第9話 七条恋歌・急

 キンッ。と、一際高く澄んだ音が鳴り響けば朱里の握った一刀が蹈鞴のそれを跳ね飛ばしていた。余りにも強く男を求めすぎたが故のひと振りは、例え演目の一環だとわかってはいても、朱里にはとてもではないが他人事だとは思えなかった。


 だって、朱里自身がこうまで蹈鞴を望んでいるのだから。


 刀を持って振り続けるだけでは物足りない。いっその事このまま自分に傷をつけて欲しい、彼が振るう全ての太刀筋をこの身に刻んでしまいたいと、そんな風にすら考えてしまう。


 一体それはどれほどの幸福かと想いを巡らせるだけで、演技の熱とは別の火照りが朱里の最も深い部分を優しく撫でる。


『蹈鞴』


 声を出すのはかろうじて堪えた。どれだけ熱に浮かされようとも、舞台上に降り注ぐ冷ややかな光と音の中にいる限り、朱里は一介のタチメとして振舞わなければならない。


 その自覚が彼女の自制となり、自らの中で燻る情動を薄いヴェールの向こうへとかろうじて仕舞いこんでくれている。


 だからこそ朱里は視線を投げかける。自分がどれほど彼の事を想っているのかを、その濡れた視線に込めて見つめるのだ。


 朱里が跳ね飛ばした刀を拾うため距離を空けた蹈鞴。刀を拾い、未だ熱情に浮かされた足取りで舞う朱里を見つめ返すその視線と雰囲気に、朱里は唐突な危機感を覚えた。


 早く彼の元へ行かねばならないと直感が叫ぶ。彼と再び熱を共有しなければならないと、もつれかかる足で舞台を横切る。


 水面が跳ねる。これまで綺麗な波紋を生み出し続けていたそこでは、無遠慮な飛沫が舞う。何かに突き動かされる朱里の内心を代弁するように、水は揺らぎ忙しなく世界を歪める。


 早く、早く、と朱里は自身を急かす。そうしないと彼が覚めてしまうから。


 キン。


 先ほどより静かな音色が、何かが決定的なまでに変わってしまったことを告げる。


 ようやく彼のもとへと辿りついた女が男目掛けて振るった一刀は、刀を鞘へと納める動きで躱されてしまった。


 それを薄い膜の向こう側から見つめていた朱里の瞳から、訳もなく涙が一筋流れた。


   ▼


 観客席に座ったとある女性は苦しげに胸元を掴んでいた。また別の女性はすでに堪えきれなくなった涙にハンカチを濡らしていた。さらに別の女性は隣に座る連れの男性の手を強く握っていた。そしてその男性は、ああはならないと証明するかのように、強くその手を握り返していた。


 彼ら彼女らが見つめる先、舞台上では女が闇雲に振るう二刀のことごとくを、男は受けることもなく、いっそ不気味なほどに冷ややかな態度でやり過ごしていた。


 舞台を見守る彼らには、男にどういった心の機微があったのかは推し量るしかない。各々抱く想いは違うだろう。しかしそんな彼らへと、一様に想像と共感を呼び起こす光景が、舞台上では繰り広げられている。


 劇場に詰めかけた観客たちが、見つめる先の男と女に何を重ね、何を抱えるも、それは彼ら次第。しかし、その男女の行動は鮮烈なまでに見ている者の心へと突き刺さる。


《七条恋歌》


 当代鬼姫の紋の代名詞と言ってもいいその演目は、名も無き男女の移ろいゆく恋情を題材にした珍しいものだ。


 タチメの刀舞いはその由来もあってか、舞台上で男を表現することはほとんどない。例えそうした演目が存在したとしても、男役の心情をこうも痛烈に見せることは稀だった。


 だからこそ蹈鞴のように舞台の上で男を表現し、尚かつ毎年多くの人に求められる演舞を行う者など他には存在しないのだ。


 故に多くの人が《鬼姫の紋》に期待を寄せるのだろう。南方随一と謳われる朱里と、その相方である蹈鞴が魅せる舞台が一体どんな結末を迎えるのか。


 それは、今この時も変わらない。


 ある人は涙を流しながら、またある人は唇を噛み締めながら、時に胸元を苦しげに抑え、時に喉の奥から込み上げてくる嗚咽をこらえ、じっと舞台に見入るのだ。


 そしてそんな観客たちが見つめる先で、男女の睦事は加速し、ひとつの形へと収束していく。


 もう恥も外聞もない。そう言わんばかりに二刀で持って男に迫るも、そんな女を鬱陶しがるように男は全てを躱してしまう。


 そして遂に男は愛想を尽かしたのか、女へと背を向ける。あれほど激しく切り結んだのは、もう昔の事だと告げるその背中は、今にも舞台からすら立ち去っていきそうでもある。


 そんな男の視界に女は居ない。


 その目に何を映しているのか、その顔はどんな表情を浮かべているのか。それすら背を向けられた女にはわからない。


 余りにも無情なその去り姿に、これまで振るわれていた二刀もだらりと垂れ下がる。先程まであれだけ熱っぽく振るわれていた刀が、今は本来の硬質さと冷たさを取り戻していた。


