第3話 あなたといるのが私の幸せ

『遥か昔の戦場において、戦いに勝利し、酒に酔った戦士を誘う娼婦が、彼らの気を引こうと刀を手に余興として舞踊った。それこそがタチメの始まりの形であり、原初の刀舞いである』


 通りの一角に据え付けられた看板にはそうした文言の他に、当時の様子を描いた絵も一緒に添えられていた。


ひとりの女が刀を手に珍妙なポーズを取り、その周りには酒杯を手にした男たちの陽気な姿がある。現在の格式高い刀舞いからは考えられない程にかけ離れた有様だ。


「何て言うか、野放図的なのよね」


 朱里はポツリと感想を漏らす。しげしげと見つめる視線はいつ見ても不思議なそれに対して細められ、顎に添えた指がそんな彼女の思案げな雰囲気を助長する。


『刀舞いが舞台上の出し物として世界で初めて披露されたのが星暦1200年頃の事であり、それはこの桜ノ国で行われた』


 刀舞いの歴史。そう銘打たれ、通りにズラリと並んだ看板を、朱里は待ち時間の潰しになんとはなしに眺めていく。そこには刀舞いの発展と共に、桜ノ国に関する歴史も所々に記述されており、思わず感心してしまう内容のものもあった。


 世界でも有数の観光立国である桜ノ国。さらにその中心でもある中ノ都は今、多くの人で賑わっている。

 朱里のいる白河通りもその例に漏れず、そこかしこを手に傘を持った人たちが行き交っており、桜刀祭の開催期間となればさらにたくさんの人が訪れる事だろう。


「風流よねぇ」


 看板から目を離し、朱里は灯篭の柔らかく儚げな灯り越しに通りを見つめる。


 桜刀祭が開催される期間に桜ノ国へと訪れる《月見ひとひら》の季節は、陽が昇らない。満ち欠けを行き来する月が常に夜空から顔を覗かせ、空は黒から紺、藍へと色を変える事はあっても、決してトプンと落ちてくるような青色をした昼空を見せる事はない。


 それが故に雪解けは遅く、《雪化粧》の季節に積もった白雪はゆっくりとその身を桜の枝から滴らせていく。足元には透き通る清水が薄く膜を張り、月見桜を揺らめく水面へと落とし込む。


 常夜の空、月、水面世界、そして咲き続けるトワノヨシノ。


 雪が全て解けきり陽が再び顔を出す《透かし陽》の季節まで、灯篭揺らめく幽玄な景観が損なわれることは決してない。


「あの傘、好みだわ。後で探してみようかしら」


 目の前を通り過ぎていく女性が差している傘を見て、朱里はポツリと呟く。白と赤の大きな鯉がゆったりと泳ぐ様を描いたそれは、落ちてくる雫に濡れる事で、灯篭の灯りを差し日代わりに池の中で泳ぐ姿を見事に表現していた。


 かく言う朱里も、そうした人々と変わらぬ姿で雑踏に紛れ込んでいる。


 足元には洒落たゴム長を履き、肩からは水滴防ぎの為に丈の長い合羽を纏っている。さらに加えて、傘は手持ちのものの代わりに、流行りだという目元を隠すほどに深い陣笠を被っていた。旅装束にも似た装いだが、変装の意味も込めればこれぐらいでちょうど良い。


「朱里、こんなところに居た」


 朴訥とした声に振り向けばそこには蹈鞴が立っていた。朱里同様に頭には陣笠、足元はゴム長、そして肩からは自分よりも丈の短い合羽を提げている。


「店から出たらいなかったから探したよ」


 そう苦笑気味に告げる蹈鞴は大型の《二ツ輪》を押している。朱里たち《鬼姫の紋》が桜ノ国へと来るのに使った《四ツ輪》同様、法力により道を行くこれで、朱里と蹈鞴はとある場所へと赴く予定になっているのだ。


「ごめんなさい。久しぶりだったものだから色々と見て回りたくなってしまったのよ」

「後でゆっくり回ろうよ。この辺もまた変わっているから、おれも色々と見たいし」

「やっぱり気になるのかしら、桜ノ国出身としては」


 《二ツ輪》を転がせる大きな通りまで朱里は蹈鞴と連れ立って歩く。どちらかが一歩を踏みしめる度、足元では水が跳ね、通りを行く人々が生み出す波紋と一緒になって水面の桜を揺らめかせる。小さな水音の重なりは静かな賑やかさを孕んでいた。


