清潔な素肌

柴田彼女

清潔な素肌

 汗をかいたあとの麻衣子は甘ったるい匂いがする。

 若い女特有の、花のような、ミルクのような、そのうえでどこか粉っぽく、円く芳しい香りが誰よりも強く放たれるのだ。

 半袖の運動着を脱ぎ、キャミソール姿になった麻衣子がフェイスタオルで谷間の汗を拭う。背が低く、痩せぎすの身体についた麻衣子の小さな胸は、このクラスで一番幼い雰囲気を漂わせている。きっと麻衣子の薄い肌にはこの水色のレースのブラジャーよりも、コットンのスポーツブラのほうが似合うはずだ。

「雨の日の体育って蒸すからマジ苦手。汗ダクダクだよ」

「だねー。麻衣子、制汗シート要る?」

「ううん、いい。自分の持ってるから。ありがと」

 麻衣子が鞄から安物の制汗シートを取り出し、首や胸元、脇の下などを拭いていく。あまりに安っぽい香料が麻衣子の体臭と混ざり、元来麻衣子が持ち合わせているあの甘ったるい匂いが品のないそれに上書きされる。私は自身の無香料の制汗シートを彼女の視界からそっと消し去る。

「みんなぁ、着替え終わったあー? ドア開けるよー」

 仕切り屋の女子生徒が他の女子たちに向け確認を取る。各々ばらばらに返事をし、仕切り屋とその親しい友人が前後のドアを、窓際の席で着替えを済ませていた女子がひと息でカーテンを開け放つ。夏の雨の生臭い匂いが雨音と共に室内へ充満し、私は麻衣子の肌の匂いをすっかり忘れてしまう。



 自分でいうのもなんだけれど、麻衣子という平凡な少女は、どう足掻いても崇高な私と吊り合わない。私は誰が見ても美しく、艶めかしく、しかしどこまでも清潔な気配を携えた「完璧な少女」だった。

 背中の中ごろまで伸びた傷みのない黒髪と、眉の下で切り揃えられた前髪、薄づきのリップクリームでほんのりと色づいた唇とその下にある小さな顎、細くしなやかな首、発育途中の胸と折れそうな二の腕。セーラー服のスカートの襞から見える小振りの膝は薄桃に染まり、長い膝下は紺色の靴下で隠されている。

 成績は上位二十番から漏れたことがなく、中学時代からずっと運動部に所属し、人当たりがよく同級生に好かれ、教師たちからは常に一目置かれている。現代文学を好み、ピアノを習っている影響で幼いころからクラシックに触れ、しかし流行りの漫画やポップスを嫌悪するようなことは一切ない。誰に話しかけられてもにこやかに対応し、時には冗談を言っておどけて見せ、悲しむべき場面では口角を下げ憤るべき場面ではしっかりと眉を顰める。

 周りの人間が一様に「あの子は自分たちとは違う世界に生きている」と感じ、なおかつ「あの子は自分たちを見下していない」と思い込める人間、それが私だ。

 対して麻衣子は平均的な顔立ちとスタイルの少女でしかなく、学力は中の下だし、どんくさく向上心がない。麻衣子も私も一年のころからバスケットボール部に所属しているが、私は毎回レギュラーであるのに対し、彼女は一度もそうなれたことがなく、悔しがる様子すら見せることはなくいつもコート外で賑やかな応援を送ってくる。

 四歳離れた弟は反抗期らしく、麻衣子は彼から「お前」と呼ばれている。弟の口の悪さに辟易している麻衣子は「ヤバい」と「キモい」と「マジ」と「超」を多用し、琴線に触れるもの全てを「エモい」や「神」という言葉だけで表現する。


 麻衣子といると安心する。

 彼女の短絡的な思考が、その場凌ぎの行動が、我欲を満たすためだけの様々な愚行が、都度私を幸福へと導いてくれるのだ。浅はかで幼稚で稚拙な麻衣子を隣で見守っているだけのことで、私は自身が「完璧な少女」であることを何度でも確認できる。

 たったそれだけの理由で私が麻衣子を唯一無二の親友に選んだことを、麻衣子は知らない。



   *



 いつだって私は私のことだけが世界で一番愛しかった。

 過不足ない肉体も、嫌味なほどに整った顔立ちも、出来のいい頭も生まれ育った家庭環境すら、何一つ私を否定する要素を持ち得ない。どれほど世間を見渡しても、これほどまでに上質な私を陥れられるものは存在しなかった。

 私は、誰を見ても「自分はあの人間より優れている」と感じることができる。

 絶対に揺るがない完璧な世界。その頂点に君臨する、世界で一番愛しい私。

 しかし、私は同時に虚しいとも感じていた。

 愛しい私の生きる完璧な世界は、あまりにも退屈だった。



 高校の入学式の朝は独特の空気が漂っていた。いわゆる「高校デビュー」を狙いたかったのだろう生徒が、期待と緊張が入り混じった顔をして教室に入ってくる。ドアが開くと同時、すでに室内にいたクラスメイトたちは瞬時に査定を開始し、ほんの数秒で当人をランク付けする。上位グループに招かれたものは心から安堵しながら満面の笑みで会話に混ざり、下位と査定されたものはひとり席に座ってそのまま気配を消す。

