最終話 役割分担(六・完)
役割分担。そう幸利が言ったことがあった。外で現金を稼ぐのが幸利、家の中のことは美里だというのだ。しかし、それは応分の分担ではない。
育児と家事。よく並びたてられるが、その二つは等価等量ではない。家事はしなくても誰も死なないしホームヘルパーへの外注も可能だ。だが、育児をしなければ子どもはダメになるか、最悪、死ぬ。また、保育園やベビーシッターへの外注には限界がある。例えば、夜間も預かってくれるところは僅少だし、そうひんぱんに預けるのも難しい。世間の目もある。
仕事で毎日疲れ切っているという幸利に嘘はなかったし、美里がそれを理解していたのは事実だ。だが、仕事の疲れを理由に、週末を自由に過ごされては、幸利に父親として子どもと接するつもりはあるのかと不信感を抱かざるをえない。仕事の疲れを理由に家族を放置できるなら、それは家族にとっては単なるATMであり、ただのATMは家族には不要だ。金だけなら、離婚して養育費を入れさせればいい話だ。養育費をまともに払う男は少数派だが、払いが悪ければ催促のために人を雇ったっていい、そんなふうに美里は思い始めていた。出産を計画的にしようという美里の申し出に、子どもは多いほうが楽しいと子どものように言う幸利を見てからだ。
育児という家族にとって最大の責務を分担せず一方的に放棄している父親と決別することによる、将来への不安と自分を取り戻す希望。苦痛は真宮子に吸収され、代わりにそれらが取って代わった。
「誰だか知らないけど、ありがとう。これで別れられるわ」
美里は真宮子の顔も見ずに礼を言った。
「タダじゃないわよね?」
「あなたがご自身で調べたことにしてください」
苦痛を喰い恍惚とした表情をしている真宮子に美里は食い下がった。
「いったいどうしてわたしたちのことを知ったの?」
「それは……秘密です。まあ、ある依頼者があった、とだけ」
その依頼者は幸利で、真宮子は幸利の思っていたのとは違う解決の仕方を提案しているわけだ。
「こんなことして、あなたにいったい何の得があるのかしら」
美里は納得がいかない様子だ。
「あなたのようなご苦労された女性が救われるのであれば、それ以上に望むことはございません。あえて言えば……あなたがずっと旦那様に軽んじられてきたことに耐えてきた、その苦痛がお代金です」
「それで、どうなったんだ」
「旦那様から慰謝料と養育費は十分にとれそうだということですわ。SNSで今でもたまにやりとりをしています」
「SNS」
「ソーシャルネットワーキングサービスですわ。教えていただきましたの。そこで、ぜひとも困りごとをもった方をご紹介いただきたい、とお頼みしております」
血まみれメイドは、お茶の注がれたカップを少年の目の前に置いた。
「五人も子どもがいれば仲は良さそうにも思ったが」
「結婚して一年ごとに子ども一人を産むというのはおなかのなかにいつも赤ちゃんがいるような状況です。ゼロ歳児含め五人であればそんな生活が五年ずっとです。同居の親族がいて代わりに面倒を見てくれるのであれば別ですが、それもおらず核家族。子どもをちゃんと預けてネットカフェに行くなんて、とってもしおらしいとは思いませんか? 子どもだけ家に置いて逃げ出してもおかしくないです。実際、父親はそうしてるわけですから。朝早く出勤し夜遅く帰り、週末は出かける父親。亭主元気で留守がいいといって割り切れる方ばかりではございません。わたしにとってはさいわいなことに、美里さんはそういう方ではありませんでした。濃厚な苦痛が熟成されていましたわ」
「そんなものかね」
少年は人間だったもはや遠い時代を思い出そうとしていた。親の記憶はとうの昔に消え果てていた。
「で、その幸利はどうしてるんだ。ここに殴り込みに来るんじゃないのか」
「報告は済ませました。『美里さんはずっとネットカフェにいた。浮気はしていない』。これが事実ですもの。そのときの録画もございますわ。見ます?」
少年はやれやれ、といったていで手を振った。
「どうせ『無料だからろくに調査していないに決まっている』だろ」
「よくおわかりですね」
「それにしても、よく幸利の浮気がわかったな」
「まあ、幸利さんのお話を聞けば、奥様は苦労されているとわたしにはすぐにわかりましたし、そういう殿方ほど、承認欲求を歪に求めるものですから」
「しかし……その美里とかいう女も大変だな。子どもを五人も抱えて。いくら慰謝料と養育費が出るといっても大変だろう」
「そこはそれ。そんな男を選んだ自己責任ですわ。働き口なんて、探せばあるものですし、美里さんはまだお若い。他の男をつかまえることだって、できなくはないでしょう。実際、幸利さんはお金払いは良い方でしたから、お金持ちの殿方をつかまえるのはお上手なのかもしれませんわ。お子さんはどこかにお預けになるんでしょうけど」
「なんだかなあ。少子化になるわけだ。男の父親としての能力に依存するなら、女にとって子どもはリスクだ」
「あらあら。それは性差別発言ですわ。まるで育児は女の仕事と決めつけているように聞こえます」
「だが、事実、男は子どもから逃げるではないか。幸利のように」
「臆病な兵士が戦場に残っても錯乱して誤射しかねないのと同じで、育児に臆病な父親はいない方がマシでしょう。大きな子どもが増えるだけです。お金さえあれば不要な男は父親ではないということですわ。もちろん、母親も子育てから逃げ出せるべきです。それを許さない風潮は公正ではありませんわ」
「実の親が二人とも逃げ出すこともあるだろう。それでは誰が子育てをするんだ。おまえはもっと人間というものを知れ」
少年は不機嫌そうに言った。それを見てメイドは、くすり、と笑った。
「わたしは生みの親でなくてもかまわない、と言っているだけですわ。少し前はそうでした。育てられない親は子を手放し、育てられる者が引き取る。もちろん邪悪な者の犠牲になる子も少なくなかったですが、良い養親に巡り会える子もいた。それでいいじゃないですか。親なんてガチャガチャなんですから」
「ガチャガチャ?」
「あらあら。『親ガチャ』をご存知ありませんか? 実の親は選べない、ということを言うもののたとえ、ですわ」
メイドは少年の頬を血だらけの手で撫でた。少年の頬を血が伝ったが、すぐに消えた。
「本当に、ご主人さまは世間知らずですわね」
血だらけメイドと世間知らずなご主人様 rinaken @rinaken
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