第3話 狂気の幕開け
昼休み、祈里に手を引かれて校舎裏に連れてこられたおれは物陰に入った瞬間に壁に身体を叩きつけられた。
文句を言う隙もなく、昨晩と同じように唐突に口を塞がれる。
「――んっ」
祈里が小さく声を上げる。
暖かくて柔らかい唇が押しつけられ、ぬるぬるした舌が絡み、ごくりと唾液を飲み込まさせる。息をしようと空気を吸い込むと、鼻腔をくすぐる祈里の甘い匂いで頭がクラクラする。思わず意識を失いそうになるほどの気持ちよさに全身がしびれるが、気を失うことは許さないというように祈里が身体を押し当ててその感触を無理矢理にでも感じさせてくる。
昨日の夜と同じ――いや、あのときは立て続けに起こった現実とは思えないような空気の中だった。でも今は校庭や教室から聞こえてくる人の声、鳥や風のささやき、遠くから響く車の音がこれが現実であることを伝えてくる。それが一層、今祈里にされていることの非現実感と生々しい祈里の感触という相反する感覚を高めていた。
「――はぁっ――はぁっ」
これ以上されると祈里に溺れて窒息する――そんなふうに感じたところで息を荒げながら祈里が身を離した。おれも同じよう肩を揺らしながら呼吸を整える。
鼻先が触れるほどの近さで、お互いの視線が絡まる。
おれはそこで、祈里の瞳の中にこれまで見たこともない昏い光が灯っていることに気がついた。何かの感情とも意思とも異なる、底の見えない孔を覗き込んでいるような感覚に肌が粟立つ。
祈里が短く息を吸い、おれが何か口にしようとしたところへ、
「祈里。また〈発狂〉したみたいですけど、そのまま続けてたら昼休みが終わってしまいますよ」
横合いから声がかかり、おれたちは振り向いた。
肩口のところで切りそろえた青みがかった髪、眠たそうに半分閉じた目の下には深いクマ、幼さを感じる顔立ちだが不機嫌そうに眉根を寄せているせいで少し近寄りがたい印象の少女が、ポケットに手を入れておれたちを呆れたように見ていた。肩口からは01の青い燐光が舞っている。
「アイネ……?」
「ええ、昨日ぶりですね。イチロ」
昨夜アイネと名乗った少女は親しげにおれに声をかけた。
*
「大丈夫ですか、祈里」
「……うん、今は落ち着いた」
おれから祈里を引っぺがすと、アイネは今はもう何も植えられていない花壇に座らせる。自分もその隣に座り、おれを手招きする。
「聞きたいことはたくさんあると思いますから、まずは腰を落ち着けてから話しましょうか」
アイネが祈里を落ち着かせるように背中を撫でる。祈里の目から先ほどあった得体の知れない光は消えて、いつもの感情の読めない瞳に戻っていた。たださっきまでの名残か、頬は少し紅潮し、白い首筋には汗が浮かんでいた。
おれが見ていることに気がついたのか、祈里が顔を上げる。わずかに濡れた唇に、ついさっきまでの感触が生々しくよみがえって――
「イチロ?」
アイネの声にはっとなって慌てて視線をそらす。
「続きをしたいのなら、わたしは外しましょうか?」
ジト目のアイネに、おれは全力で首を振った。
「話! 話をしよう。そう、わからないことだらけだから」
ふっとアイネは鼻で笑い、座れと指を下ろす。え、地面に?
