第5話 桜刀祭・幕開け

「勇魚様、早く参りましょう」

「そんな急がなくてもいいでしょ。開演時間まではまだたっぷり時間があるんだから」

「それでもですっ。わたくし、居ても立ってもいられないのですから」


 自分自身がどうしようもなくはしゃいでいるのを飾は自覚していた。緩んだ頬、軽い足取り、そしてそれより尚軽く浮き上がる心。そんな少女の内心を表すように、亜麻色の髪と肩から羽織った合羽の裾が舞い散る花弁と踊っている。


 《桜刀祭》という年に一度の催し物に参加しているというだけではない。その祭の中でも飾が最も心待ちにしていた舞台へと赴くのだ。これではウキウキせずにいられないのも仕方がなかった。思わず手にした傘をクルクルと回してしまうほどだ。


「何度も言うようだけれど、蹈鞴はアンタが考えているほど特別な人間じゃないわよ。ただの甘えん坊」

「それは、勇魚様が幼い頃の蹈鞴様を知っているから、そうおっしゃるだけです。わたくしにとって、あの方は特別なのです!!」

「そう言ってもらえると姉貴分冥利に尽きるけどねー。蹈鞴もこんな可愛い子にそこまで言われたらさすがに喜ぶだろうし」

「本当ですか!?」

「そりゃ間違いないわよ。飾みたいな可愛い子から好意を向けられて嬉しくない人間なんているはずがないって」


 例えそれが何年も会っていない姉気分の憶測に過ぎないとしても、言われた飾はすっかりその気になってしまう。


 飾は妄想する。


 そう、場所は上演後の控え室だ。勇魚に連れられて踏み込んだそこで、憧れの蹈鞴に対面する。舞台の後できっと疲れているだろうから、何か差し入れを持っていくのもいいし、そういったものはきっと派閥で用意しているから、やはり無難に花束か何かを渡すのがいいかもしれない。


 もし、もしだ。自分が渡す花束で蹈鞴が喜んでくれるのなら、微笑みのひとつでも自分に向けてくれるのなら、その瞬間こそ飾の人生で最も幸せな時になるに違いない。


 そんな風にとても楽しい妄想と悩みを繰り返した果てに、飾が今日蹈鞴に渡すつもりで手にしたのは、ブーケで装飾された小振りなバスケットと、その中に入れた手製の焼き菓子だった。


「喜んでくれるでしょうか?」

「大丈夫だって。味見をした私が保証するわ。ちゃんと美味しく作れてた」

「ええ、皆さんに手伝ってもらいましたから」

「それなら尚更安心ね。きっと、大丈夫」


 蹈鞴に会える。それだけで余りにも浮かれる飾を見かねた《霙時計》の他メンバーが、差し入れを作るのに手を貸してくれていた。


 今日のおめかしについてもそうだ。《霙時計》のメンバーから貰ったアドバイスがここに集約している。


 決して華美になりすぎる事もなく、ましてや自分自身を魅せる事を怠らない。舞台衣装を決める時よりもずっと白熱したやりとりは、今思い返しても可笑しくて仕方がない。


 フワフワと可愛らしくセットされた亜麻色の髪も、きちんと整えられた指先に至るまで、皆でああだこうだと話し合いながら着飾っていくのは、それだけでも本当に楽しかった。


「蹈鞴様は何と言って下さるのでしょう。考えただけで、とても楽しみです」


 胸に満ちる期待が溢れたように、飾の口からはくすくすとした笑みが止まらない。


「ほら、勇魚様。早く早く」

「どんなに慌てたって開演時間が早まったりはしないんだけどね」

「あら、わたくし、開演前の緊張感を噛み締めるのが好きなだけですわ」


 別にはしゃいでいるわけではありません。そう告げるように、飾はわざとらしく行儀の良さを装って澄ました態度で歩んでみせる。


「あ、そ」


 呆れたとばかりに呟く勇魚を引き連れ飾は道を行く。しかしどれだけ取り澄ましたところで、少女の足取りは、はやる想いが落とし込まれ浮足立つ。


   ▼


 《透かし陽》、《紅差し》、《雪化粧》。そして《月見ひとひら》。桜ノ国を取り巻く四つの季節。その中でも最も神秘性を孕んでいると謳われるのが、夜空を背景に満開のトワノヨシノが咲き誇る《月見ひとひら》の季節だった。


 雪解け水が足元に薄い水膜を張り、鏡面となった路上に指先ひとつで歪んでしまう春爛漫を描き出す。人々が歩みを進めれば、生じた波紋により水面世界の花弁は立ち所に崩れ、一面は桜色の絨毯へと変わる。


 子どもたちが無邪気に走り回り、大人たちは洒落たゴム長と飛沫返しの長合羽を身に纏う。手にした傘は花弁より滴る雫を路面へと優しく導き、ふとその縁から雲間の月を見上げれば、ほっそりと息を吐かずにはいられない美しきトワノヨシノを覗き見ることが出来る。


