゃけぇ」ということで、父さんと母さんは佐々木さんとかいう人のところへ車で行ってしまった。お墓には僕と透子さんと、お茶の入った魔法瓶だけが残った。


「もう少し、ここにいてもいい?」


 僕がたずねると、透子さんは「もちろん」と言って、海を向いて座った。その隣に僕も腰を下ろす。


「でもお茶は飲んでね。帽子もかぶっとかんといけんよ」


 釘を差された。僕は仕方なく、透子さんの注いでくれた麦茶を飲む。やっぱり、ペットボトルのお茶より苦い。


「お母さんの麦茶、いつも煮出しすぎなんよねぇ。でも水分補給大事じゃけ」


 喉に冷たい飲み物を流し込むのが気持ちいい分、舌に残る苦味をよけいに感じる気がして、思わず僕は顔をしかめていた。気分をリセットしたくて、思い切り目を閉じてから、ぱっとまぶたを開く。

 山の上から見た町は、おもちゃの家を適当に並べたみたいにバラバラの方向を向いていた。雲一つない空はきれいな水色一色で、それよりも濃い青色の海に、白い波のスジがすうっと入っては消えていく。こうして静かにしていると、風が雑草を揺らす音は波の音に少し似ている気がする。


「ねぇ翔くん、山の方も見てみん?」


 透子さんに言われて、顔を後ろに向けてみる。僕はあっと小さく声をあげた。

 山肌に沿って不規則に並んだお墓には、みんな盆燈籠が立てられていた。生い茂る草とお墓を背景にしたカラフルな盆燈籠は、山がお祭りしているみたいで面白い。人の姿はないのににぎやかで、それでいて、こうして離れて見ると風景になじんで見える。


「これを見るとね、お盆が来たんじゃなぁって思うんよ。なかなかきれいじゃろ。今年はお盆に台風が来んでかったわ。雨とか風で飾りが破れたら掃除が大変じゃし、竹まで飛んだら危ないけぇね」


 そう話す透子さんは、山よりももっと遠くを見ている目をしていた。


ない──広島市内のことね、あっちでは燈籠を飾るところも減ってきて寂しかったんよ。だからそこは、呉に帰ってきて良かったと思うんじゃ」

「……透子さんは、帰ってきたくなかったの?」


 言ってしまってから、失敗したと思った。踏み込みすぎた。だけどなぜだか透子さんには、「翔くんはやっぱりかしこいねぇ」と感心された。


「ここはなんていうか、絵に描いたような田舎じゃけぇ。家と家の距離は遠いのに、人の距離が近うて。あたしが出戻りしたことも次の日には町中みんな知っとって。昔の友達に会うても色々噂されて。お母さんは人の話聞かんし、お父さんはそれを諦めて黙っとるし。それでもあたしには、ここしか帰るところがなかったんよね」


 透子さんが海の方に向き直った。メガネの奥の瞳に空が映る横顔が、悲しそうだけどきれいだった。


「市内に残ることができんわけじゃなかった。なかったけど、なんかもう疲れてしもうたんよ。何もしとうなくて、何も考えとうなかった。じゃけぇあんまり居心地が良うないってわかっとっても、親に甘えてしもうた。相性がええとは言えんけど、こんな歳の娘を世話してくれるだけありがたい話よ。ちょっと今は、何もがんばれる気がせんの」


 僕は透子さんがどうして離婚したのか、詳しいことは知らない。でも、色々と大変だったらしいことは、家族の様子を見ていたらなんとなくわかる。僕が知っていた華やかな透子さんは、すごくがんばっていたのかもしれない。