「そうだね。本当の出身は少し外れた小さな街だけれど、中ノ都へもよく遊びに来ていたし。ここの通りは《紅差し》の季節が一番好きだったな。《鬼姫の紋》に入ってからはあの景観は全然見てなくて、それが残念ではあるけど」

「その季節、私たちは本舗で《収穫祭》の真っ只中だものね。でも、いつか来てみたいわ。《紅差し》だけではなく、《透かし陽》や《雪化粧》の季節にも」


 言葉の交わりは柔らかく、しかし儚い。通りで揺らめく茜色の灯りと同じく、すぐさま揺らめき行き過ぎていく積み重ねは、しかし散った桜と違い誰かに踏みつけにされ汚れる前に、朱里の中で思い出へと変わっていく。


「運転、私がしてもいいのよ?」

「やだよ。朱里に転がさせると、《二ツ輪》の轍は蛇行を描くじゃないか」

「そう。少し残念ね」

「おとなしく掴まってて」


 そう告げた蹈鞴はさっさと《二ツ輪》に跨るとハンドルを握って朱里が乗り込むのを待つ。その横顔に嬉しさを見出しながら朱里は彼の後ろに横座りになると、淑やかな仕草で蹈鞴に身を寄せ引き締まった腰へと腕を回す。


 音もなく《二ツ輪》は転がり出した。


 薄い水膜を優しく押しのけ大通りを東へと進んでいく。他にも幾つかの《四ツ輪》や《二ツ輪》が転がっているが、そこには白河通りのような幽玄な賑やかさはない。


 やはりこれだけの景観の中へと身を置き心を触れさせていると、自らの足で歩む事を選ぶ者が多いのかもしれない。


『桜ノ国は歩いてなんぼ』


 どこかの雑誌でそう書かれていたのをふと思い出す。そして何だか勿体無い気がして朱里は被っていた陣笠を頭の後ろへと回すことにした。


 蹈鞴の後ろで髪を風に遊ばせながら街並みを見ると、確かにあの文言にも納得がいった。


 林立するトワノヨシノの間を曲がりくねりながら伸びる通り道。淡紅色溢れる中にポツリポツリと顔を覗かせるのは、艶消しされた白と黒の建築群。木目が楽しい格子窓を嵌めたものもあれば、朱塗りの門構えを拵えたものもある。桜色、白、黒、時折の朱色。桜ノ国でしか見る事の叶わない彩りは、雅な異国情緒に溢れている。


「~♪ ~~♪」


 はしゃいでいるのだろうか。朱里はいつの間にか鼻歌による音色を髪と一緒に遊ばせていた。


 旋律は緩やかだ。《二ツ輪》の速度と桜ノ国の景観がすっかり調和した拍子はまさしく今、朱里が抱く心持ちを代弁してくれていた。


 数日後には桜ノ劇場で舞台本番を迎えるにも拘らず、朱里の中から一切の緊張が抜けていく。それが堪らなく心地よかった。桜と風と、鼻歌に蹈鞴の背中。朱里は全くもってご機嫌だ。


「~~♪」


 鼻歌を後ろへと落としながら、目の前の背中へと視線を投げる。そしていつも通り、蹈鞴のことが気になった。


 ご機嫌な朱里がいる一方で、蹈鞴はどうなのだろうか。


 桜ノ国出身の蹈鞴は、幼少のみぎりは常にこの景観に囲まれていたはずだ。見飽きた風景としてただ行き過ぎるばかりなのか、それとも何か思うところがあるのだろうか。斜めに見上げた後ろ髪は朱里に何かを伝えてくる事はない。


 ただ、そこで見つけた自らの赤髪と、蹈鞴の黒髪が混じり合っている情景に、朱里はさらに機嫌を良くするばかりだ。


 この情景の中、下品さは無粋。そう思う朱里は、あくまで上品に蹈鞴の腰に回した腕へと力を込める。背中越しに鼓動が聞こえてこないかと耳を寄せようとするも、狭い《二ツ輪》の上では上手くいかなかった。


 しかしそれを残念に思うわけもなく、朱里は背中の代わりに蹈鞴の首筋へと頬を寄せる。


 幸せを噛み締めた。


 心に温かさが満ち満ちていく。


 蹈鞴への愛おしさが朱里を象っているのがよくわかる。


 蹈鞴への想いが朱里の輪郭だ。


「ふふ」


 鼻歌は途切れ、笑みが漏れる。心地よく、幸福を含んだ微笑は、地面に落ちる事なく風に巻かれてトワノヨシノの枝を揺らす。

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