 水はけの悪い路面すら、この風流に浸かってしまえば文句のつけようもなく、傘を手にする面倒すら楽しむ心が、些細な気疲れなどたちまち水に流してしまう。


 悠久に咲き続けるトワノヨシノが形作るトンネルをくぐり抜けた先に、その建物は存在する。


 どこまでも続く長大な壁に四方を囲われ、それぞれに設けられた門扉には、桜ノ国に風光明媚な景観をもたらす四つの季節を象徴する装飾が施されている。


 そこを抜ければ、遥かなる幽玄が人々を出迎える。


 ここは、──桜ノ劇場。


 何ものも遮る事がない、天上より降り注ぐ月明かりが無数の花弁の狭間をすり抜け、静謐な雰囲気を観客たちの間で共有させる。風に煽られた枝がその身を揺すり、舞散った一片が誰かの手にした盃へと小さな波紋を描き出す。


 しかし対照的に、《浮かび座敷》に腰を下ろした人々が一様に注目する舞台桜の足元は凪ぎ、まさしく《月見ひとひら》と呼ぶに相応しい情景を水面に落とし込んでいた。


 一本の舞台桜を取り囲むのは、数多く配された俯瞰視点の《浮かび座敷》。


 手に手に盃を、舞台案内を、そして観劇用の双眼鏡(オペラグラス)を手にした人々が、静まり返った舞台を横目に思い思いの時間を過ごしている。


 この情景そのものを肴に上品な様子で盃を傾ける者。今宵の舞台へ馳せる思いを我慢しきれずに言葉を交わし合う者。そして、こうした雰囲気をすら楽しみに来ているのだと言わんばかりに目を閉じ何かを噛み締めている者。


 様々な人々が、しかしその胸に抱く期待を同じくして、また同様にやわらかな緊張と優しい興奮の中に身を置いている。


 一陣の風が吹き抜けた。


 夜風に観客の幾人かが肩を震わせようとも、法力によって塞ぎ込んだ水膜は揺らがず、自らが最上の舞台演出を魅せるその瞬間を黙して待つ。早朝の神社を連想させる深閑とした清らかな緊張感が夜空へと巻き上げられた。


 ふと、木が軋む微かな音に気がついた者がいた。キシ、キシ、と隕鉄型に並んだ《浮かび座敷》に幾重もの音が重なり届く。それを拾い上げた者から順に口を閉ざし、視線をとある一点へと向けていく。


 これより始まる舞台への期待と、開幕前の緊張感を堪能していた小さなお喋りが静まり返っていく中、板の間が軋む音だけが大きく聞こえるようになる。


 キシ、キシ。


 夜中に水差しを求め歩むのに近い、静々としているが何ものにも邪魔だてされることのない音は、静まり返っていく劇場では妙に耳に残る。


 そしてその頃には《浮かび座》で口を開く観客はひとりとして存在せず、皆が皆、舞台中央に植えられ緩やかに枝を揺らす舞台桜の後方へと、意識を傾けていた。


 楽隊舞台だ。


 《浮かび座敷》よりも低く、しかし決して水面に触れない高さへと設けられたそこへ、滑らかに横付けされたのは三艘の渡し舟。決して水膜を揺らす事のないよう宙に留まる舟から続々とその舞台へと上がっていくのは、奏楽刀を手にした九人のタチメたち。


 多くの観客が今か今かと待ちわびる刀舞いを盛り上げる彼女たちは、後ろ刀の一翼として登壇するその姿で、劇場の空気を塗り替えていく。


 これまで寄せては返すさざ波のように、観客たちの呼吸が遠く近く聞こえていた劇場全体が、凪いだ湖面のように独特の緊張感を持った雰囲気へと押し上げられる。


 盃を傾けていた者は静かにそれを脇へと置き、言葉を交わし合う者はすでにおらず、ただ開演前の雰囲気を楽しむ者だけが未だ目を閉じ静かな面持ちで腕を組む。


 奏楽刀衆九人が楽隊舞台へと配置を終えた。お役御免となった三艘の渡し舟がスルスルとその身を引いていき、しばらくすると、今度は何枚もの橋板が半円形の楽隊舞台に沿って並べられていく。


 カコカコカコ。


 橋板の木板同士が嵌る音が小気味良く劇場に響く。


 そして組みあがっていく橋上を危なげない足取りで歩むのは、奏楽刀衆と対をなす後ろ刀のもう一翼である法力刀衆の六人だ。


 彼女たちもまた、水面を揺らす事がないよう、僅かに宙へ浮くよう配された橋の上を渡り、自らが初めの一足を踏みしめるその場所へと歩んでいく。


 桜ノ劇場に数拍の間が設けられた。


 楽隊舞台へと視線を向ける観客たちの下、隕鉄型の客席を潜り、正面から後ろ刀の面々が立ち並ぶ場所へと向かう人影がある。


 菫色の髪を揺らすその後ろ姿は、白亜だ。

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