何故か正座をしなければいけないような気がして、おれは小石を払いながら膝をつけた。
「さて、何から聞きたいですか、イチロ」
正直なところ何から聞けば良いのか、頭が整理できてなかった。一度にいろんなことがありすぎて、全部自分の妄想だったんじゃないかとも疑えてくる。
でもそれよりも何よりもまず先に確認しなきゃいけないのは――
「……何ですか?」
――しれっと現れたこいつのことだ
おれの視線に、アイネが訝しげに目を細める。
「本当にアイネ、なのか?」
毎日SNSで怪異談義に花を咲かせていた人物が目の前の女の子だと言われても、まったく飲み込めなかった。
「わたしがアイネだと信じられないってことですか?」
昨日の夜、祈里の襲われるおれの前に突然現れてアイネだと名乗っただけで信じてもらえると思う方がどうかしてる。
おれにアイネという知り合いがいるということは誰にも話したことがない。つまりおれをイチロと呼び、自分をアイネだと名乗ってる時点で信じる以外にないのだが。
「自他共に認めるオカルトオタのせいで、都合の良いときだけ声をかけられて、でも遊びには誘ってもらえずにひとり寂しい高校生活を送っているイチロをただひとりだけ相手にしてくれてるアイネちゃんだと信じられないってことですか?」
「オカルトオタじゃない、怪異系オタクだ。ってかなんでそんなこと知ってるんだよ」
アイネは何ででしょうねというわざとらしい表情を作りながら、祈里を見る。
「祈里とも知り合いだったのか……」
祈里に友達がいるという話を見たことも聞いたこともなかったが、まさかアイネと知り合いだとは思わなかった。
「安心して下さい。イチロに友達がいなくても、わたしがイチロのことを唯一相手にしてくれる女の子だということは変わりませんから。わたしにはたくさん知り合いがいて、イチロはその大勢の中のひとりだとしても」
「その悪意のある慰めはやめろ。あと、友達はいるわ」
たぶん。
「ああでも、わたしが唯一相手にしてくれる女の子だからといって勘違いしないで下さいね。わたしは誰にでも優しいのであって、イチロに対してだけ特別優しいわけじゃないんで」
「さっきから優しさの欠片も感じられないのに、どうやって勘違いしろっていうんだよ」
「べ、別に勘違いしないで下さいね。あなたにだけ特別優しいわけじゃないんだから」
「セリフの問題じゃない。あと、言うならせめて感情を込めろ」
おれは額に手を当ててため息をついた。今のやり取りで、なんとなくこいつがアイネだと実感できてしまった。
毎日チャットしてた相手が同い年ぐらいの女の子だったなんて、どんな怪異譚よりも現実離れしてる。
しかし相手がアイネだと言うことがわかると、自然と疑問が口をついて出た。
「昨日のアレ……何だったんだ?」
赤いコート。耳元まで裂けた口。欠損した片足。振り上げられた鎌。得体の知れない影。現実感のないそれらが、脳裏にまざまざと蘇ってくる。
「怪異です。イチロも知っているとおりの」
アイネのあっさりした答えに、おれは身を乗り出した。
「怪異って……そんなのあるわけないだろ。だいたい昨日アイネはおれにカシマレイコって言ったくせに、出てきたのは口裂け女とカシマレイコの特徴が合わさったものだったじゃないか。確かにつながりはあるっていう説はあるけど、口裂け女カシマレイコとして出現した話なんて聞いたことないぞ。第一、撃退ワードを言った後に残った影は何だよ。比良守が唱えた呪文みたいなのも、あんなの聞いたことがないぞ」
「はいはい、どうどう、イチロ。落ち着いて下さい。順番に答えますから」
勢い込むおれを抑えるように、アイネが両手を突き出す。
「まず最初に怪異ですが、目撃例のほとんどが特徴の一致する人物や事件が偶然あったというものやただの創作でしかありません。でも、昨日イチロが実際に遭遇したように本物も極まれにあります。イチロだって、本当の怪異を見てみたいって常々言ってたじゃないですか」
「そりゃ……まあそうだけど……」
それは実際に遭ってみる前の話だ。
「怪異とは人の強い想念により引き起こされる事象です。怪異が発生する条件はいくつかあります。多くの人たちの思念が集まり、よどんで溜まった場合。まあだいたいが負の感情ですから、人に危害を加える怪異ばかりですね。それ以外に人間が怪異になってしまう場合。恨みなどの強い感情を溜め込むことで存在自体が変わってしまいます」
アイネが指を一本一本指を立てて見せる。
