第4話 怪異の前の…
「さて、話もまとまったところでわたしは帰ります」
アイネは立ち上がると、ぱんぱんとスカートをはたいて埃を落とした。
「怪異退治は今夜から始めますので、イチロもそのつもりで」
「え、今夜から?」
急な話におれは思わず声を上げた。
「何ですか、自分で祈里を助けるって言ったそばから撤回するつもりですか」
「い、いや。もうちょっとこう、心の準備とかいろいろあるだろ」
アイネはぐいっと顔を近づけて、少し怒るように眉間にしわを寄せた。
「さっきの話を聞いてなかったんですか? 祈里はすでに狂気に陥ってるんですよ。このまま時間をかければ、いずれ瘴気による汚染で取り返しのつかないことになるかもしれないんです」
「そ、それは……」
「もしかしてイチロ、もう少し祈里の狂気が長引いてくれればキスだけじゃなくてもっといろいろしてもらえるかもしれない、なんて期待してるわけじゃないですよね?」
軽蔑するようなアイネの目に、おれは慌てて首を振った。
「そんなこと考えてるわけないだろ。わ、わかった、完璧に理解した。今夜から早速始めよう」
物問いたげな祈里の視線から顔をそらしつつ、おれは頷いた。
「結構です。それじゃまた夜に。それと、祈里のことはちゃんと見ていてあげて下さいね。もしまた発狂したら、適度に発散させてあげて下さい」
「は、発散?」
「さっきもしていたでしょう」
言われて、祈里の唇の感触を思い出してかっと体温が上昇した。
「言っておきますが、あくまで祈里が発狂したらですからね。自分から迫ったりしないように。偏愛の狂気のせいで祈里が仕方なくしてるということは忘れないで下さいよ」
「わ、わかってるって」
おれに詰め寄るアイネの横から、祈里が顔を覗かせる。
「巻き込んでごめんね、イチロ君」
「い、いや、こっちこそごめんというかなんというか」
祈里から謝られると、狂気のせいでキスをしただけでおれを好きなわけじゃないからとはっきり言われたようで心に来る。いや、わかってる。全部おれの勝手な願望で祈里は最初からおれのことなんか興味がないってことぐらい。
「アイネ、ご飯」
祈里がアイネの服を引っ張る。
「ああ、忘れるところでした。はい、頼まれてた物です」
アイネが少し大きめの紙袋を祈里に渡す。ふわっとパンの香ばしさが鼻をつく。
「イチロ君、一緒に食べよ。お詫びの意味もかねてだから、遠慮しなくて良いよ」
祈里が綺麗にラッピングされたサンドイッチを取り出して、手渡してくる。そういえば今は昼休みだったと思い出し、急に空腹感が襲ってきた。
「ここのお店の好きなんだ」
渡されたサンドイッチからマスタードのツンとした香りと甘辛のソースの匂いが広がり、忘れていた食欲が勢いよく鎌首をもたげる。
「しっかり食べておいて下さいね。怪異退治には体力も必要ですから」
背中を向けるアイネから、01の青い燐光が舞う。それは昨日初めて会ったときも、そしてさっき現れたときも見えたものだ。
「アイネ、それ何なんだ?」
肩越しに振り返ったアイネが、おれが指さしているものに目を向けて頷いた。
「これですか。ああ……エフェクト……です」
「エフェクト!? エフェクトかかってる人間なんていないだろ」
アイネがおれをからかうために冗談を言っているのだと思ったが、その表情は真面目なものだった。
あごに指を当てて、少し思案した後アイネが呟いた。
「そうですね、わたしについてもどうせ後で言うつもりでしたし」
アイネは一度向けた背を戻すと、おれに向き直った。
「先ほど魔術の話をしましたが、怪異に対する知識やそれに対抗する方法はどのように蓄積されて、伝えられると思いますか?」
「え、っと……都市伝説みたいに噂とかでじゃないのか?」
「確かに口伝もそのひとつではあります。ですがそれはあいまいで正確性には欠けますね」
「じゃあ、書物とかか。怪異ものでよくある古文書とか、魔道書みたいな」
「イチロにしては察しが良いですね。そうです、魔術の知識は基本的には魔道書に書き記され、伝えられてきました」
ぴんと指を立てるアイネに、おれは首を傾げた。
「それがアイネと何の関係があるんだ? アイネが怪異とか魔術に詳しいのは、その魔道書を読んでるからって言いたいのか?」
「いいえ、そうじゃありません」
アイネは半分閉じていたまぶたを開き、意外と女の子らしいくりっとした瞳をおれに向けた。
「一応言っておきますけど驚かないで下さいね、イチロ」
それはどういうことだと聞こうとして、おれはアイネの瞳の奥に煌めく蒼い光に気がついた。おれは反射的にその光を目で追い、吸い込まれるようにアイネの双眸を覗き込んだ。
そこには、蒼い煌めきに満ちた夜空が広がっていた。
0と1の無数の羅列によって星々が形成され、それらが無限の暗闇の中に点在している。ひとつひとつに目をこらせば、すべて文字列となっていることがわかった。それらの意味していることはほとんどわからなかったが、直感的に理解できるものもあった。今までアイネに教えられてきた怪異の知識だ。
それ以外――おれにはまだ理解できない何かを意味する文字列。見ているだけで脳の奥にちりちりとした痛みが走り、ぞっとするような冷たさが内臓に広がっていくような気がした。それらを見続けていると危険だと理解していたが、にもかかわらず目を離せずにいた。
さらに身を乗り出して文字を見ようとして――アイネがおれの胸を押しとどめた。
「それ以上はイチロにはまだ早いです」
我に返って、おれは頭を振った。
