チケット

埴輪

チケット

 今でなく、こことは少しだけ違う世界。


 大きな戦争があり、親を亡くした子供達が、それでも元気に生きようとしている世界。


 小さな人形達が、まるで生きているかのように、自由に動き回れる世界。


 そんな世界でも、ここと変わらないものがある。誰かが、誰かを想う、そんな気持ち。


※※※


 ……三十七度八分。体温計を放り投げ、マリーはベッドに身を横たえた。完全に、風邪をひいてしまった。喉も少し腫れている。


 無理もないか、とブロンドの前髪を掻き上げながら、マリーは思う。寒空の下、何時間も、薄着で雨を受けていたのだから。


 だけど、報われたな、とも思う。チケットを手渡した時のウィルの笑顔ときたら! すぐに顔を背けてしまったけれど、それで良しとしようと思うマリーであった。


 それにしても、とマリーは思う。昨晩の出来事は、本物だったのだろうか……と。


※※※


 昨晩、マリーは行列に並んでいた。まだ、雨は降っていなかったが、薄手のワンピースで飛び出してきたのは失敗だった。周りの人は完全防寒……いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた、達人ならではの出で立ち。


 マリーは普段、こんな行列に並ぶような女の子ではなかった。少なくとも、自分のためだったら、絶対に我慢できなかっただろう。


 だが、他ならぬウィルのためだと思えば、我慢も厭わないのがマリーだった。


 ウィルは同じ孤児院で育った幼馴染みだ。出会いは十歳。同い年、そして両親を戦争で亡くしたという同じ境遇もあって、二人は一緒に過ごすことが多かった。


 十四歳になり、マリーは孤児院を出ることになった。マリーは人形用の衣服を手縫いすることが得意で、それ売って収入を得ることができていたので、支援金と合わせれば、一人で暮らせる目処は立っていた。


 孤児院は身寄りもなく、一人では生きていけない子供達のための場所だと考えていたマリーは、今が潮時だと判断したのである。


 時を同じくして、ウィルも孤児院を出ることになった。ウィルは人形技師を目指していたが、まだ資格試験を受けておらず、せめて資格を取るまでは……と職員からも引き留められたが、ウィルは意思を曲げず、結果、マリーとウィルは、揃って退所することになったのである。


 それを内心、マリーは喜んでいた。住まいも近所で、それならいっそ、一緒に住めばいいとすら考えていたが、ウィルは頑なにそれを拒否するのだった。


 そんな二人なので、退所後も交流は続いていくだろうと、マリーは思っていたが、ウィルは試験勉強を理由に引き籠もりがちで、それを邪魔してはなるまいと、マリーも家を訪ねるのは週に三日ぐらいに控えていたが、会う度にやつれ、疲れ切っているウィルの顔を見る度、このままでは壊れてしまうのではないかと心配していた矢先、とある吉報が舞い込んできた。


 機械仕掛けの歌姫として人気のマキナが、この町にやってくるというのだ。


 マキナのことは、マリーもウィルも好きだった。マリーはそのファッションに、ウィルはその造形に、そして二人とも、その歌声が何よりも大好きだったのである。


 コンサートのチケットが売り出されると、マリーも抽選販売に申し込んだが、驚異的な倍率の前にあえなく敗れ去った。


 恐らく、ウィルも応募していだろうが、その後も表情は相変わらずだったので、落選したに違いないと、マリーは悟った。


 当選していたら、気分転換になっただろうなと思うマリーだったが、高額で転売されているチケットを買うつもりはなかったし、そうして手に入れたものを贈られても、ウィルが喜ぶはずもなかった。


 それでも、どうにかならないかと思っていたところ、お得意様から耳寄りの情報がもたらされた。コンサートのチケットが当たる抽選会が、極秘で行われるらしいというのだ。


 その情報を耳にするや否や、マリーはお店を臨時休業にし、ポシェットを肩に提げ、会場に向けて走り出すのだった。


※※※


 ──そして、場面は行列へと戻る。マリーは凍えながら、抽選の時間を待っていたが、一向に抽選が始まる気配はなかった。それでもなお、列を離れる人はなく、ただじっと、その時が来るのを待ち続けていた。


