第7話 七条恋歌・序

 舞台を見下ろす人々の視界の端で波紋が生じた。


 穏やかに大きく。小刻みに調子よく。それぞれの歩幅で舞台へと歩み出る男女が居た。


 歩む男は腕を組む。羽織の袖さえ抱き込むその姿は、柔らかな物腰の中に抱えた頑なな何かを想像するのに容易いものだ。


 腰には大小ひと振りずつ。意匠も何も無い簡素な黒い鞘に納められたそれらは、少々味気なく感じるところはあっても、月明かりに揺れる桜と、澄んだ水面の上に立つのに必要な佇まいを確かに持っている。


 踊る女は袖を流す。左手で持つ黒い小袖で揺れる花弁は僅かばかりの桜刺繍。春一番を捕まえたその立ち居振る舞いで朗々と月夜の季節を謳い上げる。


 右手に抱えた大小に頬を寄せ、浮かべる微笑に可憐さを滲ませれば、まっさらな臙脂色の鞘へと、この世に二つとない装飾を落とし込む。


 引き締まった面に薄い化粧を施し、黒髪の短い襟足を微かに揺らし、蹈鞴は名も知られぬひとりの男となって、清らかな舞台情景の只中を歩んでいく。


 浮かべた笑みをこそ至上の化粧とし、赤髪を丹念にまとめあげた朱里もまた、名も無きひとりの女として、清閑な舞台で小さくはしゃぐ。


 蹈鞴が舞台桜にたどり着くその九歩前、そして朱里が舞台桜を通り過ぎた九歩後の事だ。


 小さく身を回した朱里の抱く鞘の先端が、蹈鞴が履いた刀の鞘を小さく打った。奏楽刀の演奏にかき消される程に小さな音だろうとも、男女の出会いに貴賎はない。舞台を見つめる誰もがその瞬間の始まりを、確かに直感した。


 どこか知らぬ場所、知らぬ所で、互いを知らぬ男女がその音に何かを感じて同時に顔を跳ね上げた。そうして振り向き視線を向けた先には、自分と似た表情をしたもうひとりがいる。


 互いにすれ違い行き過ぎようとしていた二人を引き止め、その運命を繋ぐように、それぞれが履いた鞘の先端が静かに触れ合っている。


 どこからか吹く風が、うなじに巻き付いた女の髪を優しく揺らす。その瞳に驚きや戸惑いは存在しない。ただそこに立つ男の視線を受け止め立つばかりだ。


 そんな女と違い、男は緩やかに身を回す。まるで不意に触れ合ってしまった手を優しく振りほどくかのように、自身の鞘と触れ合った女の鞘を、しっとりとした足運びで描く真円の外側へとやわらかく押し出していく。


 それでも女は男の動きに僅かに引きずられ膝を崩しかける。上体がよろめき、口は不意を音にするように小さく開かれる。


 奏楽刀衆の静かな音色と小袖の中で揺れる桜。そして咄嗟に支え支えられ近づいた距離感に早まる鼓動と重なるのもまた、奏舞いによるトツトツとした音色だ。


 法力刀が発する法力により舞台桜の枝が揺れ、彼らの情景を象徴的に描き出す中、舞台の真ん中で女を支える男の手が、彼女の履いた小太刀に触れた。それに気づいた女が身を引くも、男の指に引っかかった小太刀が僅かに刀身を覗かせた。


 女が慌てて小太刀を鞘に納めなおすのに合わせて、奏楽刀衆九人が納刀する。九本の刀が鍔を鯉口に当てる音が重なり響く。


 朱里演じる女が浮かべる恥ずかしげだけれど、目にすれば決して離す事など出来ない可憐な笑みに、蹈鞴演じる男はその引き締まった表情を微かに緩め口を開いた。


『──』


 確かに何かを告げたはずだ。口元は動き、短いながらも唇は離れたのだから。しかしその言葉は女に向けられたもの。どれだけ心を傾け舞台を見ようとも、観客たちへとその声が届く事は決してない。


