そうして7年ほど、東京で働いていたとき、世界恐慌が起きた。最初はアメリカの大手金融会社の破綻だった。それが世界各国に影響を及ぼし、日本でも多くの企業がダメージを受けた。

 近くを歩いていると電気のついていないオフィスやシャッターの閉まった店舗、「閉店しました」の張り紙が目立った。紙での出版をメインにしていた自分の会社にも早期退職のお知らせが回ってきた。自分自身の仕事も、契約が取りにくくなった。こうしたとき、学ぶことは贅沢だと思う。オプションとしての学習教材は贅沢品なのだ。


 そうして、3ヶ月後、私はリストラにあった。


 航に勧められて、高市町役場の会計年度採用の事務に応募した。もちろん、採用になった。この町は少子高齢化があまりにも進んでおり、近隣の町からの合併の話も難航している。そうした町に、とんぼ返りしてくることは異例なのだ。特に県外の4年制大学を出たものだと。どこから広まったのか知らないが、私の親もスーパーで聞かれたらしい。

「さくらちゃん、戻ってきたんだって?」


 会計年度の契約だったが、ありがたいことに契約を延長してもらえた。親や航は気を遣って、市内にある航のアパートで住むことを勧めてくれた。航はどんどん出世して、今では海外からの実習生の受け入れ事業についても参加しているらしい。休日に、Webでの英会話トレーニングを行っているのを見かけた。

 市内から電車で職場まで向かうと、必ずエンジェルスカイが目に入った。高いビル群の建つ市内から、自然があふれる町へ、ガタンゴトンと、どこかずれた音をして電車は向かう。青い空、入道雲、高くそびえる山、その前に不自然な原色のゴンドラ、エンジェルスカイが立っている。そのエンジェルスカイがこの夏で取り壊されるそうだ。

 自分の務める高市町役場復興部は、この夏で取り壊されるエンジェルスカイのラストランに向けて企画を立てていた。最初は市民の乗車無料キャンペーンを計画していたが、エンジェルススカイの取り壊しは老朽化よりも、経費や景観の問題が大きかった。それゆえ、高校生以上の一乗車一律500円キャンペーンが行われた。

「山本さんはこの町の出身なんだよね。良かったら思い出の地に行ってきなよ」

そう言って、部長が無料乗車券をくれた。次の休みは金曜日だった。


 金曜日の午後1時。久しぶりにエンジェルスカイの前に来た。航と来たあのときよりも、明らかにエンジェルススカイは古びていた。所々はがれたペンキ。観覧車の近くには、テントが張られていて、中にははっぴを来た職員がいた。

「いま、くじ引きをやっていてね、良かったらどうかな?」

「くじ引き、、」

「特賞は花月温泉1泊だよ」

 模造紙には特賞から残念賞までの景品が書かれていた。しょうがジャムや町でとれた米など、地域の特産物が並んでいた。結局くじは残念賞で、地域のPRがプリントされた紙が入ったポケットティッシュがあたった。

 ラストランのPRもあってか、親子連れや少し年配のアベックがちらほらいた。午後1時、たくさんの日差しを受けた地面から熱が上がってくる時間。照りつける太陽。聞こえる蝉の声。本当は航と来たかったが、今週は忙しいらしく、わざわざ市内から来てもらうのも申し訳なくて、一人でゴンドラに乗った。来たゴンドラはちょうど青色だった。

 町が見える。私が育った町。出て行ったころよりビルが増えた市内とはうって変わって、あの頃と変わらない低い家が並ぶ町。横に立つ商業ビルはさらに落書きが増え、コンビニの茶色の袋が散らばっていた。高くなるにつれ、蝉の声が遠くなっていく。エンジェルススカイは音楽がない。ゴンドラが動く音だけが聞こえる。高度が上がるにつれ、太陽が支柱に当たってまぶしい。海が見える。北陸新幹線でトンネルを抜けた先に見える日本海は、濁っていて暗かった。でも今は、空と同じくらい青く見えた。視界を町に戻したとき、観覧車に乗ろうとしている列に見覚えのある男の人がいた。航だ。そしてその横には、淡い白色のワンピースを着た女性がいた。違うかもしれない、勘違いかもしれない。だって今日は仕事なのだから。それに彼は私の彼氏なのだから。