 やがて、雨が降り出した。ぽつぽつと開く傘の花。後先考えず飛び出したマリーには傘などなく、その身を濡らすばかりだった。


お腹も空いたし、お手洗いに行きたい気もする。何より、この寒さときたら……これはもう帰った方が良いという考えが、マリーの脳裏に何度も過ぎった。


 だが、その度にウィルの笑顔が浮かび、もうちょっと、もうちょっとだけと、その場に留まり続けるマリーであった。


 ──ドン。ふと衝撃を受けて、マリーは思わず列の外にたたらを踏んだ。振り返ると、見知らぬ男が列に並んでいた。


 割り込みされたと気付くまで、寒さと疲れで数秒を要したが、マリーは声を上げた。


「ちゃんと並んでください!」


「何って言ってる。俺はずっといたぜ?」


 そんなはずはないとマリーは思ったが、それを後押ししてくれる声は上がらなかった。


「さっさと帰んな。風邪ひくぞ」


 その言葉が優しさから来たものではないことを、マリーは分かっていた。悔しくて、悔しくて、でも、ほっとした自分もいて、それが何よりも、悔しかった。


「いてっ! てめぇ、何しやがる!」


 男が声を上げ、振り返った。


「ああ? 何もしてねえよ!」


「嘘つけ! 今殴っただろ! 俺を!」


「変な言いがかり、つけるんじゃねぇ!」


 突き飛ばされる男。それが引き金となり、殴り合いの喧嘩が始まった。


「逃げるのよ!」


 耳元で声が弾けた。戸惑うよりも先に、マリーは駆けだしていた。……その声色が、とても心地よかったから。


 マリーは雨宿りできそうな軒下に駆け込んで、一息ついた。……は、は、はぁ


「くしゅんっ!」


「大丈夫?」


「……誰?」


 振り返っても、人の姿は見えない。


「ここよ!」


 マリーが下に目を向けると、人形がいた。パーカー姿。銀髪。赤い瞳。マキナだった。


「うそ、本物!?」


「ええ。モノホンのマキナちゃんですよ!」


「どうして──」


「あなた、何やってんのよ!」


 マキナはびしっと、マリーを指さす。


「何って、チケットが欲しくて──」


「それは分かるけど、なんでそんな薄着なの? どうなの? なんなの?」


 度重なる質問に、マリーは腰を屈め、正直に経緯を話した……ウィルのことも含めて。


マキナはうんうんと頷き、顔を上げた。


「愛ゆえに……ってやつね」


「え?」


「あなた、気に入ったわ! これ、焼却処分してやろうと思ってたけど、あげるわ!」


 そう言って、マキナがパーカーの内側からうんしょと取り出したのは、幾重にも畳まれたチケットだった。


「折り目は酷いけど、使えるでしょ」


「これを、私に?」


「あの店さ、抽選とか言いながら、裏でオークションしてたのよ。だから、盗んできた。今頃、大慌てでしょうね! にしし!」


 楽しそうに笑うマキナ。テレビのおしとやかなマキナも可愛いけれど、悪戯っ子なマキナも可愛いなと思うマリーであった。


「さ、早く帰りなさい! その前に、何か温かいものとか……その中、何かないの?」


 マキナはマリーのポシェットを指さす。


「あ、そうだ! これをどうぞ!」


 マリーはポシェットからフリルのついた人形用の服を取り出し、マキナに差し出す。


「マキナも濡れてるから、タオル代わりに」


「私は人形よ? 風邪なんてひかないわ。それに、こんな可愛い服……もしかして、あなたが作ったの?」


「うん! まだまだ修行中だけどね」


「へえ……まぁ、ありがたく受け取っておくわ! あ、今日のことは、くれぐれも他言無用ってことで! じゃあね!」


 そう言い残すと、マキナは雨の中、夜の闇へと走り去って行くのだった。


 ……なんだか狐につままれたような気分のマリーだったが、手の中にあるチケットは紛れもなかった。……はっくしょん!