「まあ、怪異系で定番の設定だよな」
「ほかには、怪異を発生させる要因がある場合です」
三本目の指を立てるアイネに、おれは首を傾げる。
「発生させる要因って?」
「怪異を発生させるような負の力を持つものですね。例えば曰く付きの品物とか、過去に悲惨な事件があった史跡とか」
「ああ、殺生石とかそういうやつか。でもこの街でそんなの聞いたことがないぞ」
それに殺人事件とか自殺、一家心中とかも聞いた憶えがない。
「……まあ、原因についてはわたしもまだ調査中です。ですが事実として今この街では怪異が発生して、昨日イチロが襲われたような事件が起こっているんです」
「でも最近事件が起きているなんて聞いたことがないぞ」
地元のニュースを毎日眺めてるわけじゃないけど、さすがに噂ぐらいにはなっていそうなものだ。
「それを説明する前に、イチロに確認しておきたいことがあります。イチロは、昨日あった出来事を全部憶えていますか?」
それまで眠そうに半分閉じられていたアイネの瞳がわずかに開かれた。それまでゆるかったアイネの周囲の空気が、少し重くなる。
「憶えてるかって……そりゃ憶えてるけど。てか忘れろってほうが無理だろ」
いろいろと。本当にいろいろと、忘れられるわけない。
「本当ですか? 憶えてることを話して下さい。全部」
「ぜ、全部って……」
「全部、正確に。ことの始まりから終わりまで、一部始終を詳細に」
「しょ、詳細にって……」
助け船を求めて祈里に視線を送るが、本人は退屈そうに頬杖をついて明後日の方向を見ていた。
「イチロ、大事なことなんです」
身を乗り出してきたアイネが、おれの頬を両手で掴んで無理矢理視線を合わせる。鼻先が触れそうになるその距離におれは再び心臓が早くなるのを感じた。
「さあ、答えて下さい。昨日何があったか、イチロがどこまで憶えているかを」
抑揚のない、事務的とも言える口調だったが、ささやくように耳元で言われて産毛が逆立つ。反射的に離れようとするがアイネの掴む力は思った以上に強く、逆にさらに近くに引き寄せられる。
「はら早く、全部吐き出して下さい。イチロの中に溜まってるものを、全部」
アイネの吐息がゾクゾクと耳の内側を撫でる。
「あー、わかった! わかったから離れろ!」
何かが爆発する前に、おれは降参することにした。
「ご協力感謝します、イチロ」
アイネはあっさり手を離しておれを解放する。その表情は相変わらず眠そうだったが、口元がかすかに笑みを残していた。
「話せばいいんだろ、話せば」
からかうアイネから顔をそらして、昨日のことを思い出せる限りに話した。アイネから聞いた場所に行き、口裂け女に襲われ、祈里に助けられて襲われたこと。さすがに祈里にされたことはぼかして話したが、アイネは問い詰めるようなことはしなかった。
「なるほど、わかりました。確かにイチロはちゃんと全部憶えてるみたいですね」
話を聞き終わって、アイネは頷いた。
「だから忘れられるわけないって言っただろ。初めて怪異に出遭ったんだぞ」
「いいえ、それは違います。普通の人なら、怪異に遭って記憶を保つのは難しいんです」
首を振るアイネに、おれは首を傾げる。あんな衝撃的な体験をして、憶えていられないってどういうことだ。
「怪異が現れるとき、その周囲には瘴気のようなものが同時に発生します。目には見えませんし、匂いがするわけでもないですから、自分がそれに触れているということに気がつくことはできません」
アイネが空気を掴むようにゆっくりと手を動かしてみせる。
「ですがそれに触れると、人間の精神に影響及ぼします。それによって、普通の人間は記憶の混濁や喪失が起こります。ひどい場合は精神錯乱を起こします。だから怪異と遭遇して起こった事件はたいていが本人が憶えておらず事故として処理されたり、異常者の信憑性のない証言として処理されます」
「だからおれに憶えてるかどうかを確認したのか。でもアイネの言うことが正しいとしたら、なんでおれは憶えてるんだ?」
「瘴気への耐性は個人差があります。イチロは普通の人よりも耐性が高いんでしょう」
怪異好きとして適性は高かったのかと感動していると、アイネが指を突きつけてきた。
「でも耐性が高いからと言って、瘴気の影響を受けないわけじゃないですから気をつけて下さい。というより耐性が低かろうが高かろうが確実に影響は受けています。表に出ていないだけで」
「そのうちおれも記憶を失うのか?」
