第6話 七条恋歌・開幕

 舞台桜が広げる花弁の傘へと差し掛かった辺りで、ようやく視線が投げかけられたのを白亜は自覚した。肩甲骨とうなじ、そして耳の裏側で感じる冷たくも熱っぽいそれがくすぐったい。


 法力による飛島足場を歩んでいく彼女の正面には、すでに配置を終えた後ろ刀のメンバーが揃っている。開演前の緊張感に底上げされた苛烈な視線を、こちらは真っ向から受け止めつつ、白亜は変わらぬ歩幅で進んでいく。


 藍色の衣装を纏う奏楽刀衆に、萌黄色の衣装を身に纏った法力刀衆。いずれもこの日この晩のために白亜が仕込んだ粒ぞろいのタチメたちだ。その面持ちは十分に引き締まり、佇まいを見て取っても、変に力んでいる者は一人もいない。


 皆が皆、いい状態で舞台入りを果たせた事に、白亜は戦意に近いものを滲ませた笑みを浮かべてみせる。斯く言う彼女もまた、今宵の為に仕立てた衣装をまとい、最上とも言える精神状態で今夜の舞台に臨む事が出来ていた。


 それを喜ばしく思う一方で、自分は舞台の盛り上げ役だと言う自負が、いい具合に力を抜いてくれている事実に、微かなしこりを抱えているのも自覚していた。


 《桜刀祭》のために用意されたしっかりと鞣された編み上げのブーツにしたところで、今足の下にある凪いだ水面に波紋を落とすことは許されない。それが例え《鬼姫の紋》を指揮する白亜の一足であったとしても、その事実は揺らがない。


 今日それを許された二人は、今はまだ舞台袖で待機をしている。


 熱っぽさと冷ややかさでいっぱいになった劇場の最前線に立つべき者は、別に居るのだ。


 前と後ろ、両方から突き刺さる視線を心地よく感じながら、白亜は楽隊舞台の正面にぽっかりと空いたスペースで振り返る。視界に広がるのは幾人もの観客が収まる《浮かび座敷》と、静寂を保ったままの舞台桜と凪いだ水面。それらをしっかりと見据えたところで、白亜はひとつ息を吐き出した。


 開演してしまえば、この舞台は主役の二人が独占してしまう。しかし今この瞬間に限って言えば、ここは白亜の独壇場だ。そのむず痒さとくすぐったさを引き締めた面の下に隠し、彼女は腰に履いた一刀へと手を伸ばす。


 トン、と白亜は鞘ごと抜いた刀を姿見代わりにもなりそうな橋板に着いた。


 両手を柄頭に置き、ひと呼吸。腹へと力を入れる。彼女は劇場中の視線を集め己の存在を示すと、流れるような所作で鞘を左手に持ち替え、右手を優しく柄に添える。ゆっくりと眼前に持ち上げた刀が、白亜の視界を縦に分断する。


 キンッ。


 刀の抜き始めを告げる、硬質で澄んだ音色が桜ノ劇場を渡っていく。白亜が左手と右手を離していけば、降り注ぐ月明かりが冴え冴えとした刀身に照り返す。


 派閥を象徴する刃文。一体今まで何度こうした機会があったのか。鮮明に、しかしこれまでの積み重ねを痛感させられるそれに、白亜は知らずその金色の瞳をすがめる。自分はこれから老舗派閥の歴史を挑むのだという気概が、血と一緒に全身へ運ばれていくのを感じた。


 そうして白亜が刀身を抜くのは、しかし半ばまでだ。


『残り半分はこれよりの舞台によってお見せしましょう』


 そう告げるように、連綿と続く刀舞いの流儀に従い、刃紋を再び鞘の中へと納めていく。


 抜いた時と違い、劇場の注目を集めるような無用な音は立てない。そんなことをせずとも、観客の視線は今、一心に白亜へと注がれているのだから。


 最後に鞘へと納めた刀を両手で水平に持ち頭の上へ捧げると共に片足を引き、膝を折ることで、これより披露する刀舞いを捧げる意を表し、白亜は演舞開始前の挨拶とした。


 そうして彼女自身も楽隊舞台へと上がる。


 観客席へと背を向けた白亜は、一時の快楽に耽る。背で感じるのは、期待に満ちた観客の視線。そして正面には、これから始まる演舞へ全神経を傾けたメンバーたちの苛烈な視線。双方の焦点となったこの瞬間が白亜の中での最高潮だ。