 先ほど入室した瞬間に、私がこのクラス最上位であることは確定していた。何人かの女子生徒が遠巻きに「綺麗な子だね」と言っている。私は聞こえていない振りをして文庫本を読んでいる。どうせこの人一倍優れた容姿のせいで嫌でも目立ってしまうのだ、入学初日は大人しすぎるくらいでちょうどいい。棘を放つ人間でないことは数日も経てば彼女たちにも充分伝わる。


 麻衣子が入ってきたのはチャイムが鳴るわずか四分前だった。根暗そうな雰囲気を隠そうともしない彼女の顔を見ながら、数人の生徒がわざとらしく笑い出す。早々に親しい間柄になったらしい一組の女子生徒の片方が、もう片方にどうしたのかと訊ねる。ショートカットの女が半笑いで答える。

「いやあ……あの人、藤野さんっていうんだけど。同じ中学の同じクラスだったんだけどさ、みんなから可愛がられてたんだよね。あー、藤野さん高校でも同じクラスなんだなーって思ったら笑えてきちゃった。これはいろんな意味で面白くなるだろうなあ。あはは」

「え? それってあの人が中学で苛められてたってこと?」

「やだやだ! そんな人聞きの悪い……苛めじゃないよ、いじられ面白キャラってこと」

 クラスの雰囲気が明らかに捻じれ出す。暗黙のままに闇深い上下関係が生まれた瞬間の歪さだった。私は斜向かいの席へ縮こまるように座った麻衣子の背に、

「おはよう! ねえ、名前、何ちゃん?」

 鈴を転がすような声で話しかけた。驚いてぱっと顔を上げた麻衣子はゆっくりと振り向き、声を震わせ、

「ふ……藤野、麻衣子です」

「藤野麻衣子さん……麻衣子ちゃん……麻衣子。麻衣子ね。よろしく、麻衣子!」

 私がそういっていつも通りの上質な作り笑顔を見せると、麻衣子は今にも泣き出しそうな顔で笑った。



 誰よりも美しく聡明な私が、誰より親しく関わろうとする麻衣子は、案の定誰からも苛められずに済んでいる。麻衣子は今でも事あるごとにあの朝の話をしてくる。

「あの時はマジ嬉しかったんだあ……こんなにも可愛い子が、私の目を見て、笑顔で話しかけてくれる。挨拶してくれる。無視しない。下の名前を呼んでくれる。どうせ高校でもキモがられるだけなんだろうなあって思ってたから、もう、私の人生超最高になったんじゃん! マジ神だー! ってさあ……」

 私が麻衣子に声をかけたのは、あくまでもクラスの質が下がることを危惧しただけの話だ。低俗な人間が考えた出来の悪いスクールカーストほどくだらないものはない。似たり寄ったりな人間が多少の差分で自身に優位性を見出すなんて、馬鹿馬鹿しくて反吐が出る。万が一麻衣子への苛めで授業が遅れ、そのせいで自然と粗野な人間が増え、学校そのものの評価が下がりでもすれば私の将来に悪影響であることは間違いなかった。どのような手段を使ってでも、私の人生を脅かす要素は早めに摘むに限る。

 この教室内で一番上質な存在である私が常日頃親しげに話しかける麻衣子。麻衣子の扱いかた次第で私に拒絶される可能性が出てくること、そうなれば自身の学園生活に支障が出てくること。さすがのクラスメイトたちも、この流れに気づけないほどの馬鹿ではなかった。


 今の麻衣子はクラスでも人気者の部類だった。勿論その理由は私が常に隣にいるからに他ならない。

 誰よりも優れた私が笑えば釣られたように麻衣子が笑い、麻衣子が笑えば皆が笑う。私が好きなものは麻衣子も好きになり、麻衣子が好きになったものを皆はこぞって求め出す。

 皆を掌握する麻衣子を掌握している私。

 麻衣子を除き、皆はその構造に気付いている。気付いていて、しかし皆はその事実に疑問を抱かないよう自らを洗脳し続けていた。思考を放棄した人間は皆一様に、右倣えでコピーとペーストを繰り返している。このクラス、オリジナルは私だけだ。


「ねえねえ、放課後に図書館近くの喫茶店行かない? 新しいパフェができたんだって! 超うまいらしいんだよねー」

 麻衣子が私を誘う。安物のパフェごときが高潔な私に似合うわけがないと思いながら「いいね」と同調してやる。途端に私たちの周りにいた数人の男女が「自分も行っていいか」と私に訊ねてきて、私が口を開くよりも先に麻衣子が「勿論!」と返答する。鈍感な麻衣子には気づけない些細な罅が入った空気は、誰よりも美しい私が笑顔で「右に同じく!」と呟くだけのことで完璧に補修される。


 不意に開け放った窓から強烈な風が入り込んできて、真夏の雨降り独特の生臭さと同時に、安物の制汗剤と麻衣子甘ったるい匂いを一気に感じ取る。

 何とも言えない三種の匂いが私の鼻腔を満たし、私は笑った振りをしながらそっと口元に掌を宛がい、自らの清潔な素肌の香りだけを嗅ぐ。

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清潔な素肌 柴田彼女 @shibatakanojo

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