自分で言って、その言葉の意味にぞくりと背筋を震わせた。
「今のままならそういうことにはならないでしょうが、今後怪異との遭遇を重ねていけば間違いなくそれ以上の影響が出ます。わたしはそれを正気度と呼んでいますが、怪異と接触することでそれが徐々に削られていくのです」
「削られると、どうなるんだ?」
「さっきも言ったとおり、記憶喪失や精神錯乱に陥ります。ですがあまりにも多く正気度が削られた場合……」
アイネは一度言葉を切って、おれを正面から見つめた。
「発狂します」
おれはその意味が飲み込めず、鸚鵡返しに呟いた。
「発狂……って?」
「言葉の通り、精神に異常をきたします。突然暴力衝動に駆られたり、大声で叫び続けたり、幼児退行したりなど、発狂したことによる狂気症状は様々です」
「おい、それってもしかして……」
アイネが現れたときに言った、発狂っていうの、
「もうわかったみたいですね。祈里は、発狂してるんですよ」
おれは弾かれたように祈里を見た。
「……」
いつも隣の席でそうしているように、祈里は感情の読めない瞳をおれに向けている。発狂しているような様子はない。
それでも昨日の夜や、さっきおれにしてきたことは……、
「偏愛。祈里の狂気を表すならそれが一番適切ですね。ある特定のものや人を異常に愛する衝動。突然イチロを襲ったのもそれが原因です」
おれを襲ったときに祈里の目の中にあった異様な光の正体はそれだったのだ。
「でも……なんでおれなんだ?」
自信を持って言えるが、好かれるようなことをした覚えがない。隣の席だというのに今までまとも会話したこともない。
アイネは眉根を寄せて、口元に指を当てた。
「発狂したときにそばにいたのがたまたまイチロだったから、かもしれません。瘴気によって引き起こされる狂気は個人差が大きく、偏愛というのもその表現が近いからというだけです」
「そっか……」
なんか安心したような残念なような。
「でもたまたま近くにいたおれが対象になったってことは、もしかして祈里は今までにも発狂して他の人に対して同じようなことを……?」
それを想像して胃が落ち込むのを感じた。別に祈里は彼女でも何でもないんだから、勝手にそんなことを感じること自体失礼なのに。
アイネはおれの考えてることなんかお見通しというように、わざわざ大きくため息をついて見せた。
「恋人でもないのに勝手に祈里の低層を気にする気持ち悪いイチロにとっては朗報だと思いますが、祈里が発狂したのは昨日が初めてですよ。付け加えるなら、初めての相手もイチロだそうです。良かったですね」
「うん」
恥じらいもためらいも一切なく、アイネの言葉に祈里が頷いてみせる。嬉しいような、まったく相手にされてないことがわかって悲しいような。
「誤解されるようなことを言うな! 口だから! 口しかされてないからなっ!」
言ってから、アイネのじとっとした視線と祈里の何の感情もない瞳に気がついて全力でこの場から逃げたくなった。
「って、それよりもその狂気は治らないのかよ」
ふたりの視線に耐えきれず、おれは急いで話題を変えた。アイネは呆れたように首を振ったが、追い詰めてこなかった。
「一度発狂してしまえばそう簡単には治りません。長い時間をかけて正気度を回復する方法はあります。ですが今この街は怪異が顕れるようになっているため、瘴気による汚染は続きます。今のままでは治ることはないでしょうね」
「じゃあどうすればいいんだ?」
「簡単です。瘴気をなくすために、怪異を消せば良いんですよ。昨日祈里がやっていたように」
おれは昨日のことを思い出して、引っかかっていたことを口にした。
「おれたちは口裂け女とカシマレイコを撃退するための言葉を言ったはずなのに、あの怪異は消えなかったぞ。正確には黒い影みたいなのが残って、それを比良守が呪文を唱えたらそれも消えたけど、あれは何だったんだ。都市伝説で言われてるとおりなら、撃退ワードを言った時点で消えてなきゃおかしいだろ」
「それが今この街で起こっている怪異をややこしくしている点です。あの影は怪異を発生させている力の源が消えずに残ったものです」
アイネが困ったように眉根を寄せて、額に手のひらをつける。
「消えずに残ったって、どういうことだ?」
「言葉の通りです。この街で起こっている怪異の裏にある力が強すぎて、都市伝説などで語られている通りの対処法では完全に消滅させることができないんです。だから残った力を消すための魔術が必要になるんです。祈里が唱えた呪文、あれがその魔術です」
