ドアを開けたら異世界だったので見なかったことにした。

長月十伍

目覚めたら全てのドアが異世界に誘ってきました。

 いい加減お腹が空いたからドアを開けようとしたんだ。するとドアノブを掴んだ瞬間に、ノブから放射状に光が広がっていって、見慣れた琥珀色の木のドアが、どういうわけか真っ白でのっぺりとした色と質感に変わった。


 目を剝きながら恐る恐る、L字型のノブを回してドアを開けた――何と言うことでしょう、ドアの向こうに広がるのは見渡す限りの荒野。砂煙を巻き上げて風がびゅおうと吹き抜け、空を覆う黒々とした雲は時々稲光を纏った。


 そこに、見慣れた廊下は無かった。


 あたしはどうしようかと逡巡する余裕も無く、しばらくその風景を見つめ続けた。いや、視線を投じていても脳は受信した映像を処理しきれていない。

 あ、なんか巨大な爬虫類が登場した。蜥蜴みたいな身体だけど、背中には大きな膜翼を備えている。それをばっさばっさとはためかせながら着地し、周囲を見渡してぐおーんとひとつ嘶いた。


 そしてあたしは、バタリとドアを閉じた。閉じた途端、ドアはいつもの木のドアに戻った。


 開ける、ためにノブを握る。ドアが真っ白に変貌する。

 開ける。開かれた先の異世界の風景は変化していた。今度あたしの目に飛び込んでいた風景は雄大な森の風景で、苔むした地面に緑がかった木漏れ日が降り注いでいる。そこに自宅の廊下は無い。

 閉じる。ガチャリという響きとともに、見慣れた木のドアへと戻る。


 ひとまずそのまま三歩後退して、ベッドにぽすりと尻を落とした。

 考える、という体勢を整えるために腕を組んでみたけれど、そこまで賢いわけでも無いあたしの頭脳はうまく回ってくれない。


 頬を抓ってみる。当然痛い。頭頂部をぽりぽりと掻き、目をごしごしと擦って、もう一度ドアノブを捻って開けてみた。見渡す限りの広大な砂漠が広がっていて、陽炎に包まれてあらゆるものの輪郭がゆらゆらと揺らいでいた。


 ばたむがちゃり――ドアが見慣れた琥珀色に戻る。


 どうしたものかと首を捻る。唸ってみても状況は何一つ改善されないし、刻一刻とあたしの空腹感は高まっていく。

 そして再び腰を落ち着けたベッドの上で、漸く覚醒しきったあたしの脳裏にとても現実的じゃない答えが浮かび上がった。


 これは――――異世界転移だ。


 アニメは好きだ。好んでよく見る。

 ライトノベルも、嵌ったアニメの原作をちょこちょこと買って読んだこともある。

 映画はファンタジーな世界観のものなら見る。邦画よりも洋画が、だから多い。

 それらの知識から、あたしの脳は総合的に「これは異世界転移のお誘いだ」と判断した。


 冗談じゃない。


 面白いとは思っても、異世界に行きたいだなんて憧れはこれっぽっちも無い。あれは自分に関係の無い、全く交わることの無い物語だからいいんだ。現実の疲れを癒してくれるフィクションだからいいんだ。

 あんな世界に飛び込んで、わけのわからないバケモノと戦うとか正気の沙汰じゃないし命がいくつあっても足りない。あたしの運動神経を舐めるなよ? 50メートル走で一桁台だったことなんて無いんだぞ?


 フル充電されたスマホを見てみる。時刻は午前11時38分、仕事が休みの日曜にしては早く起きた方だ。毎週のルーティーンである、土曜の夜更かしを疲れから早めに切り上げたせいか。

 しかし次の瞬間、あたしは思わず「はぁ!?」と声を上げてしまった。やば、お隣さん大丈夫だろうか? 結構な音量ボリュームだったけれど。

 画面の左上、電波状況を伝える表示があろうことか『圏外』となっている。いや、Wi-Fiはどうしたよ? 月額四千円も払ってんだぞ!


 試しにブラウザを立ち上げてみる。立ち上がるが、トップページである検索画面は表示されない。

 数少ない友人にアプリの無料通話をかけてみる。やはり、このスマホに電波は通じていないようだ。


 ……何だ、何が起きてるんだ?


 もう一度ドアを開けてみる。今度は何やら寂れた石造りの神殿? のような風景が目の前にあった。閉じた。


 整理しよう。

 何が起きているのかは分からないけれど、とにかくどういうわけかあたしは異世界に誘われてしまっている。

 冗談じゃない、春先に配属が変わって漸く仕事にも張り合いが出てきたところだし、同じ配属になった同期の同僚といい雰囲気になりかけてるっていうのに……


 あ! ――そうだった。その同僚と、今晩食事に行くんだった。

 くっ、その時に着ていく服を、結局まだ買いに行けていない。そうだ、それがあるから昨晩のルーティーンを早めに切り上げたんだった。

 スマホは通じない、廊下に出るドアは異世界に通じている。

 こうなれば……ベランダから外に出るしかない。


 意を決したあたしは、まずは着替えるためにクローゼットに手をかけた。そして絶望する。


 焦げた色のクローゼットが、指が触れた先から白く変色していったからだ。


 はっと気づき、あたしはクローゼットを開けないままベランダにも手をかけた。

 駄目だ、あたしが開けようとした場所は、触れた傍から皆“異世界への入り口”に変わってしまう。


 辛うじて棚の引き出しは大丈夫だ。あたしの身体が通れないような狭いものはドアとして認識されないということか。


 ドライバーを取り出し、扉の蝶番を外すという暴挙に出てみた。

 行けた! ぐぬぬと歯を食いしばりながら上中下の三か所の蝶番を外してドアを退けたあたしは、起床から三時間後に漸く1DKの自宅廊下に躍り出ることが出来た!


 しかしるんるんで冷蔵庫を開けて、そして絶叫した。まさかそこも“入り口”になるとか思わないじゃんかぁ……


 シンクの下の両開きの戸棚もアウト。そうか、両方開ければ確かに身体入るもんな。

 とりあえずトイレは空のペットボトルもあるし、最悪シンクに上って跨がれば何とかなるか? あー、お風呂はどうしようか……頭はシンクで洗える、身体は……拭くしか無いか?


 戸棚に非常用のカップラーメン類はたくさんある。冷凍庫は生きていて、チンするだけの冷凍食品もたくさんある。

 水道も電気も、ガスも生きている。電波はなぜか届いていないようだけど、どうにか籠城することは出来なくない。


 さすがに玄関は蝶番では外せない。上部にある油圧のアームがどうなっているかの知識が無いからだ。あと、金属製だからたぶん一人では持てない。

 ベランダのガラス戸も、一人で外せる重量じゃ無い。ガラスを割るという選択肢もあるけれど……あくまで最終手段として考えよう。


 入口は多々ある。うっかり入ってしまわないように気を付けなければ。

 今日中にこの現象が収まらなかったどうしようか……そんなことを考えながら、あたしは薬缶ケトルに水を溜めてコンロの火にかけた。考えるよりも先に、この空いた腹を満たさなければ。


 行かない。絶対に行かない。

 異世界になんて、絶対に行ってやるもんか――――!!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ドアを開けたら異世界だったので見なかったことにした。 長月十伍 @15_nagatsuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