第4話 再会と出会い ※追記あり
朱里が不意打ち気味に蹈鞴の首筋へと口づけようとした瞬間、転がり出した時同様の静けさで《二ツ輪》が停止した。
「着いたよって、何してるのさ」
「何でもないわ。さ、行きましょう」
振り返った蹈鞴と危うく額同士をぶつけそうになったのを取り繕いながら、朱里は《二ツ輪》から降りる。その拍子に跳ねた水面の下では、街中において存在しなかった感触があった。
「どうしようかしら。これ楽しいわよ、蹈鞴」
「はしゃぎすぎて転ばないでよ」
「幼子じゃないのだから、心配いらないわ」
神社特有の玉砂利を踏みしめる楽しさに僅かに心を弾ませながら、朱里は蹈鞴と共に鳥居へ一礼。そのまま境内へと進むと、静謐さの中に目に見えない清らかさを含んだ独特の空気が、二人を出迎える。
芸能の神が祀られたそこは、桜ノ国でも有名な神社であり、《桜刀祭》が近づくと多くのタチメが舞台成功の祈願に参る。蹈鞴と共に歩む境内にもチラホラとそうした姿が見て取れた。
「蹈鞴?」
「え?」
不意に名前を呼ばれた蹈鞴がこちらに視線を寄越してくるが、朱里はそれに対して私じゃないと目で返す。
「蹈鞴っ。やっぱり蹈鞴じゃない!!」
どこかはしゃいだ声。神社には不釣合いな響きが二人の耳朶を打った。呼びかけに振り返る蹈鞴を追いかけ朱里も声がした方へと視線をやる。
「久しぶりね、蹈鞴」
そこに立っていたのはひとりの女性とひとりの少女。親子と呼ぶにはその姿形に似通ったところはなく、姉妹と呼ぶには年がかけ離れ過ぎていた。
「元気そうじゃない。アンタも成功祈願に来たわけ?」
気さくな様子で話しかけてくる女性へ、朱里は警戒心も露わに蹈鞴の前に一歩進み出た。
「お?」
視線鋭く見据える朱里。眼前で驚いた表情を見せる女性。すぐさま瞳に好奇の光を混ぜ合わせたその顔には、なぜか見覚えがある気がした。
「君は蹈鞴の何?」
「……蹈鞴は私の相方よ」
ただの好奇心で聞いたとばかりに軽い調子で尋ねてくる女性に、そうとしか答えられない今の関係性に僅かな寂しさを抱きつつ、朱里は答える。
眼前の女性を見つめるほどに大きくなる既視感は、しかしそれがいつどこの時点でのことか思い出せず、もどかしさが喉の奥で溜まり吐き出せない。
「朱里。大丈夫」
朱里が、飲み込めない既視感の正体を見極めるより早く、蹈鞴が一歩前へと進み出た。
玉砂利の擦れる音と、水面が跳ねる音。静謐な境内で清められたそれらが何故だか耳に引っかかった。
「久しぶり、勇魚」
蹈鞴の静かな呼びかけがようやく朱里の既視感を結びつけた。記憶のどこか底の方に沈んでいたその覚えが、喉奥で溜まっていたものを引っ張り上げ口から飛び出させる。
「《霙時計》の勇魚」
「そ。ちなみに《鬼姫の紋》にいた頃は蹈鞴の姉貴分でした。こっちの娘は飾(かざり)。よろしくね、《鬼姫の紋》の朱里さん」
どこか明け透けなこの女性が
「知っているんですね、私のこと」
「そりゃそうよ。というか、知らない方がどうかしてると思うわよ。特に、私たちの業界ではね。私も何度か見たけど、いい舞台を見せるじゃない、アナタ」
「ありがとうございます」
かつて当代最高のタチメとして世界を魅了していた勇魚からのお墨付きに悪い気はしないものの、どこか上からな物言いに何となく納得いかないものもあった。
「ところで、白亜は一緒じゃないの?」
「白亜は後ろ刀の調整をしてる。今回は桜ノ劇場での千秋楽も任されてるから、かなり気合を入れてるよ」
「それで主演のアンタたち二人で成功祈願に来たわけだ」
勇魚の言うとおりだった。今頃練習用に借りた劇場では、後ろ刀である奏楽刀衆と法力刀衆が、白亜の指揮で本番前の調整を行っているはずだ。
「んー、まあいっか。千秋楽ってことは、アンタたちも《桜刀祭》が終わるまでは中ノ都に居るんでしょ?」
蹈鞴が勇魚の問いかけに頷いた。