 舞台上にあの二人が現れ演舞を始めれば、自然と二つの内片方は、白亜の背中から剥がれていく。故に、熱が覚めるその一時を白亜は噛み締める。この瞬間を味わうために自分は幾度も舞台へと上がるのだと、改めて実感する。


 腰に履いた派閥を象徴する刀はそのままに、白亜は豊かな胸元から楽隊を指揮するためのひと振りを取り出す。桜ノ劇場に数多くある内、たったひとつだけの完全木製の刀。自らの二の腕と大差ない長さの指揮刀を彼女が振れば、楽隊の奏舞いが始まり、そうして舞台が幕を上げるのだ。


 客席、後ろ刀、そして白亜自身が形作るヒリついた空気の中、一夜限りの舞台へと誘う最初のひと振りが、振るわれた。


 それを皮切りに楽隊舞台に並んだ奏楽刀衆九人の内四人が静かに舞い始めた。彼女たち各々の手に握られた奏楽刀が静かな音色を響かせ、裾の長い上衣が空気を孕み仄明るい楽隊舞台の上を流れる様は、一種幻想的な情景を作り出す。


 一方で依然刀を床につき佇んだままの残る五人。白亜の指揮すら見ることなく穏やかな表情で瞳を閉じた彼女たちは、自分たちの出番が来るまで路傍に植えられた木立の如く存在を希薄にしたままだ。


 指揮刀を振るう白亜は自らに注がれた視線の内、背中からの半分が逸れていくのを感じた。それが何を意味するのか、体に染み付くほどの積み重ねを経た彼女からすれば、振り返るまでもないことだった。


 奏楽刀衆四人による奏舞い。その第一楽章十一小節。そこでの一音を合図に法力刀衆六人が演舞を開始したことだろう。


 今日は主役を張らないが、それでも彼女たち六人は《鬼姫の紋》が誇る一級のタチメたちだ。その舞いは月光の薄い舞台外縁だろうとも、観る者が溜め息を吐かずにはいられないほどに美しいものであると断言出来る。


 白亜が一際鋭く指揮刀を振るった。


 その瞬間、これまでじっと身動ぎひとつしなかった奏楽刀衆の残り五人が手にした刀を抜き放つ。鋒と鞘とを打ち鳴らす細やかな清音が舞台場へと降り積もっていく。それは微かな夜風と共に客席で舞う花弁のようであり、月明かりの粒子かと思うほどに小さく美しい音色だ。


 白亜は静かで伸びやかな音に乗る、儚く清らかな奏楽を指揮しながら、客席から渡ってくる微かなざわめきを感じ取った。マナー違反とも言われかねないそれに、しかし白亜は眉を顰めたりはせず、反対にほんの少しだけ口の端を釣り上げた。


 年に一度の《桜刀祭》。三週間にも渡るその催しに《鬼姫の紋》が参加するのは、もう数十年も前からの恒例となっている。そしてさらに言えば、ここ数年は披露する演目も定番のものとなっていた。だからこそ、ずっと白亜たち《鬼姫の紋》を見てきた観客は知っているのだ。


 奏楽刀が清らかな音色を鳴らし始めたこの瞬間こそが本当の始まりだと。これまで奏楽刀衆が行っていた静謐な奏舞いも、法力刀六人衆による幽玄な演舞も、ただ舞台へと注意を向けるための導入に過ぎないと。


 これより桜ノ劇場の中心に位置する舞台で行われるのは、多くの人の心を奪い虜にした至上の刀舞い。


 惹かれ、酔いしれ、魅了される。


 涙し、嗚咽を漏らし、心を震わせる。


 そんな極上の時間が今宵、この時より展開されてゆく。


 観客の期待と派閥メンバーの懸命さを肌で受け取った白亜は、心の中でひっそりとその始まりを告げた。


『七条恋歌、開幕』

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