第2話 桜ノ国へ入国

「蹈鞴、これ」

「何?」


 朱里が蹈鞴越しに手を伸ばしたのは一部の新聞だった。誰かが置いていったそれには一面に大きく『桜刀祭(おうとうさい)まで後八日』と見出しが付けられている。


 記事にざっと目を通すと、そこには《桜刀祭》に関する説明が書かれている。


 曰く、年に一度の祭であるということ。

 曰く、世界中から名うてのタチメが集まり、その刀舞いの粋を披露する場であることなどが述べられている。


 何度も目にしたその手の説明書きを流し読んだ先には、今回の《桜刀祭》で注目されているタチメと、彼女らが在籍している派閥について書かれていた。


「さすがだね、朱里。写真付きで紹介されてる」

「ありがと。蹈鞴にそう言って貰えるのが一番嬉しい」


 これまでの年上然とした態度から一変、あどけない少女のように言葉を落とす朱里は、コツンと頭を触れ合わせてくる。


「でも、どうしてかしらね。蹈鞴のことについて何も書かれていないじゃない」

「仕方ないって。だって、おれは君の相方だから」

「それでも、実力は折り紙付きじゃない」


 当の本人よりもずっと不満げな少女は、紙面に向かって唇を尖らせている。


 少ない紙幅の中、朱里は写真付きで大々的に紹介されていた。そんな彼女と同様の扱いを受けているのは他に三人しかいない。だと言うのに朱里は、紹介文のとある一文に唇をとがらせて不平をぶつける。


「相方との《七条恋歌(しちじょうれんか)》は今回も見ることが出来るのか? って、何を心配してるのかしら。年に一度の晴れ舞台に、それ以外の選択肢があるわけないじゃない」

「白亜(はくあ)は少し悩んでたみたいだけど」

「知ってる。だから直談判したの。蹈鞴と舞えないのなら、私は今回出ないって」

「それは白亜も困っただろうね」


 朱里のことだ。恐らくは今蹈鞴に見せている素の彼女ではなく、南方随一のタチメとまで言われる舞台上での苛烈さを持ってして、派閥鬼姫の紋(おにひめのもん)で指揮を取る白亜に詰め寄ったに違いない。


《桜刀祭》についての一切を任されている彼女がその時どんな表情をしたのか、その答えは今鏡を見ればきっと見つけることが出来るはずだ。


「何か悩み事?」

「目ざといよ、朱里」

「だって、蹈鞴のことだもの。ちゃんと見ているわ」


 ずるい女性だ。こうして寄りかかって甘えてくるのに、それは決して独りよがりなんかではない。その証拠に、朱里の視線はもう車窓の外へと向いており、無理矢理に踏み込んでくるような不躾な言動を寄越さない。


 そうして蹈鞴に時間を与えるのだ、彼女は。それが本心に触れる唯一の方法だと言わんばかりに。だから、蹈鞴は口を開いてしまう。


「おれの母さんもタチメだって話は前にしたよね」

「ええ、聞いたわ」

「この間、刀を手放した」


 それは風の噂で聞いたことだった。ずっと刀を握り続け、舞台を降りたあとも後進の育成のためと舞い続けた母が、遂に刀を手放した、と。


「そうなの」

「うん」


 朱里の相槌に、蹈鞴の頷き。それきり二人の間には沈黙が降りてくる。

四ツ輪が道をゆく微かな音と、車外から伝わる僅かな潮騒だけの空間。夜の帳より忍び寄ってくるそれらが、蹈鞴がここ数ヶ月抱き続ける空白へと手を伸ばしてくる。


「私はね、蹈鞴。貴方と《七条恋歌》を舞いたくて刀を握り続けているのよ」


 やわらかくて強い声音だ。視線を合わせないままに朱里が口にする言葉が、トワノヨシノの花弁舞う《月見ひとひら》の風のように蹈鞴の耳を撫でていく。


「貴方はどうして刀舞いにその身を捧げているの?」

「わからない」


 まるで迷子だった。ここ数年舞台に立ち続けていた間は忘れていた幼心が、久しぶりに蹈鞴の中で顔を覗かせていた。


 母に憧れて始めた刀舞い。あの美しさを自分でも手にしたくて舞い続けた数年間。もちろんその間に培ってきたものも多くある。それでも中心にあったのは母への憧憬だった。


 しかし、母が刀を手放したことでそれが消失してしまった。


 目指すべきものを見失ったことで、蹈鞴は惑乱し、胸の内に抱いた空白に引きずられるようにまた、その刀舞いもどこか薄味になっていた。


「おれがこんなだから、白亜も《桜刀祭》での《七条恋歌》を迷ったんだと思う」

「そう。でもね蹈鞴。私は《七条恋歌》を舞いたいのよ。貴方と一緒にね」


 真っ直ぐで熱い言葉。舞台を降りていても、刀を手にしていなくとも尚その苛烈な意思を抱え続ける朱里。そんな彼女だからこそ、蹈鞴は期待してしまうのだ。憧憬を見失った空白に違う何かを注ぎ込んでくれることを。


