第2話 正気の終わり

 水音が小さく響く。

 二人分の荒い息が、四月の肌寒い空気の中に白く帳を作る。

 唇が押し当てられ、歯の隙間を舌がこじ開けて入り込んでくる。ぬるっとした粘膜同士が触れ合い、生暖かい唾液が喉奥に流し込まれる。

 呼吸をするために唇が離れると、つぅっと透明な糸が伝う。

 おれは視界の中で肩を揺らして息を整える祈里を、呆然と見ていた。

 いつもの感情のない瞳とは違う、熱っぽく潤んだ双眸がおれを映している。

 冷たい氷のような頬は上気し、燃えるように朱色に染まっている。

 鼻先にかかる祈里の吐息が、甘く蠱惑的な匂いを鼻腔に運んでくる。

 意識を失いそうになるほどの心地よさに抗って、おれは祈里に声をかけようとする。

「もう少しだけ……我慢っ……して……」

 開きかけたおれの口を、祈里が再び自分のそれで塞ぐ。祈里の舌がおれを味わうように口の中を丹念になめる。

 重ねた祈里の口から小さく声が漏れるたびに、ゾクゾクと全身に甘美なしびれが走った。

 強く唇を押しつけられるたびに頭がアスファルトの地面をこすったが、そんな痛みもまるで気にならなかった。

 上から身体をかぶせられているため、否応なく祈里の凹凸をわからされる。じんわり伝わってくる体温と早鐘のような鼓動が、状況が飲み込めずに混乱する頭とは裏腹に身体を昂ぶらせていく。

 どうしてこんなことになったのか、とぼんやりする頭でおれは考えた。

 おれはアイネから情報を聞いて怪異を探しに来て――怪異に遭遇した。


 見上げた空には満月。

 蒼ざめた光が祈里に影を落とし、その瞳に浮かぶ正気を失った光を鮮やかに映し出した。


   *


 朝からずっと、身体がふわふわしたように感覚がなかった。

 起きたときから頭は熱帯びているようで、自分を一歩後ろから見ているような非現実感。

 学校に来て自分の席に座り、いつも通り授業を聞いている今もまだ夢の中にいるようだった。

 ちらっと隣の席に目をやると、そこには普段と変わらない祈里の姿があった。表情の読めない瞳を黒板に向け、頬杖をついている。

 本当に昨日、祈里は――


「おい、真渡。この問題の答えは? ん? なんだ口元ばっかり触って、腹でも減ってるのか?」


 先生に当てられて、おれはびくっと跳ねる。気がつくと、指で唇をなぞっていた。

 慌てて立ち上がり先生に言われた教科書のページを開くが、普段なら答えられそうなぐらいの問題だったにもかかわらず頭の中は真っ白になってて答えは出てこなかった。

「す、すいません。わかりません」

 正直に答えると、先生はため息をついて座って良いと手で促す。座ろうとしたとき、何人かよく話す友達がにやにやと笑っているのが見えた。うるさいと手を振って、おとなしく席に着く。

 もう一度祈里を見たが、眉一つ視線一つ動かさず、微動だにしていなかった。おれのことなんか興味がない、というより眼中にないというように。

 やっぱり昨日のは夢か何かだったんだろう。多くの男子生徒の視線を釘付けにしながらも、恋愛事に一切興味関心を持たない祈里がおれに迫ってくるはずがない。

「そうだな……じゃあ隣の比良守、答えてみろ」

 先生が祈里を指したが、それに対して何の反応も返ってこなかった。

「ん、聞こえてなかったか? 比良守、この問題を答えられるか?」

 首を傾げつつ先生がもう一度声を上げると、祈里は目を瞬かせて慌てて立ち上がった。そのらしくない姿に、何人かがどうしたんだろうとささやき合う。

「え……っと、すいません。わかりません」

 祈里の答えに、先生は驚いたように目を見開き、ささやき声はさらに大きくなった。祈里はおれよりも成績が良く、普段のおれなら答えられそうな問題が答えられないなんてことはないはずだった。