あのまま見続けていたらどうなったのか。それを考えるのが怖かった。
「今のは……?」
アイネはそれについて直接答えずに、再び半分目を閉じた。
「魔道書は時代によって形を変えてきました。大昔は石版に刻まれ、木簡、羊皮紙、紙などの様々な歴史を経て、イチロもよく知る本の形にたどり着きました。ですが、現代ではインターネットを通じて都市伝説の情報交換が行われるようにさらにその形を変えたのです。つまりは、データとして」
アイネの指先がほどけ、蒼い燐光へと変わっていく。それらひとつひとつが無数の0と1の螺旋により形成され、文字でとなり、知識を形作っていた。
「わたしは電子魔道書アイネ。怪異と戦うために現代で造られた存在です」
*
アイネが立ち去った後、おれは祈里と昼食を済ませて教室に戻っていた。祈里は食事中にほとんど何もしゃべらなかったので普段なら気まずく感じていたが、一度にいろいろと説明されて頭がぐちゃぐちゃになっていたおれにかえってその沈黙がありがたかった。
「ねえ、イチロ君」
ぐでっと机に倒れたおれに、祈里が声をかけてくる。
「さっきのご飯おいしかった?」
「え、ああ、うん。おいしかったよ、ありがとな」
正直考えるのに忙しくて味なんかわからなかったけど。
「ああいう味、好き?」
用がない限り口を開かない祈里にしては珍しく重ねて訊いてくる。おれは不思議に思いつつ、どんな味だったっけと必死に思い出して頷いた。
「そっか。うん、わかった」
何がわかったのかがわからなかったが、祈里は満足したのか話を終えて席を立った。心なしかその歩調が弾んでいるような気もするけど、さすがに気のせいだろう。
「今晩から怪異退治か……」
口にしてみてその非現実さに笑いがこみ上げてくる。昨日実際に自分で経験したにもかかわらず、まだその実感がわいていなかった。
「ねえねえ、イチロ君。ちょっといい?」
顔を上げると、数人の女子がおれの席を取り囲んでいた。
「比良守さんと何かあったの? っていうかあったんだよね、普段一人で食べてる比良守さんとお昼も一緒だったみたいだし」
「二人って付き合ってるの? 何があって付き合うことになったの? 昨日からいきなり変わってるから、昨日何かあったんだよね?」
「比良守さんって二人だとどんなこと話すの? 二人でどんなところ行くの?」
何事かと身体を上げるおれに、女の子たちは一斉に質問を浴びせてきた。
「い、いや……別におれは……」
「どっちから告白したの? やっぱりイチロ君? それともまさか比良守さんから?」
襲ってきたのは向こうから、なんて答えたらとんでもない騒ぎになりそうだ。
「わたしたち比良守さんと話してみたいと思ってたんだけど全然機会がなくてさ。でもイチロ君と仲良くなればしゃべれるかもしれないから、よかったら――」
「ごめん、そこどいてくれる」
おれを囲んでいた女の子たちがばっと振り返る。女の子たちの後ろに立っていた祈里は開いた隙間を通っておれの隣の席に座る。いつもは静かに椅子を引く祈里が珍しく音を立てていた。
「あ、えっと……お邪魔だよね、わたしたち」
無言の祈里のプレッシャーに負けて、はははと笑いながら潮が引くように女の子たちが去って行く
「比良守さん、怒ってた?」
「わかんないけど、なんか不機嫌そう……」
横を通り過ぎていく女の子たちのつぶやきに、おれは祈里の横顔に目を向ける。いつもと変わらない、感情の読めない表情に見えるけど。
そんなことを考えていると、くるっと祈里がこちらを振り返り目が合う。
「ねえ、イチロ君」
別にやましいことをしていたわけじゃないのに見ていたことがバレたかと内心焦りながら返事をする。
「えっと……何かあるのか、比良守?」
おれの言葉に祈里は少し目を細める。
「それ」
「え? それって?」
「名前」
「名前?」
何を言われているのかわからずに首をひねる。そうしている間にも、さらに祈里の目が細くなっていく。何かまずいことをしたのかと思い、冷や汗が流れ出す。
「祈里」
「え?」
「比良守、じゃなくて、祈里でいいよ」
その言葉の意味がよくわからずおれは何度か瞬きをした。そして意味がわかった後で、ぽかんと口を開けた。
「わたしはイチロ君って呼んでるから。それに名字で呼ばれるのあんまり好きじゃないから」
何かを期待するように祈里がおれをじっと見る。
いやいや誤解するな。さっきおれのことは別に好きでもないんでもないってわかったじゃないか。ここで調子に乗ったら気持ち悪いって思われるはずだ。冷静に、冷静になれ。
「い、祈里……」
平静を装ってなるべく自然になるような声を作ったつもりだったが、残念ながら震えまくっていた。
「うん」
それでも祈里は満足そうに頷くと、用は済んだとばかりにスマホを取り出してそちらに視線を落とした。
女の子の名前を呼ぶという今までの人生でほとんどない体験に、無駄に緊張した心臓がずきずきと痛んだ。
祈里のことを助けるって言ったけど、これからも好きでもないのにキスされたりしたら身体が持たない。早く怪異退治を終わらせないと。
決意を新たにしたおれに、アイネからメッセージが届いた。
『今夜のターゲットの情報を送っておきます。目を通しておいて下さいね』
おれはそこに書かれた名前を見て、思わず声を上げた。
ときどき発狂するけど護ってくれますか @kakenaikakeru
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