有能な妻〈現代ドラマ〉
細くて、けれどマシュマロのような可愛らしい指から紅葉の葉を取りますと、由美ちゃんはフヘンと声を上げました。その声もまた可愛らしい事と、私は毛布をかけ直します。脱がせた上着のポケットが膨らんでいます。
「由美ちゃん、よっぽど楽しかったのね。ぐずらないでお昼寝したのは久しぶりよ。やっぱりお散歩させるっていいわね」
娘の清乃が静かな声で言い、由美ちゃんを見つめます。結婚して五年目に出来た子どもです。可愛くて仕方がないのでしょう。優しい母親の顔をしています。
「あなたもなかなか寝ない子だったのよ。眠りにつくまで抱っこしたり、おんぶしたりで大変だった。お昼寝してもすぐ起きちゃうの」
私は三十年以上前の事を昨日の事のように話しますと、清乃は少し恥ずかしそうにしました。
「由美ちゃんが寝ている間に、おやつにしましょうか。お茶を入れて来るわね」
私は、清乃と二人で栗羊羹を食べることを楽しみにしていました。羊羹は由美ちゃんには甘すぎます。起きたら子ども用のプリンを与えようと思いました。
「美味しいね、お母さんの栗羊羹、これを食べると秋が来たって思うの」
心から美味しいと言ってくれる事に気を良くして、私はおはぎも作ったのよ、食べなさいとすすめました。
「甘い物っていいわね。なんだか気持ちが落ち着くわ」
清乃はニコッとして言いましたが、私は母親です。一瞬見せた哀しみの表情を見逃しませんでした。
「清乃、あなたは小さい時から辛い事を自分にしまい込んできたわね。けど、お母さんには黙っていても分かるのよ。悩み事があったらいつでも言ってね」
清乃は赤ちゃんがなかなか出来なくて、嫁ぎ先で肩身の狭い思いをしていた時も、グッと我慢していました。今、悩み事なんかないはずだと思いましたが、決めつけてしまうのは良くない事だと思いました。
「……お母さん、あのね」清乃は大粒の涙をぼろぼろとこぼしはじめました。大人になっても幼い頃の泣き顔とちっとも変わらないなと思いました。
清乃は泣きながら、夫のタツヤくんへの不満を話し始めました。最近仕事の帰りが遅い事、電話がかかってくると、自分のいない部屋にそそくさと移動すること、問い詰めると喧嘩になりそうだからと我慢してしまう事を話します。
私はどうしたものかと思案しながら、おはぎを一口食べました。若い夫婦にありがちな問題です。娘夫婦の問題に親が口を出す事はしたくありません。
「……それで、あなたはどうしたいの?」背中をさすって聞くだけにします。
「私が勝手に疑ってるだけだから。義母さんも気がついているみたいなのに、知らんふりをしてるの。夫が浮気をするのは妻が至らないからだっていう目をしてくるの。お母さん、もう限界。携帯を盗み見しちゃおうかな」
タツヤくんの親と同居を選んだのは清乃です。私は言葉を選びました。
「今話した事はあなたの想像でしょう。疑心暗鬼になるのも分かるわ。けれど、夫婦の間で隠し事はダメよ。ちゃんとタツヤくんと話しなさい。辛い気持ちはお母さんがここで聞いて受け止めてあげるから……」
二年前に夫を亡くした私は、今独り暮らしです。清乃が離婚して由美ちゃんを連れてこの家に住んでくれたら、嬉しいなと思いました。しかしそれは親のエゴです。私は、自分の願望が口から出ないように、お茶を飲みました。
「タツヤくんが浮気しているかもしれないって思うのね。不安ならちゃんと気持ちを伝えなさい。真実が分かるまで、お母さんはあなたから話を聞かなかった事にするわ。いい、悩み事はお義母さんに話しなさい」
私は心を鬼にして突き放した事を言いました。清乃を泣かせる婿に問いただしたい。それが母親というものです。しかし、清乃も由美ちゃんの母親です。その事を優先して考えなくてはいけないのです。お義母さんに可愛がられる嫁になって欲しいのです。私は清乃の手を握ります。
「泣きたい時はここに来なさい。涙はここだけで流しなさい。由美ちゃんにとって母親はあなただけなの。由美ちゃんの前では笑顔でいなさい」
無理な事を言っているのは自分でも分かりました。しかし大人の話が分からないまだ幼い由美ちゃんは、表情に敏感なはずです。清乃の笑顔が自分を守ってくれると本能で分かるのです。
「お母さん、聞いてくれてありがとう」清乃はひとしきり泣いて、落ち着いたのでしょう。おはぎを頬張りました。美味しい時の顔も幼い頃のままです。
「お母さんはお父さんと結婚して幸せだった?」
清乃の唐突な質問に私は思わずむせそうになりました。親を揶揄うものじゃありませんよと答えますと、清乃はお父さんからのあの手紙をもう一度見せてとせがみました。
あの手紙とは、夫が私に書いてくれた最期のラブレターの事です。病の床でペンを走らせた夫の姿を想像して、胸が熱くなった最期の手紙です。
「あの手紙はお母さん宛てのものだから……恥ずかしいわ。ごめんなさいね」
夫から私への愛の言葉が綴ってあります。たとえ娘でも読まれるのは恥ずかしいと思いました。お葬式の日、娘宛ての手紙と交換して読ませてしまったのです。
「お父さんはお母さんの事、すごく大事にしていたよね。『お前を女房に出来て俺は幸せだった』って最後の一行───いいな。私もタツヤにそう言ってもらえるかな」清乃はそう言うと、一つ小さくため息をつきました。
「大丈夫よ、清乃。少しずつね。自分が持てないほどの幸せを望んだら溢れちゃうのよ。欲しい物を、少しずつ手に入れなさい」
私は由美ちゃんの上着のポケットから、どんぐりを出しました。由美ちゃんが自分で欲しくて拾ったどんぐりです。ポケットから溢れ落ちない数だけを拾った由美ちゃん。今、欲しい物を自分の身の丈に合わせて手に入れる事が幸せだと思うのです。
いつのまに目を覚ましたのでしょう。由美ちゃがむくっと起きてきました。私はプリンを用意するために台所に行きます。
「……ママ、どんぐり。これママの。これパパの」
由美ちゃんが小さな手で清乃にどんぐりを渡しています。清乃はパパへのお土産にしようねと由美ちゃんを抱きしめます。二人ともとても幸せそうな笑顔です。
秋の日の午後。清乃なら大丈夫だと、私は安堵しました。
『有能な妻は夫の冠であり、恥ずべき行動をする妻は夫の骨を腐らせる』12:4
『本当に賢い女性は自分の家庭を築き上げ、愚かな女性は自分の手で家庭を破壊する』14:1
⭐️Proverbs ⭐️ 星都ハナス @hanasu-hosito
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