「そ、そうか。わかった、座って良い。ちゃんと授業を聞くようにな。しかし真渡はともかく、成績優秀な比良守も答えられないなんて、お前たち何かあったのか?」

 からかうように先生が言うと、はははっとみんなから苦笑が漏れる。当然だ、祈里がおれなんかと何かあるはずがない。

 はずがない、んだけれども――


「な、何も……ない、です……」


 声をわずかにうわずらせて答える祈里に、クラス中がシンとなった。

 それ、絶対に何かあったやつが言う台詞じゃないか。

 全員の視線を受け止めながら、祈里が椅子に座り直す。そのとき、一瞬だが祈里の視線がおれと合ったような気がした。

 先生が一拍遅れ、気を取り直して次の生徒を当てるが、クラスのそこかしこで聞こえるほど大きなささやき声が上がりはじめる。中身は当然祈里とおれについての話題だ。

 しかしおれはそんなことは気にならなかった。頭の中を占めているのはたったひとつのことだけだ。

 昨日のことは……本当にあったことなのか?


   *


『噂を総合すると、目撃証言のあった怪異はカシマレイコです』

 日付が変わる少し前、おれは家を出てアイネから聞いた場所に向かって歩いていた。

 カシマレイコはかなりポピュラーな怪異だ。カシマさまと呼ばれたり、話そのものもバリエーションが多くある。多くの場合で共通しているはカシマレイコ自身が身体の一部が欠損もしくは火傷等の傷を負っていること、問いかけを受けた場合適切な答えをしないとこちらの身体の一部を奪われるというものだ。

『イチロなら対処方法はわかってますよね。わざわざ教える必要はないですよね?』

 こちらを試すようなことを言いながら、対処法を次のメッセージで送ってくるのがアイネの良いところだった。

 でも素直にありがとうというのは負けな気がしたので、『このツンデレ』というスタンプだけ送っておく。

 アイネから送ってもらった対処方法を眺めつつ、おれはふと疑問が浮かんだ。

 怪異にも出現条件というものがある。それは特定の場所だったり、モノだったり様々だが、カシマレイコの場合は『カシマレイコの話を聞く』ことが条件になっている。しかしアイネがおれに伝えてきたのは出現場所だ。

 その出現場所はこの街でもあまり人が住んでいない地域で、小さな廃工場や廃屋も点在しており、ホームレスなどが寄りつくため夜間は近づかないようにと言われているところだ。それゆえにいろんな怪異の噂があるところだが、今までカシマレイコが出たなんて話は聞いたことがない。

 思ったことをアイネに言うと、すぐに返信が来た。

『だから、今伝えたじゃないですか』

 アイネのその言葉に、おれは足を止めた。

『だから、カシマレイコの話ですよ。今イチロは聞いたじゃないですか、わたしから』

 ちょっと待て、なんだかその言い方は……。

 おれは周囲から音が消えていることに気がついた。

 アイネと話しながら歩いてきたからあまり注意していなかったが、大通りから外れてすでに教えられてた出現地域に入っていた。街灯もあまりなく、細くなった路地のあちこちに暗闇で見えない場所ができている。

 家を出るときは気にならなかったが、四月の半ばを過ぎて暖かくなってきたはずの夜気がやけに肌寒く感じた。

 今までに何度か夜にこの地域に来たこともあったし、ほかにも心霊スポットをひとりで回ったことはある。一度も途中で帰りたいと思ったことはなかったが、今日は何故かそう思った。