「ほいじゃけぇね、今はあたしにとって、最後の夏休みみたいに思うとるんよ」


「夏休み」と僕はくりかえした。

「そう、夏休み」と納得させるみたいにまた透子さんが言う。


「最後ちゅうか、ボーナスタイムちゅうか。大人になったら夏休みなんてちょびっとしかないけぇ。翔くんのお父さんとお母さんもそうじゃろ?」


 そのちょびっとしかない夏休みにこうして呉に来ているのを思い出しながら、僕は黙ってうなずいた。


「夏が終わる頃には、いしゃり……お金が入ってくるとえぇなぁって。それまではちょっとのんびりさしてもろうて。そしたらあたし、またがんばれる気がするけぇ」


 そこまで言うと、透子さんは急にバツが悪そうな顔になって「あ、ごめんね、こんな話してしもうて」と僕に謝った。


「翔くんも呉の家があんまり好きじゃない気がしたけぇつい……違ったらごめんね。小学生になんちゅう話をしよるんかあたしは」


 透子さんはなんだかあたふたとしていたけれど、僕はうつむいて、首を横に振った。違ってなんかいなかった。透子さんには伝わってしまっていたのだ。


「……じいちゃんとばあちゃんも、僕がそう思ってるの、わかっちゃうかな?」

「ううん、大丈夫と思うよ。由美さん──翔くんのお母さんくらいじゃないかねぇ、わかっとるの。徹はその辺ニブいけぇ」


 透子さんが麦茶を飲んで、僕みたいにしかめ面をした。透子さんと僕は、やっぱり少し似ている。


「人んのにおい、苦手なんだ」


 僕はぽつりとこぼした。


「呉に来ると、父さんは変にだし、母さんはだんだん顔が疲れてくるし。じいちゃんとばあちゃんがかわいがってくれてるのはわかるけど、なんか、しんどい」


 ひとつ打ち明けてしまうと、ほとんどあふれてしまった。口に出しながら僕は、そんな自分が本当に嫌になる。


「翔くん、えらかったねぇ。でもそんな我慢せんでええんよ」


 透子さんが麦わら帽の上から、ぽんと軽く頭を触った。


「そういうの、言ったことなかったんじゃろう。ありがとうね、あたしに話してくれて」


 そう言われてちょっとにじんでしまった涙を、僕はぐっと我慢して引っ込めた。別に泣くほどつらくはないから。ずっと住むわけじゃないし。少し、しんどかっただけだ。


「今の話、お父さんとお母さんには言わん方がええ?」

「うん。言わないで」


 僕は透子さんの問いに即答した。伝えてしまったら、きっと大事おおごとになる。それに──


「ここは、好きだから。お墓が好きなんて、変かもしれないけど」


 僕が言うと、透子さんはぱあっと笑顔になった。


「良かった。あたしもここは好きなんよ。おんなじじゃねぇ」


 すると透子さんはすっくと立ち上がって「よし、お好み焼き食べに行こう」と突然言い出した。僕がびっくりしていると、大きな魔法瓶のベルトを肩にかけて、もう出発する気満々の様子だ。


「人はともかく、やっぱりこの町は好きなんよね、あたし。生まれ育った景色じゃもん。帰ってくるならやっぱりここなんよ。ほいじゃけぇ本当は、あたしが死んでから入るならこのお墓がええ」


 そんなタイミングで、ぐぅと僕のお腹が鳴った。恥ずかしくて顔が熱くなるけど、うつむくより前に手を差し出される。


「それとね、この町が好きな理由はもう一つ、おいしいお好み焼き屋があるけぇよ。広島の田舎いなかには、コンビニは無くてもお好み焼き屋は絶対あるんじゃけぇ」


 透子さんの手をとって、僕も立ち上がった。途端に、自分がとってもお腹が減っているのに気づいた。そういえば朝ごはん、あんまり食べられなかったんだった。


「呉に来たら、おばちゃんのお好み焼きは食べて帰らんと。いちおう由美さんに食べていいか聞いてみるね。もう、お母さんも徹も気がきかんのんじゃけぇ。今日はうちのお昼、そうめんなんじゃって。あ、翔くんはそうめん好きじゃった?」

「あんまり」

「良かったー。あたしもあんまり!」


 透子さんと手をつないだままだったけど、ふしぎと嫌じゃなかった。この山道を歩いて下るのは初めてだ。あの木の枝と葉っぱでできた大きなトンネルを、自分の足で抜けるのだ。透子さんは僕みたいに、あの場所のことも好きだろうか。そうだったら、とても嬉しい。

 緑のトンネルを抜けた先の町も、透子さんと歩いたら好きになれるかもしれない。僕はお好み焼きと同じくらい、それが楽しみだった。

 目の端でまた、盆燈籠の房飾りがきらきらと揺れていた。





 

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