 可笑しな話だと思った。


 今こうして自分にしなだれかかってきている朱里こそが、心に寄り添い蹈鞴を支えてくれているのだから。


「何を笑っているの?」

「別に、何でもないよ」


 その言葉を最後に二人の間には再びの沈黙が降りてくる。静かな空間には、背後で寝こける構成員たちの寝息が滲み出していた。《月見ひとひら》特有の、砕いた藍玉を散りばめた常夜の空に似合いな穏やかさがそこにはあった。


 そんな空気に触れ、これ以上何かを喋る気にもなれなくなった蹈鞴は、横から覗き込んでくる朱里と一緒に、先ほど読み流した新聞へと何とはなしに目を通していく。


・『桜刀祭まで後八日』

 桜ノ国で年に一度開催される《桜刀祭》まで残り八日となった。三週間にも及ぶこの祭は世界中から観光客が訪れる一大イベントとなっている。開催国である桜ノ国、その首都である中ノ都はすでに賑わいを見せ始め、連日観光客が足を踏み入れている。美しきタチメたちが華麗な舞いを披露する刀舞いも、路上から名立たる劇場など、様々なところで見ることが出来、昂揚を高めている。一方でトラブルも頻出しており、《桜刀祭》の開催期間中、ピーク時の混雑状況が懸念されている。


 色気もへったくれもない事実だけを書き連ねた文章。他の大衆雑誌やゴシップ記事等が祭の空気を助長させる文言を並べ立てている中、新聞のこうした淡々とした記事は無用に感情を煽り立てる事もないため、面白みにこそ欠けるものの、今読むのにはちょうどよかった。


 注目されているタチメに、主だった派閥の紹介記事についてもそれは同じで、それぞれの長所短所を記しただけの文章は、無用な比較や対立を書き立てるものではないため、落ち着いて目を通す事が出来きる。


 それでも先ほどの朱里同様、いくら淡々とした記事であろうとも見過ごす事の出来ない文言を見つけてしまえば、あっさりと心は波打ってしまうのだが。


「気になるものでもあった?」

「どうしてそう敏感かな」

「いけない?」

「いや。別に」


 蹈鞴のどこかぶっきらぼうな物言いに、今度は朱里の方が可笑しくて堪らないとばかりに笑みを零す。耳元で喉を鳴らす彼女の存在を有り難く思いつつ、蹈鞴は今一度その単語を見つけた記事へと視線を落とす。


・桜ノ劇場 公演スケジュール

《霙時計(みぞれどけい)》五日目 十九時~二十一時/指揮 勇魚(いさな)


 最早記事ですらないただのタイムテーブルに、蹈鞴の意識を釘付けにする単語は存在した。蹈鞴たち《鬼姫の紋》が公演を行う三日後に同じ舞台に登る《霙時計》という名の派閥。そしてその下に記載されたひとつの名前。それらを蹈鞴は複雑な心境を宿した目で見つめる。


「蹈鞴、橋が終わるわよ」


 しっとりと囁きかけてくる朱里の声に、新聞へと落としていた目線を前へ向ければ、夜の帳に浮かび上がる情景が遠く見えた。


 延々と続くかに思われた天ノ橋の終端から繋がる地平線。仄青い空の光に輪郭をぼかしたシルエットは大自然の山々か、はたまた人々が住まう建築物群か。いずれにしたところで、常夜の空によって黒々としたシルエットへと落とし込まれたそれらが全貌を明らかにする事はない。


「今回で何回目だっけ?」

「四回目よ。忘れないで頂戴」

「ああ、うん。ごめん」


 むくれる朱里と眺める光景。これよりひと月ばかりを過ごすことになるその都市へ、蹈鞴は自分がどんな感情を抱いているのか判然とさせないままにじっと見据えるばかりだ。


 《四ツ輪》が転がれば橋は終わりに近づくが、今の時節、月夜に覆われた都市から影が取り払われる事は決してない。


 眼前に迫るは堅牢な朱塗りの門。来るものは拒まぬとばかりに扉のひとつもない剛毅なその構えに対して、蹈鞴たちの乗る《四ツ輪》は余りにもちっぽけだ。


 寝息を立てるタチメたちの知らぬうちに、《鬼姫の紋》は桜ノ国へと入国する。

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