 アイネに一言言ってから帰ろうかと思い、スマホに目を落としたところで、


「ねえ、わたしきれい?」


 そばの暗がりから、そんな声が聞こえてきた。  

「はい?」

 反射的におれが聞き返すと、影が動いた。

 一歩、人ひとり分の黒い塊がおれに近づいてくる。つられるようにおれは一報しろ似下がった。

 さらに一歩、距離を詰めてくる。暗がりから抜けて、人影が薄い月の光に照らされる。

 赤いコートに身を包んだ何かがそこにはいた。

 服の袖から覗く病的なほど白い手には、身長を超えるほど長い棒を手にしている。

 腰に届くほど長い髪の隙間から見える女性的な顔つき。

 しかしその片足は、影を切り抜いたかのように失われている。

 さらに――


「これでも、きれい?」


 ――マスクを外したその下。その口は耳元まで大きく裂けている。

 裂けて赤く爛れた口の肉を震わせて、その人影が再び「わたしきれい?」と尋ねてくる。

 口裂け女。

 身体は動かなかったが、やけに冷静な頭はその名前をはじき出していた。

 間違いなく目の前にいるのは、口裂け女だ。何度も何度もそれについての話は読んだし、耳にしたこともある。

 一番初めの問いかけに対して、おれは適当に、はいと答えてしまった。それは口裂け女に対して一番してはならない答え。そのせいで口裂け女がマスクを取り、その醜く裂けた口を開いて「これでもきれい?」と続け、次の段階に入ってしまった。

 口裂け女を退散させるためのキーワードは確か――


「その足、いる?」


 次の言葉に、おれは思考すら停止した。

 その台詞は口裂け女のものではない。その台詞を言うのは、


 振り下ろされた何かが、おれの足を通過していく――


 いつの間にかおれは後ろに倒れ込んでいた。それから、足に走った熱、じわじわとズボンを濡らしている何かに気がつく。

 口裂け女が持っていた棒の先端、鎌のような刃がついたそれからも黒い滴がこぼれ落ちていた。

 切られたのだとわかったのは、遅れてやってきた痛みに顔をしかめてからだった。

 足、おれの足はどうなった?

 どっと汗が噴き出す。口からは自分のものとは思えない奇妙な叫び声が漏れ出す。

 見たところ足はくっついているようだったが、どれだけ深く切られたのかはわからなかった。

 逃げなきゃ。逃げなきゃ。

 頭の中ではうるさいほど逃げろと自分が言っていたが、身体は震えるばかりで動こうとしない。

 口裂け女が再び鎌を振り上げながら近づいてくる。次は間違いなく、足が切断される。

 ドクドクと心臓が痛いほど鳴り響く。指先の感覚がなくなり、生暖かい汗が首筋を流れ落ちる。自分の呼吸音がやけに大きく聞こえた。


 後ろから転がってきた小石が手に当たった。


「え?」

 おれのそばに影が伸びる。

 顔を上げると、口裂け女の顔がおれに向いていないことに気がついた。

 砂利を踏みしめる音ともに、誰かがおれのそばを横切る。

 弱い月光の中で、濃い紅茶色をしたセミロングの髪が踊る。

「……ひらか……み……?」

 普段の感情のない表情とは違う、張り詰めた緊張感と強い意志を感じさせる瞳で祈里が口裂け女と対峙した。

 鈍色の光が閃く。それが口裂け女が鎌を祈里に向かって振り下ろしたものだとわかったのは――


「少し待ってて、イチロ君」


 ――祈里の両の手がその凶刃を挟み込んで止めた後だった。

 おれは逃げろ、という言葉を飲み込んで祈里の背中を見た。普段教室で見るどこか存在感のないそれとは違い、この非現実的な世界の中で唯一現実を感じられる強さを持っていた。