※※※


「夢じゃなくてよかった」


 マリーはひとりごちる。風邪をひいちゃったけど、目的は果たした。あとは、ウィルが楽しんでくれることを祈るばかりだ。


 ──ただ、一つだけ、懸念事項があった。厄介なことに、それを密かに、望んでいる自分もいて……それが、腹立たしくもあった。


「ええい! もう、寝よ寝よ!」


 布団を被り、目を閉じるマリーだった。


※※※


 ……どうしようかな。


 コンサート会場近くの喫茶店で、ウィルは何度目とも知れない自問をしていた。短い黒髪を、くしゃくしゃと掻き混ぜながら。


 視線の先には、折り目が幾重にも刻まれたチケット……テーブルの上で丹念に延ばしてみたものの、どうしようもなかった。


 ただ、それが偽物だとウィルが疑うことはなかった。どんな方法かはわからなくても、マリーはそれを手に入れ、僕にプレゼントしてくれた……それが全てだ。


 嬉しかった。もちろん、ウィルもチケットの抽選に応募し、落選していたのだからなおさらだ。ただ、気になることもあった。


 チケットを受け取った際、マリーの顔色が悪かったのだ。声の調子も少しおかしかった気がするし、くしゃみも……体調が悪かったことは間違いないだろうが、マリーがそれを見せまいと振る舞っていたので、ウィルも務めていつも通りに振る舞うしかなかった。


 だからこそ、ウィルは悩んでいた。僕はどうするべきなのかと。何度目とも知れぬ溜息。


「どうしたのよ? 浮かない顔をして」


 声に目を向けると、銀髪の少女がテーブルの上に立っていた。フリルのついたドレスとを着こなしているのは、マキナである。


「ひゃっ!」


 ウィルは変な声が出たが、しーっとマキナに合図され、口を押さえて首を巡らせる。幸い、誰も気付いていないようである。


「な、なんで、マキナが──」


「これから私の楽しいコンサートだというのに、溜息とはどういう了見かしら?」


「ご、ごめんなさい……」


「事情があるなら、話してご覧なさい」


 マキナが目を閉じ、じっと耳を澄ませているので、ウィルは口を開いた。


「今日のコンサートのチケット、幼馴染みがプレゼントしてくれたんですけど……」


「女の子でしょう?」


「えっ、どうして──」


「いいから続けて。その大切な、可愛い幼馴染みの女の子が、あなたのためを思ってこの私のコンサートのチケットをプレゼントしくれたというのに、何が不満だというの?」


「……その子、体調が悪いみたいなんです」


「まぁ、無理もないわね」


「え?」


「こっちの話。それで?」


「このままコンサートを楽しんでいいのかなって。それよりも、お見舞いに行くべきじゃないのかなって」


 ウィルはチケットに目を向けた。これは、マリーが僕のためにと贈ってくれたものだ。息抜きをして欲しいということだろうから、マリーの気持ちを考えれば、コンサートを楽しむべきだろうとは思う。そして、コンサートが終わってから、報告も兼ねてお見舞いに行けばいいのだ。それに、僕がコンサートに行かなかったと知ったら、マリーのことだから、きっと……それでも、僕は……


「あの、どうしたらいいでしょうか?」


 目を向けると、マキナの姿は影も形もなかった。……白昼夢だったのだろうか。きっとそうだろう。こんなところにマキナがいるはずもないし、ましてや、マリーの作った服を着ているはずもないのだから。


 ウィルは会計を済ませ、喫茶店を出た。だが、どうするか決まったわけはなかった。刻一刻と、ただ時間だけが過ぎ去っていく。


「うえぇぇぇっんん!」


 ──泣き声。ウィルが目を向けると、小さな男の子が、空に向かって泣いていた。


「だ、大丈夫だよ、まだ時間はあるから!」


「ごめんなさい、私がちゃんと──」


「ううん、君のせいじゃないさ。もう一度、よく探してみよう!」


 ──どうやら、チケットを失くしてしまったようだ。ウィルはとっさに、男の子の両親だと思われる二人に、声をかけた。


※※※


 ……コンサート、始まったかな。置き時計を見ながら、マキナはこほんと咳き込んだ。


 あれから何度も寝ようとしたが、一向に眠りは訪れなかった。ずっと気になっていたからだろう。だけど、もう安心しても──


 ピンポーン。呼び鈴が鳴り、マリーはどきりとした。一人暮らしの我が家に、訪ねてくる人なんて、一人しかいない。やっぱり来てくれたんだ! ……そう喜んでいる自分に、マリーは嫌気が差す。そんなこと、望んでいはけないのだ。自分が望むべきは──


