ある日うちのネコがワクチンを打ったんだけど

杉浦ヒナタ

第1話 ノブナガ、最大の敵に屈する

「…………」

 おや、今朝はノブナガの声がしない。


 どうしたんだろう、いつもうるさく起こしに来るのに。丁度いい、もう少し寝させてもらおう。


「ちょっと、しずく。ノブナガそこに行ってない? ねえ、しずくってば。もう、まだ寝てるの、いいかげんに起きなさい、何時だと思ってるの!」

 くそう、ノブナガがいないと思ったら、うちの母親か。


「はいはい。何ですか、お母さま」

 布団から顔だけ出して、階下に呼びかける。


「今日はノブナガを予防接種に連れて行く日なんだから。探してくれない?」

 そういえば昨日、そんな話をしていたな。しかし、ノブナガ。どこか町内をほっつき歩いて……いやいや、天下布武に勤しんでいるのだとしたら、探すのは面倒だけどな。


 うちのノブナガ、中の人が並行世界の織田信長とつながっていて、近所の商店街のネコをすべて制圧すると、あっちの世界でも天下布武が成るらしいのだ。

 で、あたしも時々、それに付き合わされているのである。


 ふと見ると、押し入れの扉が少し開いている。なるほど。あたしは音をたてないようにベッドから降りた。


「ここだな、ノブナガ!」

 扉を勢いよく開けると、その中に茶トラのデブ猫が目を丸くしてうずくまっていた。びくり、と背中の毛を逆立てている。


「きさま、蘭丸。大きな声を出すでない、この愚か者め」

 しゃーと威嚇するような声を出した。

「何よ、失礼なノブナガだな」

 仮にも飼い主に向かって。


「そうか。金メダルを食べられなかったから、怒ってるの?」

 ねぎ入り金メダル(冷凍餃子)事件はまだ記憶に新しいところだ。


「愚か者め。金と名の付くモノを出せば、名古屋人なら誰でも食いつくと思ったら大間違いだ。食える物とそうでない物は、ネコでもわきまえておるわ」

 そうですか。でも、派手なものが好きそうなイメージはあるけどな。


 まあいいや。

「お母さん、ノブナガいた……うわっ!」

 ノブナガがいきなり飛びかかってきた。肉球であたしの口を押えようとする。


「静かにせい、そなたの母御前に聞こえたらどうするのだ」

 ははあ。そうか。


「ノブナガ、注射が怖いんだね」

 すとん、と押し入れから飛び降りたノブナガは、片足を上げ無言で体中を舐め始めた。やはり相当に動揺しているらしい。


 やがて全身を舐め終わったノブナガは、のそのそと窓から出て行こうとする。


「さて。今日はどこのネコをやっつけて来ようかのう」

 ふふふと不敵に笑い、窓枠に前足を掛けたノブナガ。ちょっと格好いいけども。


「待ちなさい!」

 あたしは後ろからノブナガの両脇を抱える。逃がしはせんぞ。


「は、離せ。背後からとは卑怯な。わしはお主をそんな小姓に育てた覚えはないぞ」

 もちろんあたしにもそんな覚えはない。こら暴れるな。

 それにしても重いっ。ノブナガ。


「お母さん、ノブナガ捕まえたよ!」

 にゃううう、ノブナガの悲鳴が響いた。


 

「で、何であたしが連れて行かなきゃならないんだ」

 急に来客があったのは仕方ないが、あたしは車の免許を持ってないのだ。

 ノブナガをケージに押し込んで、動物病院までひたすら歩く。


「どうじゃ、蘭丸。ここでわしを見逃してくれれば、そちも楽になるのではないか」

 おお、まさにその通りだ。だけど。

「それこそ悪魔のささやきだね」


 さすが、第六天魔王だけのことはある。でもそんな事をしたら、あとでお母さんに怒られてしまうからな。


「隣の幼なじみとの仲を取り持ってやってもよいぞ」

 な、なんと。それは激しく心が動く提案だ。

「でも、他人から見たらノブナガ、ただのネコだしな」

 言葉が通じるのは、あたしだけらしいし。


 ☆


 やっと、坂の上にある『石山動物病院』へ着いた。よかった、中は涼しい。


「あらー、ノブナガちゃん。またいつもみたいに、びびってるねぇ。うききき」

 獣医の先生が笑いながらケージを覗き込んでいる。


 診察室の奥では、やはり何かの予防接種なのだろう、注射器を目の前にした小型犬が、いまにも死にそうな声で悲鳴をあげていた。


 それを聞いたノブナガも耳を伏せ、完全に開いた瞳孔で、辺りを落ち着かなく見回している。普段みられないノブナガの姿だ。


「び、びびっておる訳ではないぞ。あの注射は、ワクチンとやらによって、体内の邪悪なモノを成仏させるという、いわば他力本願的なものであろう」

「まあ、そうだね」

 正確には違うのかもしれないが。あたしの認識としては、そんなところだ。


「よいか蘭丸。わしの中の邪悪なものが無くなるとはつまり、わしがわしでなくなると云う事ではないか」


 なるほど。それも一理ある。結果、だいぶ薄味の織田信長になりそうだ。

「どうじゃ、納得したか」

 うむ。あたしは、にこりと笑う。


「じゃあ先生」

 あたしはノブナガを、がしっと押さえた。

「ちゃちゃっとお願いします」

「こ、この裏切り者め!」



 翌日、あたしの部屋にノブナガの姿はなかった。


「そうかー。全身、邪悪にまみれていたからな」

 ワクチンで、ノブナガ本体ごと消滅してしまったようだ。

 これは可哀想なことをした。あたしは、そっと手を合わせる。



「そんな訳があるか、愚か者め」

 仰向けになったノブナガは顔だけ上げて言った。

 まあ、確かに。

 今日もまた、ノブナガは朝から庭の日陰で伸びているのだった。

 どうやら天下布武の道は遠そうだ。



 おわり

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