第8話 七条恋歌・破

 《鬼姫の紋》と言えば《七条恋歌》。


 そう口の端に登るぐらい定着した演目であるが、それに対して朱里は否やと首を横に振る。男女の移り変わる恋情をここまで表現しきれるのは、《鬼姫の紋》だからではない。


 朱里と蹈鞴だからだ。


『だって、私以上に蹈鞴を愛おしいと思っている人は居ないから』


 それが朱里の根拠であり、《七条恋歌》が二人の舞いであることにこだわる理由だった。


 蹈鞴の事を愛おしく思っている。世界中の誰よりも。


 それは《鬼姫の紋》の看板を背負い《桜刀祭》の舞台で演舞を披露することよりも、南方随一のタチメと声高に叫ばれる事よりもずっと強く、朱里の内心をくすぐる。


 そしてそんな朱里だからこそ、蹈鞴と舞う《七条恋歌》をこれ以上ない高みに押し上げられる。誰よりも蹈鞴を愛する者として今この場で、蹈鞴を愛していると手にした刀に想いを宿し振るうことが出来る。


 それが、朱里なのだ。


 演目は進み、展開は移りゆく。初めの出会いを経て、朱里と蹈鞴は優しく、時に微笑ましくなる交錯の中に心を置きながらその関係を深めていく。時に刀で、時に小太刀で、拙い斬り結びを重ねていく。


 不器用なその触れ合いは相手を気遣っているようでもあり、同時に自分の事を知って欲しいけれど、うまく踏み込みきれないもどかしさも孕んでいた。


 朱里は小太刀を鞘に納め、両手でしっかりと刀を握り締め、色恋と呼ぶには余りにもたどたどしいやりとりへとその身を投じていた。


 甘酸っぱい切り結びこそを楽しむかのように、踏み込み、身を引き、相手に合わせようと一歩踏み込んではお見合いし、苦笑い。優しさと微笑ましさが混在した時間が過ぎていく。


 奏楽刀衆の奏舞いはそんな二人を見守るように、時には川のせせらぎを、また時には小鳥のさえずりを彼らの頭上から降らせていく。


 振るわれる指揮刀も穏やかな一方、法力刀だけが小刻みに、しかし激しさのない軽やかで楽しげな演舞を披露する。それが出会ったばかりの男女の鼓動だと言わんばかりに、今が夜であることすら忘れそうになるほど朗らかな情景に、舞台桜は染まっていた。


 いつまでも続くかのように思われた羨ましくなるやりとりも、唐突な場面転換を迎える。


 これまでのもどかしさを払拭するかのように、蹈鞴が一歩大きく踏み込んで来たのだ。刀を振るうほどの間合いがない中、朱里は左手に持つ小太刀で彼の太刀筋へと、丁寧に自分の太刀筋を交えていく。蹈鞴もそれに応えるように、刀は手に持ったまま、左手に小太刀を握り朱里のそれと切り結ぶ。


 小刻みに、しかし激しくなる交錯は楽隊舞台にも転調をもたらしていた。大きく寄せては返す波のようだった指揮刀は、痛みすら覚えるほどに激しく振るわれる。


 舞台場を目まぐるしく切り結ぶ男女の後ろでは、それを助長する法力刀の演舞があった。


 どちらが振るいどちらが受けているのか、どちらが求めどちらが応えているのかわからなくなるほどの激しい切り結び。それを披露する二人の表情もまた、自分たちの演技の凄まじさをそのまま映し込んだかの如く赤く火照っている。


 互いにもっとさらけ出せと求め合い、互いが深く繋がることを望んで愛し合う。硬質なはずの刀同士の触れ合いにすら、炎が点ったかのように熱く、熱く燃え上がる。


 間合いも何も関係ない。大小どちらを振るっているのかも関係ない。ただその熱さに身を委ねた男女のやりとりには、理性がなく、熱情のみが存在した。


   ▼


 違う。そんな警鐘がはっきりと蹈鞴の意識を揺るがした。


 それはここ数ヶ月の練習でも聞こえていたものだった。描かれた太刀筋が虚空へと消える瞬間、跳ねる足先が宙へと飛び上がった瞬間など、演舞の狭間で鳴り響く、自らを忘我の境地から揺り起こす呼び声だった。