 ピンポーン。とにかく、このままにはしておけない。マリーはベッドから下りると、姿見の前で身なりを整え、ガウンを羽織って玄関へ。ドアノブを掴んだ手が、そこで止まった。一体、どんな顔をして会えば──


 ピンポーン。……ええい、ままよ! 扉を開けると、ウィルが立っていた。


「あ、寝てた?」


「……コンサートは?」


「ごめん、チケットをなくしちゃって」


 嘘だ、とマリーは思った。ウィルは嘘をつくとき、私の目を見ようとしないから。


「それより、大丈夫?」


 ウィルは一転、目を泳がせることなく、マリーの目を見ながらそう言った。マリーは溢れる涙を堪えることができなかった。


「うえぇぇぇぇ……」


「ちょ、ど、どうしたの!」


「ごめんなさいぃぃ……」


「そんな、マリーのせいじゃ……だから、その、何も、泣かなくたって──」


「にぶちんねぇ」


 唐突な声にウィルが目を向けると、マキナがいた。ウィルの肩の上に、喫茶店で見たままの姿で……夢じゃ、なかったんだ。


「嬉しいやら、申し訳ないやら……乙女にはね、泣くしかない時っていうのがあるのよ」


「……マキナ、その服」


 マリーは赤くなった目で、マキナをまじまじと見詰めた。マキナはウィルの肩の上でくるりと一回転、ポーズを決めて見せる。


「似合う? これ、気に入っちゃってね!」


「どうしてマキナが、マリーの服を?」


「貰ったのよ。昨晩ね。彼女、チケットを手に入れるためにね、冷たい雨に打たれながらも、行列にずーっと並んでいたんだから」


 ウィルはマリーに視線を向ける。マリーは頷きながら、目元の涙を指先で拭った。


「チケットはね、マキナがくれたの」


「そうだったんだ……」


「そうだったのよ。そんなチケットをなくしただなんて、嘘でも酷いわよ?」


「それは──」


「彼ったらね、チケットをなくして途方に暮れていた家族に、チケットをあげたのよ。お人好しというか、何というか……」


「それは、渡りに舟というか、そうするのが一番だと思ったから……」


 しどろもどろになるウィルを、マリーはじっと見詰めていた。マキナはそれを横目に、パンパンと手を打ち鳴らした。


「ほらほら、お互いにさ、何か言うことがあるんじゃないの? ほら、言っちゃえ!」


「え? じゃあ、その……ありがとう」


 ウィルの言葉に、マリーは笑顔で応じた。


「ううん、私こそ、ありがとう!」


 見つめ合う二人を見比べながら、マキナは大袈裟な溜息をついた。


「……まったく、そうじゃないでしょ。好きだとか、愛してるとか……ほら、色々」


「マキナ?」


 怪訝そうなウィルに、「これだからお子様は!」と、顔を背けるマキナ。ウィルがマリーに視線を戻すと、マリーは口を押さえて、大きな欠伸をしているところだった。


「ふぁ……何だか、眠くなってきちゃった」


「じゃ、僕はこれで──」


「何言ってるの。さっさと上がりなさいよ」


「え、だって……」


「ゆっくりしていってよ。私は眠っちゃうけど……あ、風邪が伝染っちゃうか」


「いいのよ、そんな気を遣わなくたって。眠りに落ちるまで、側にいて欲しい……ああ、このいじらしい乙女心……」


「そうだ、マキナはどうしてここに? コンサートはどうしたの? まさか、サボり?」


「大丈夫よ、代役がいるから。マキナは一体でやってるわけじゃなのよ?」


「そうなんだ……」


「それより、あなた、人形技師を目指しているって話じゃない? ちょっと、右腕の調子を診てくれる? 昨日、思いっきりぶん殴ってから、調子が悪くってさ」


「僕、まだ試験も受けてなくて……」


「いいじゃない、練習練習。ほら、道具だってちゃんと持ち歩いてるみたいだし。感心感心。ただし、世界一の身体をいじらせてあげるんだから、これで試験に落ちたら承知しないわよ!」


 ──バタンと扉が閉まった。その後、マリーの家で何が起こったのかは、その場にいた二人と一体の人形だけが知る秘密となった。


※※※


 彼はどうすべきだったのか……いや、どうしていても、うまくいったに違いない。


 世界を貫く答えがあるとするならば、誰かを想う心……その一つしかないのだから。

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チケット 埴輪 @haniwa

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