「あなた、カシマレイコさんなんでしょ?」

 祈里が手を震わせて鎌を受け止めながら、鋭く息を吸う。

「カシマレイコさんお帰り下さい。カシマレイコさんお帰り下さい」

 それはカシマレイコを退散させるための言葉だった。

 ぴたりと鎌の動きが止まる。耳元まで裂けた口が、苦しげにゆがんだように見えた。

「……その足、いる?」

 その質問に、祈里は素早く答えた。

「今必要です」

 それがカシマレイコの問いかけに対する正解。相手がカシマレイコならそれで終わりだ。


 鎌に再び力が込められ、祈里が目を細めた。


 相手が、カシマレイコなら。

 祈里がどうして、と疑問を口にする。どれだけの力が込められているのかわからなかったが、鎌は徐々に祈里に近づいていた。

「逃げて、イチロ君」

 祈里が苦しげに顔をしかめながら、おれに振り返ってそう言った。

「逃げて」

 鎌を挟み込む両手はぶるぶると震え、白くなっている。祈里が限界なのは明らかだった。

 だけれども、祈里のおかげでおれは落ち着きを取り戻していた。

 震える喉は息を吸おうとして一度咳き込んだが、二度目はかろうじて空気を肺に通すことができた。

 退散のキーワードは、もうひとつある。

「ポマード、ポマード、ポマード!」

 それは口裂け女の弱点である言葉。

 最初の時点でおれは気がついておくべきだった。

 口裂け女とカシマレイコは別々の名称、エピソードで語られることが多い。しかし同一存在であると言われることもある。口裂け女の証である赤いコートとマスク、耳元まで裂けた口。そしてカシマレイコを示す身体の一部分の欠損と鎌。

 つまり目の前にいるのは、口裂け女『カシマレイコ』だ。

 おれの叫び声と共に、口裂け女カシマレイコは鎌から手を離し、声のない悲鳴を上げながら崩れ落ちた。ざわざわと身体の表面が波打ち、色彩を失って黒い影へと変わっていく。

 生きているように蠢くそれを見ながら、おれは震える膝で立ち上がった。

 これで終わったのか?

 その考えを否定するように影は不規則に動くのをやめると、ゆっくりと鎌首をもたげた。

 口裂け女のような爛れた口もなく、カシマレイコのような凶刃も持たないそれは、暗闇の中でもさらに黒く、見ているだけでどこまでも落ちていく深淵が覗いているようだった。おれは背筋に氷を押し当てられたように全身を震わせ、後ずさった。

 祈里が影とおれの間に立ちはだかった。

 目の前の影にも動じた様子のない祈里は、そこから表紙がぼろぼろになった小さな手帳を取り出した。片手で器用に手帳を開くと、びっしりと文字が書き込まれたページが露わになる。何かの言語が手書きの文字で書かれているようだったが、その内容はわからなかった。

 ただその文字を見ただけで、頭がぎりぎりと締め付けられたように痛んだ。

 静かに、祈里が息を吸った。


「×××××××××××」


 祈里の口からが何かが紡がれた。

 リズムが狂った歌詞のような、意味のある言葉とは思えない音が頭をぐらぐらと揺らす。聞いているだけで世界が歪み、体内さえもひっくり返っていくような気持ち悪さに身体がよろめく。

 緑色の燐光が祈里の身体から生じ、渦となって影を取り囲む。表情を浮かべる顔さえなかったが、影は緑の渦の中で悲鳴を上げるように身をよじった。

 それがどれくらい続いたのかわからなかった。ほんの数秒だったのかもしれないし、数時間だったのかもしれない。ただ気がつくと、周囲には慣れ親しんだ夜の平穏が戻っていた。

 そこには影はなく、手帳を片手にした祈里が立っていただけだった。

 どう声をかければいいのかわからなかったが、おれは何か言おうと口を開きかけた。

 それが音を成す前に、祈里が膝から崩れ落ちる。

「――っ、はぁ――、はぁ――」

 胸を押さえて、祈里が痛みをこらえるように大きく呼吸を繰り返す。

「だ、大丈夫か」

 駆け寄って顔を覗き込むと、祈里は額に大粒の脂汗を浮かべてもだえていた。

「い、イチロ君……」

 祈里が上目遣いにおれを見る。その瞳には、感情とは異なる光が瞬いていた。必死に何かをこらえようとするように、肩を大きく揺らして荒く息を吐き出す。

 どこか怪我をしたのかと思ったが、何も見当たらない。

「もう駄目……限界みたい……」

 限界って何が、という言葉は空に消えた。

 ものすごい力でおれは地面に押し倒され、祈里がおれに馬乗りになる。

「――ごめんね」

 何がと訊く前に、おれの唇は祈里に塞がれた。

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