 違う、と誰かが唱える。


 何が、と思うも、蹈鞴の意識が捉えるのは、違う、と叫ばれる声だけだった。何が違うのか、あるいは誰かが違うのか、それともどこかが違うのか、それすら蹈鞴にはわからない。


 ただ頭の中で、胸の内で響くのだ。


 違う、と。


 まるで泣き喚く幼子のように延々と繰り返し聞こえる声に、意識を差し向けると、ふとした瞬間に気が付くのだ。


 蹈鞴の中にあった憧憬の景色が失われていることに。


 いつもは演目が進むごとに、舞台へと没入していけいくほどはっきりと見えてきていた。それが今目を向けた先では白い靄が揺れ動くだけで何も見通せない。


 違う、とまた叫ぶ声が聞こえた。


 そして蹈鞴の意識が浮上し切る直前には、最もはっきりとした声で、ここは違う、と自らが立つ場所を否定するのだった。


 ふと我に返った蹈鞴は自分が今、桜ノ劇場で舞っていることを自覚した。

街中でも十分に美しい水面はさらに清らかで、舞台中央で花弁を散らすトワノヨシノは自らの存在を大きく主張している。


 いつもの舞台に比べて、余りにも早すぎる現実への復帰だった。


 耳に入ってくる奏楽刀の音からするに、演目は中盤に差し掛かっている。


 すでに場面転換を迎え、先程までの優しげな男女のやり取りはない。今ここで展開されているのは、感情をぶつける事に尻込みしない燃え盛る男女の交錯だ。


 楽しみも悲しみも怒りも、その全てを相手に対して遠慮せずにぶつけ合う二人の立ち居振る舞いは、目まぐるしいの一言に尽きる。


 女が抱き、男も呼応した苛立ちを表現する奏楽刀が激しく打ち鳴らされ、かと思えばまた別の奏楽刀が心に染み入る哀しげな音色を奏で、彼らの心情が持つ表裏を露わにする。


 息つく間もない展開と、見ている者にすら感情の起伏を促す奏舞いに、舞台上だけでなく、月明かりが降り注ぐ桜ノ劇場全体が熱を帯びていく。


 そして、蹈鞴はその中で刀を生み出す炎を幻視した。


 赤に橙、どこまでも熱く燃える炎。火花を散らし、清らかな月光を押し返す昼間の如き輝きを持って蹈鞴を焼く。それは何も舞台ばかりではなく、橋板や楽隊舞台で演舞を披露する後ろ刀の面々や、果ては客席までもが、影法師となって陽炎の中を舞い踊る。


 現実感を取り戻してしまった蹈鞴にその炎へと抗う術はない。熱波に煽られるように、求めらるまま、情けなくとも舞い続けるしかない。


 全てが薄いヴェールに包まれぼんやりとした世界の中、ただひとりその姿を影に浸す事なく舞台に太刀筋を描く者がいた。


 朱里だ。


 揺らめく炎の中でも彼女のくすんだ赤髪は紛れたりはせず、朱里の流麗な所作の中で揺れる小袖は、そこに描かれた桜共々一片たりとも燃えずに、火の粉と一緒に舞い散る。


『蹈鞴、もっと』


 影法師に落ち込むことのない彼女が、蹈鞴へと求めているのがよくわかる。


 朱里は熱情の化身となって蹈鞴の前にいた。


 これが私なのだと、そう叩きつけてきていた。


 蹈鞴はそんな朱里を目の当たりにして、素直にすごいと思った。こんな風に自らを晒せる人間などそうそういない。それはタチメとして舞台に立っているからよくわかる。


 ここまで恥ずかしげもなく、さりとて決して開き直ったわけでもなく、自らの魂の輪郭を象っている人間が一体どれほどいるのだろうか。


 朱里が南方一のタチメとして絶賛される理由がよくわかった。そしてそれと同時に、昔聞いた話を思い出した。


 それは幼い頃に父と母から教わったことだ。鍛冶である父が刀を創り、タチメである母が刀へと魂を注ぎ込むのだと。その炎が鮮やかであればあるほど、その舞いが美しければ美しいほど、刀はより純粋な刃紋をその刀身に落とし込むのだと、両親はどこか誇らしげに蹈鞴にそう言い聞かせた。


 きっと朱里が落とし込む刃紋は何よりも美しいのだと、目の前で舞う彼女に圧倒されながら蹈鞴はそう思った。

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