「なら、また会いに行くわ。ところで蹈鞴」
「何」
「今年もアンタの刀舞いを見られるわけ?」
二度目の問いかけ。朱里は即座に頷かない蹈鞴の心境を推し量る。
▼
「どうなの?」
勇魚に呼びかけられたとわかったその瞬間に、蹈鞴は割れた陶器の断面にも近い心境を抱えていた。余所余所しさと白々しさを覚えると同時に、派閥にいた頃から些かも変わらぬ彼女の様子にどこか安心してもいる。
明け透けで遠慮のない勇魚は、派閥に入ったばかりで右も左もわからぬ蹈鞴の面倒をよく見てくれたものだ。青みがかかった黒髪を艶やかになびかせ、常に笑みを絶やさぬ彼女は、子どもだった蹈鞴の目に格好よく写ったものだ。
母とは別に、蹈鞴が心の底から憧れたただひとりの女性、それが勇魚だった。
だからこそ蹈鞴は今の自分が舞う舞台を勇魚に見られることに気が引けた。行き先も定められない現状は、母の背中を追いかけていたあの頃よりも情けないものだろうから──。
それでも蹈鞴はひとつ息を吐くと、隣に立つ朱里がじっと注いでくる視線を頬で受け止めながら、正面に立つ勇魚へとはっきりと告げた。
「立つよ。おれは今年も桜ノ劇場で刀舞いを披露する」
「そう。それはよかったわ」
様々なものを抱えて告げた蹈鞴に比べ、勇魚の言葉は余りにも気楽だった。彼女と出会った当初は、そうした物言いに苛立ちを覚えもしたものだが、今となってはその程度で心がささくれ立つこともなくなっていた。
「実は蹈鞴の舞台を楽しみにしてる娘がいてね。ほら、飾(かざり)」
勇魚が声をかけた先、つられて蹈鞴が視線をやった場所にはひとりの少女が立っていた。どこか幼さが覗く顔立ちは、まだ二十歳にもなっていなのではないかと思わせる風貌だった。
勇魚の肩越しにこちらを伺うように見つめる視線が蹈鞴のそれとかち合う。発する言葉が存在しないままの五秒間。蹈鞴は目のやり場を正面にいる勇魚へと戻す。
「飾。アンタ何隠れてんのよ」
「いえ、その、突然だったものですから、緊張、してしまって」
「あ、そ。まあいいわ。じゃあ、またね蹈鞴、朱里さんも。本番の舞台、楽しみにしてるわ」
「勇魚様、待って下さいっ」
偶然の出会いである事を印象づける、あっさりとした挨拶共に去っていく勇魚。その背中を追いかける飾という少女をも含めて、何とも言えぬ感情を宿した瞳で蹈鞴は見送る。
その視線は遠く、常夜の空からたった一粒昼の青さを探そうとしているかのようだった。
「蹈鞴……?」
隣に立っているにも拘らず、扉越しに呼びかけられたのかと思うほどに、朱里が呼ぶ自分の名前は語感が薄かった。ぼんやりと振り向いた蹈鞴は、遠い視点から、訝しげな顔をしている彼女へと焦点を持ってくる。
「大丈夫なの?」
「あ、うん。まさかこんなところで会うとは思ってなかったから、少し驚いただけ」
「そう。でも私も驚いたわ。まさかあの勇魚と貴方が知り合いだなんて思わなかったから」
「別に、言い触らす様な事でもないし。《鬼姫の紋》でも知ってる人は知ってるし」
そう告げる自身の言葉すら、蹈鞴には未だ遠く聞こえた。
「彼女の派閥に入ろうとは思わなかったのね」
「まあ。おれを舞台に誘ったのは白亜だったし」
「そう」
朱里が頷き訪れた沈黙はいつもと違い、あまり居心地がいいものではなかった。神社の静謐な雰囲気に包まれていても尚、海苔が上顎に貼り付いたのに近いわだかまりを、蹈鞴は胸の内に抱いている。
「あの娘、可愛かったわね」
そんな気持ちに囚われていたからこそ、朱里が持ち出した話題を拾い上げられなかった。
「何でもないわ。早いところお参りを済ませて戻りましょう」
「うん」
かろうじて頷きだけを返し、蹈鞴は境内を歩く。玉砂利と水面を踏みしめるも、勇魚と再会した心は上の空だ。
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