「魔術って、怪異からはずいぶんかけ離れた単語が出てきたな」
「何言ってるんですか、イチロ。怪異同好会にあるまじき発言ですね、それは」
アイネが小馬鹿にするように指を振ってみせる。
「怪異は昔から人の歴史と共に続いてきたものです。時代を重ねる毎に怪異を調伏するための方法は研究されてきたんですよ。陰陽術など様々な呼び名で呼ばれていますが、今ではそれらを総じて魔術と呼んでいるんです。ですから、怪異に対処する歴とした方法なんですよ」
「確かに目の前で見たわけだから、否定はできないけど。でもそれがあれば怪異は何とかなるってことなんだな」
「それはそうなんですが、問題なのは魔術を使う際にも正気度が削られるという点です。だから魔術を使えば怪異に対抗できるというのはその通りなんですが、それにも限度があります」
「使い続ければ発狂するってことか」
「発狂は、正気度が削れたことによる症状のひとつでしかありません。正気度をすべて失ってしまえば、よくて精神崩壊を起こして廃人、最悪の場合は死に至ります」
「死ぬ……って……」
祈里を見る。そこには恐怖も何の感情も見えず、ただアイネの言うことをそのまま受け止めている女の子がいた。
「何で祈里は自分が死ぬ危険を冒してまで、怪異と戦ってるんだ?」
「それは祈里の家が関係しています。わたしが話すことでもないので、詳しくは本人から聞いて下さい」
「退魔士の家系とか、そういうものってことか……」
一度にたくさんのことを聞かされて痛み出した頭を押さえた。説明してもらったとはいえ、昨日からこっちの出来事をすべて消化するのは時間がかかりそうだ。
「さて、ここからが本題です」
「え、今のが本題じゃないのか?」
「イチロの疑問にただ答えるだけなら、チャットで済ませます」
アイネがぞんざいに手を振る。チャットで説明されて納得いくわけないだろ。
「祈里が発狂してしまったので、これ以上の魔術使用はできません。しかしこの街の怪異は消えたわけではなくまだまだ強く残っています。ですから、祈里の代わりに怪異と戦う代わりの人材が必要になります」
「代わりの人材って……それこそ警察とかに頼るとかできないのか?」
「イチロは口裂け女に襲われたって、警察に言えますか? それで助けてくれると思いますか?」
良くて無視、悪くて病院行きだ。
「それにさっきも言ったとおり、耐性の高い人間は滅多にいません。警察が協力してくれたとしても、瘴気に触れてあっさりと発狂して終わりでしょう。だから瘴気への耐性が高く、怪異に対する知識や理解があり、足手まといにならない程度に役に立つ人物が必要です」
アイネの言いたいことを察して、おれは後ずさった。
「飲み込みが早いですね、イチロ。あなたに、祈里の代わりに怪異と戦ってもらいます」
「い、いや無理だろそんなの。第一おれは普通の家の出だぞ。魔術なんて使えないぞ」
「それについてはわたしがサポートするから安心して下さい。イチロは無駄に蓄えた怪異知識を使って、正気度を減らしてくれるだけで良いですから」
「それのどこに安心しろって言うんだよ。昨日だって、おれは全然動けなかったんだぞ」
口裂け女と対峙したときのことはまだぼんやりとした実感しかないが、同じ状況になって祈里のように戦えるとは思えなかった。
「それに、戦い続けるとおれも発狂するんだろ、そんなの――」
「あなたを助けて祈里は狂気に陥ったんですよ、イチロ」
見開いたアイネの双眸がおれを捉えた。そこにはさっきまでのからかいや小馬鹿にするような色はなく、混じりけのない真剣な光がたたえられていた。
「あなたは祈里が発狂した責任を取るべきなんですよ」
その言葉は、すとんと抵抗なく腹の中に落ちた。
祈里が何のために戦ってるのかとかそんなことは関係ない。
そうだ、おれは何よりも一番最初にこれを祈里に言わなきゃいけなかったんだ。
「祈里」
おれはまっすぐに祈里を見る。いつも見ているのと同じ、感情の読めない瞳がおれを見返してくる。
「助けてくれて、ありがとう」
そして、
「今度はおれが助けるから」
頭を下げるおれを、祈里はわずかに眉尻を下げた表情で見た。
「うん、お願い」
それから、いつもとは違う何かの感情をにじませて言った。
「イチロ君、わたしを助けて」
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