 

 気になった。早く下に降りたい。あのときと同じだ。エンジェルススカイが上空にいる時間が長い。町も市内も海もどうでもよかった。私の視点はすぐ下の地面、青色のポロシャツを着た男性と白いワンピースの女性を捉えていた。LINE、それとも電話をしてみる?取り出したスマートフォンで何枚か写真を撮った。音の流れないゴンドラにシャッター音が響く。カシャ、カシャ。いくらズームにしてもぼやけてぶれた2人の写真しか撮れなかった。

 ゴンドラを下りると、500円を払ってもう一度乗った。ちゃんと二人を確かめるために。下ばかりを見た。青色と白色。それだけを頼りに。赤色のゴンドラから降りてきた二人。青色のポロシャツを着ていた男はやはり航にしか見えなかった。二人は商店街に向かって歩いて行く。手は繋いでいなかった。家に帰ったら直接航に聞いてみるべきだろうか。もしも航が認めたら?私はちゃんと怒れるだろうか。航が認めなかったときは?私は彼に問いただすことが出来るだろうか。そもそもあれは航だったのだろうか。今日は仕事のはずだ。どうして女性と来ているんだろう。もしかしたら会社の人かもしれない。私は東京でちゃんと仕事をしていたはずだ。この町の人たちがあこがれるように。都心と呼ばれる場所で、通勤ラッシュに巻き込まれながら、7年ほど必死に働いた。世界恐慌がなければ、この後もずっとこうして働いていたはずだ。世界恐慌が全てを変えた。彼は出世していき、私はドロップアウトして戻ってきた。東京にいたころは彼よりもずっとずっと稼いでいた。それが今では彼の稼ぎに頼っている。住み慣れたこの町でなく、東京で仕事を決めたのは私のちっぽけなプライドだった。そんなプライドも今では燃え尽きそうなろうそくの火のように弱々しくなっている。今年で30歳。私はこの町を離れた11年。私は少しずつ廃れていっていた。この町のように。この町も私なんだ。どこへも行けない。私は彼が好きだ。しかし、私には彼をつなぎ止めておくものがない。

 それから暇があれば観覧車に乗るようになった。何度も何度も。家には見慣れたPOPのはいったポケットティッシュが増えた。しょうがジャムは思っていたよりも甘くなかった。彼にあの日のことは聞けなかった。観覧車に乗ったのは、もしかしたらまた航を見れるかもしれないと思ったから。家にいる航じゃない、外で女と出会っている航に会いたかった。ぐるぐる、ぐるぐる。決められた速度で観覧車は回り続ける。ハッキリとした色のゴンドラ。どす黒い私の心。天国に最も近いこの場所で、私は彼の罪を許せるだろうか。私は、私の醜さをちゃんと浄化させられるだろうか。空に一番近い場所なら、神様は私の願いを叶えてくれるだろうか。このまま、空の色に溶けてしまいたかった。空は広くて、海と空は地平線上で混ざり合う。全ての命の源は海。空に溶けて、また海に戻る。

 

 帰り道、商店街は夏祭りの匂いがした。赤色の提灯が至る所で明かりをつけている。

「山本さん、今日はお休み?」

声をかけてきたのは、経理の仕事でお世話になっている銀行の佐々木さんだった。

「今日は、おやすみなんです。」

「良かったら、金魚すくいやってかない?今、銀行に来てくれた人に無料で1回やってもらってるんだよ」

「あ、じゃあ1回だけ」

ビニールプールの中には赤色や黒色の金魚が泳いでいた。

群れをなして泳ぐ金魚が目に入った。その間にぽいを差し込んだ。金魚をすくうと、ぴちぴちとはねた。手に振動が伝わってくる。私はそれをじっと見ていた。そうすると軽い音を立てて、赤い金魚は水に戻っていった。

 1匹もすくえなかった私に、佐々木さんが1匹好きな金魚をくれた。右手には赤い金魚が1匹、狭いビニール袋の中で泳いでいる。

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