 代わりとばかりに法力刀衆が舞台を魅せる。中央の舞台桜はそのままに、水膜の中だけに桜の花弁を吹き散らしたのだ。


 水の中散り乱れる花弁に何を想像するのか、はたまた何かを想像する間すらなく見入っているのか、それもまた人それぞれ違うだろう。


 しかしこの景観の続きを見たい、そう心に抱いていることは《浮かび座敷》に座る誰もが共有していた。


 たった一幕で客席を取り込んだ二人の演舞は、次なる一幕へと移っていく。


   ▼


 腑抜けている。


 始めの一刀が振られたその瞬間、蹈鞴は素直にそう思った。


 自らの描く太刀筋も、舞台を踏みしめる一足も、その全てに何かが足りていなかった。


 《桜刀祭》へ臨むまでの数ヶ月の練習でも感じていた不足と欠落が、本番である今この時であっても、はっきりとわかる形で現れてしまっている。


 緊張が鋒まで届いていない、つま先で振り絞るべき力がどこかへ逃げている。


 わかりきってはいたけれど、それでも桜ノ劇場で本番に臨めば、自分の思い描く最高の境地で舞えるのではないか。


 心のどこかでそう期待していた自分がいるのも事実だ。このまま物足りない太刀筋を描き続けるのか。それを衆目に晒すのか。そう自問する蹈鞴は、舞台に立つ緊張とは別の理由により、喉が干上がっていくのを感じた。


 第二楽章十四小節。


 そこまで演目が進んだ時、蹈鞴はようやく自分の意識がゆっくりと体から剥離していくのを認識していた。刀を手に舞い始めれば、必ず訪れる忘我の境地。ここに至ってしまえば後は舞うに任せられる。蹈鞴は逃げ場所を得た安心感に包まれながら、肉体の感覚を手放していく。


 魂の輪郭が解れていくままに見つめる世界はいつだって遠く、蹈鞴は茫漠とした意識の中にひとり佇んでいる。


 目の前で舞う朱里の姿ですら、蹈鞴はどこか遠い場所から眺めていた。

提灯の灯り揺れる人通りを暗い路地裏から見つめるような、夕焼けに向かって歩く背中を何も言わずに見送るような、そんな気分だ。


 桜ノ劇場で舞う昂揚も、勇魚との再会も、《鬼姫の紋》の重責も、朱里と重ねた言葉すら、ここでは置き去りにされる。


 それでも蹈鞴の身体はひとりでに動き見事な舞いを披露する。いつだったか、朱里と一緒に取材を受けたとき聞かれた事があった。


『刀舞いの最中、何を考えているのですか?』


 朱里が実に彼女らしい答えを口にした後、蹈鞴もまた自らの答えを口にした。


『何も』


 がっかりした取材者ーの顔、そして隣に座り愛おしげな視線で蹈鞴を見つめる朱里の眼差しが印象的だった。


 刀舞いの最中に考えること。


 そんなもの蹈鞴には一片たりとも存在しなかった。なぜなら舞台に立つ蹈鞴はその全てを手にした刀へと委ねているのだから。


 心は空っぽで、魂は刀に預け、身体は描かれる太刀筋のままに至上の舞いを現出してみせる。


 集中し切った蹈鞴はそうした認識の元で舞っているからこそ、その時の取材でこう付け加えたのだ。


『無心で舞っている。そう言えば少しは格好つきますか?』と。


 蹈鞴のほつれた意識の輪郭は、茫漠とした所感で見つめる。


 舞う朱里の流麗な所作を、その美しき立ち居振る舞いを。


《鬼姫の紋》に積み重ねられてきた刀舞いの技術と技法が、彼女自らの手によって洗練された果ての型が今ここにはある。足元で生まれる波紋すら、偶然ではなく、計算された演出なのかと思いたくなってしまう。


 朱里の情念と白亜の執念に、他の派閥構成員たちの信念が透けて見えるかのようだった。


 ここでなら己が目指す舞いの形を体現出来る。そうした確信が蹈鞴の身体を突き動かし、演目を次なる一幕へと進めていく。


 手首を回して鞘の先端で水面を引っ掛ければ、雨上がりの傘と同じ晴れやかさを描き出す。そのまま雫を引き上げながら、蹈鞴の身体は夜空を回る刀と同様の軽やかさでステップを刻む。


 一つ目は出会いたての男女らしく呼吸が合わずバラバラに、しかしそんなかすかなすれ違いすら楽しめるのか、朱里が可笑しそうな笑いを湛えた視線を照れ臭そうに寄越してくる。蹈鞴にはそれに対して自分の顔がどんな表情を返したのかわからなかった。


 そんな彼を置き去りに二つ目のステップが刻まれる。先に跳ぼうとしていた男がぐっと踏み止まり女を待とうとするも、そんな男の思惑すら置き去りに、今度は女の方が先に行ってしまう。慌てて跳んだ男をからかう仕草で女はさらに一歩先を行き、そして振り返って笑うのだ。

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