 そうして行き先を失った鋒はもう振るうことはないとばかりに、鞘へと納まっていく。まずはただただ重たいだけの刀をしまい込む。そして次いで小太刀を……。しかし、女が小太刀で鯉口を切ったところで、その流麗な所作に淀みが生まれた。

鞘へと当てられた小太刀が微かに震えている。その刃紋が彼女の心を代弁するように、月明かりを照り返していた。


 言葉はない。しかし、小太刀を握った手も動きを止めたままだ。垂れる前髪の狭間から女が見つめる小太刀。だってそれは、彼が最初に触れたものだから。

全てはここから始まったのだ。


 だからだろうか、その刀身には女の躊躇いと悔恨と、そして背を向けられてもくすぶる恋情がはっきりと刻まれていた。


 だからだろうか、去りゆく後ろ姿へ女は一歩を踏み出した。抑えきれない感情に突き動かされた彼女の歩みは酷く不格好でみっともない。しかし、今やその目に男しか映していない彼女には、そんな自身の姿を省みる余裕すら存在しなかった。


 女は勢い任せのままに、男の背へ手にした小太刀で一文字を描く。


 皮一枚。


 それが女の手にした小太刀が男に付けた傷だった。


 余りにもささやかで、小さな傷。ともすれば血の一滴すら流れないのではないかと思ってしまう傷は、女にその鮮烈な赤さを見せる代わりに、男を振り向かせた。


 その瞬間、女の全身を最後の熱情が支配する。


 大きく踏み出し、男の眼前へ。振るった小太刀は男に刀を抜かせた。至近距離で交差する刀と小太刀。


 それは口づけ代わりの鍔迫り合い。


   ▼

 


 演舞終盤、《七条恋歌》は最もやわらかな局面へと至っていた。振り向いた男と、振り向かせた女は二度と離れないために、互いを溶かし合いひとつのものへとなっていこうとする。


 そこで朱里はこの世のものとは思えない幸福を噛み締めていた。交わる太刀筋と優しい斬り結びがゆっくりと朱里の内側を満たしていく。


 これまで長い時間を舞い続けてきたにも拘らず、些かも衰えることのない蹈鞴との最高潮。呼吸は熱く、身体は火照る。頬は上気し、瞳は潤む。


 そして、朱里の身体へとたった一筋だけ刻まれた蹈鞴の太刀筋が最も存在を誇示するのも、この局面だった。


 かつて、まだ出会って間もない頃に起きた不慮の事故。流れる血の鮮やかさと、傷に点った燃える炎に快楽を覚えたあの瞬間、朱里は堪らなく生の実感を得たのだ。


 それは脳髄が痺れる程の甘さを朱里に与え、高鳴る鼓動と、冷えていく指先を感じながらの暗転は、何よりも安らかなものとしてそこにあった。


 そして今、あの時の甘さには及ばなくとも、それに近しいものを朱里は感じていた。


 命の雫を滴らせ、魂を熱情にくべるこの舞台だからこそ得られる。世界中でただひとり蹈鞴だけが与えてくれる。だからこそ蹈鞴が愛おしい。朱里が欲してやまないものの根源を詳らかにし、今尚その近くまで連れて行ってくれる蹈鞴が愛おしくて堪らない。


 朱里自身の輪郭を象る感情。今すぐにでも腰砕けになってしまうのではないかと思うほどの渇望を宿し、朱里は刀を振るう。


 そうして、ただひとり愛おしく想う者へ、欲しがりな朱里は求めるのだ。


 もっと、と。


  ▼


 間もなく演目は終了する。


 蹈鞴は最後の一瞬、再び忘我の境地へと落ちていた。しかしそれは演舞冒頭の変容とは違う心地よさの中にある。自らの限界に手をかけた時にのみ訪れる空白が蹈鞴を染め上げている。


 そこは、残り数小節分となった舞いを完遂させられるのかすら怪しい場所だ。最早何かを考える余地などなく。ただまっさらな地平に蹈鞴ひとりが立っている。


 そこに孤独はない。


 そこに寂寞はない。


 そこに不安はない。


 天国にも近い地平にそうしたものはなく、ただ存在しているという純粋さがあるのみだ。


 そしてそれこそが蹈鞴が今得られる全てだった。


 蹈鞴の刀舞いはこれより先へ進む方法を未だ得ていない。遥かな地平が目の前にあろうとも、彼の中に次の一歩を踏み出す術がなかった。


 しかし今はそんな事すらどうでもよくなる心境にある。


 それで、よかった。

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乙女の群像劇は百合模様 藤宮カズキ @fujimiyakazuki

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